寛永六年八月七日付の貴田権内宛て忠利書状は、いわゆる紫衣事件後の状況を三齋に報告している。(熊本県史料・近世編二 p12)
一、長老衆無官ニ被成候儀紫野ハ于今無官之通御座候 妙心寺同前又妙心寺単傳と申長老今壹人伊豆之大嶋
へ被遣候 紫野沢庵・玉室之儀先書ニ申上候ことく是も東へ被遣候 江月之儀者同罪にて才覚能候哉于今無事
ニて被居候 諸人何かと申候事
寛永六年九月十三日付の貴田権内宛て忠利書状は、江月に対する江戸庶民の反応に触れている。(同 p12)
江月とは臨済宗の僧江月宗玩(こうげつそうがん)のことである。
一、江月かけ物江戸中やふり捨申候 又大橋ニいかにも結構ニ落書を立申候書様ハかけてわろき物とはし書を仕
一 ふるすたれ 一 ふるけた 一 やせ馬 一 ふるのれん かやうの事を数々書 一のおくニ江月之墨跡
と留申候 江月ハ被上候事も不罷成にか/\敷躰ニて被居候 此上ハ早々紫野へ被歸寺中被申合沢庵・
玉室・新長老衆位之儀御侘言ニ被下候ハゝせめてにて御座候ハんなとゝ申候間若左様ニ成候ハゝ紫野
もつゝき可申と申儀ニ御座候(以下略)
これに対する九月二十九日付の三齋の返事(同 p59)
一、江月掛物江戸中破捨又大橋ニ落書立申候由書様迄具承候 未此分ニてハ腹ノ為不具書様と存候笑候事
一、如此ニ候共江月ハ何共被存間敷存候 恥をかきつけたる人にて候間存ル様ニ者有間敷事
江月もこの事件に連座したが一人許されており、その事が江戸の人々の反感を買っていることが伺える。
連座を免れた原因は何なのか勉強をせずばなるまい。
江月宗玩 こうげつ-そうがん
1574-1643 織豊-江戸時代前期の僧。天正2年11月21日生まれ。津田宗及の子。臨済宗、春屋宗園(しゅんおく-そうえん)の法をつぐ。慶長15年京都大徳寺、のち博多崇福寺などの住持となる。大徳寺の復興につとめ,同寺内に孤篷庵などをひらく。茶道・書画・墨跡鑑定にすぐれていた。紫衣事件に連座したがひとりゆるされた。寛永20年10月1日死去。70歳。和泉堺出身。号は欠伸子,赫々子など。諡号(しごう)は大梁興宗禅師。
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十月廿四日付忠利から貴田権内に宛てた書状には、紫衣事件後の金地院(崇伝)のことを皮肉った落書(?)を伝えている。
一、金地院へ之御返事相届申候 金地院之儀江戸中名をつけ候而山号・院号・寺号本の名をハ不申候
大欲山氣根院せんせう(僭上)寺悪國師如此ニ申候何篇笑止なる儀ニ御座候事
九月の書状に「大橋」が登場しますが、一次資料でこの名称が記された物が残っているとは知りませんでした。この「大橋」がどの橋を指すのか、興味が有ります。
「慶長見聞集」には、「御城の大手の堀に橋一つ懸りたり。餘の橋より大きなればとて、是をば大橋と名付けたり。」とあり、慶長の江戸絵図でも、今の大手門前の橋に「大橋」と記されています。これが、寛永図になると、外堀に架かる常盤橋に「大橋」と記されるようになり、大手の橋は、「元大橋口」と記されます。外堀の「大橋」は、寛永中には常盤橋と改名したようです。
時期的にも、落書が立てられた、という状況からも、恐らくこの「大橋」は、細川邸にもより近い常盤橋の方なのでしょうけれど、いずれにしても見附のすぐ近くに立てられたわけで、寛永期というのは、未だこうした事に寛容だったように感じます。
因みに、この常盤橋は、見附部分が小公園となり、明治に架けられた石橋(日銀の方へ渡る人道、石橋になった為か、常「磐」の字が使われる)が現存しますが、東日本大震災でかなり被害を受け、現在も修復工事中です。その少し南に現在の常盤橋が通っています。
橋の話が出たついでに、以前問題にしたまま未解決だった、細川宗孝公遭難事件の際の江戸城よりの退出ルートについてお伝えします。生田又助覚書により、平川門よりの退出までは、判っており、平川門枡形に、平川高麗門と帯曲輪高麗門の二門が在り、帯曲輪門の方が不浄門とされていた為、どちらの門から退出したのか、という問題でした。結論から言えば、平川高麗門、平川橋からのルートで間違い無いようです。
大和郡山藩柳沢家に残る史料に、登城日に、殿中で急病になり、平川門よりの退出を余儀なくされた例が2例記されており、いずれも供回りの者達は、城外を「平川口」へ迎えに回るよう目付から指示されています。その内の一例は、中津藩の奥平大膳大夫(昌成)の例ですが、この時には、共に登城していた嫡子山城守(昌敦)も付添いを申し出て、これを許されています。この山城守も、「山城守儀は、御玄関より大手江罷出、外通、平川口江相廻り、附添罷帰ル。」と記されていますので、こういう事態の際に使われたのが、平川高麗門の方であった事が確認出来ました。山城守の例から考えると、恐らく又助等近侍の者も、三の丸を付き添って通る事は出来ず、大手門から出て平川門の方に走って回ったのだろうと思われます。柳沢家の史料以外にこうした事例を詳述した物は無いようですので、「生田又助覚書」もまた、非常に貴重な史料だと思います。
もう一件ついでながら、随分前に老朽化で立ち入り禁止になり、震災後は、近付く事も出来なくなっていた新江戸川公園に在る松聲閣(文京区所有)の解体復元工事が、今月半ばから始まるようです。来年9月頃には集会所として復活するみたいです。