細川幽齋の娘・加賀の婿が日出藩主・木下延俊である。延俊が自ら書いたものではないが、慶長十八年一年間の延俊の詳しい行動が見て取れる。
この年延俊は正月を江戸で迎えたが、2月に至り帰国のお許しを得ると京都へ上り、しばらくは京すまいをし、叔母(父・木下家定妹)である高台院(豊臣秀吉室ねね)などとの交流が見られる。8月末には京都を離れ日出へ帰国している。
日記の内容を見ると翌年に迫る冬の陣の気配などはみじんも見受けられない。
この時期、室・加賀はこの世の人ではないが三人の娘の内の二女・於豊(おぶん)が京都に居り、高台院が親しく接している。当時10歳位だとされる。
高台院は延俊の娘一人くらいは京都に置きたいと希望し、於豊は後に北野松梅院に嫁がせている。
長女(於岩)三女(於栗)は日出にあってしばらくぶりに父をむかえた。
慶長十八年の六月十六日の記録には「今日程熱き事ハなく候」とあるが、グレゴリオ歴によると8月2日であり、ちょうど今の時期である。それでも大徳寺に出かけたりして精力的に活動している。
この延俊日記には、細川家関係の記述がたくさん登場する。わが「細川家歴史年表」に反映させようと、該当記事を引っ張り出してご紹介しようと思う。乞うご期待。
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