津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

直訴でござる

2006-06-13 13:51:43 | 徒然
 ガラシャ夫人の介錯を務めた小笠原少斎のお墓が、何処にあるかをご存知の方は「通」であろう。ある方が掃苔の為に熊本を訪れて数日を過された。その場所がわからず市役所に尋ねられたが、電話口の人はまったく知識不足の上、対応も悪かったらしい。後日そんな話を聞いて放っておけず、違う窓口に電話を入れた。小笠原少斎の名前がピンとこられなかったようだが、丁寧に対応していただき、後刻御返事いただくと共に、資料のコピーをFAXしていただいた。その旨先方にもご連絡し、何とか熊本の名誉を保てたと思う。昨年初頭の出来事である。サイト「日本掃苔録」に、その時の数日の熊本の旅が記されている。
 そのことがずっと頭の中でもやもやしていた。「直訴に及ぼう」と思い、熊本市長の事務所にメールを入れた。じい様は最近過激なのだ。一人でも二人でもいい、担当窓口で的確に対応できる人材の配置をお願いした。数日後事務所の方から、丁重なメールによるご返事を頂戴した。担当課に回して返事をさせるとのことである。私は若い聡明な市長に更に「文化に視点をおいた熊本」を目指していただきたいと、切に願っている。いささかやりすぎたかなーという反省も一寸・・・・ある。
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死蔵?

2006-06-11 09:41:57 | 徒然
 S家文書を見たいと思って、熊本県立図書館へ出かけた。ファイルされたリストを探すが見当たらない。司書の方も一緒に探してくれたが見つからない。「熊本県史料」に僅か4頁ほどの記載を探し出してくれたので、これをコピーしていると、書庫に入っておられた司書の方が、「これでしょうか」と茶封筒にはいった史料を取り出してくれた。日録が入っている。小さな文字で書かれた日録の中に、目指す人の名前が見える。間違いない、S家文書である。「これ以外にこの位あります」と手を広げて指し示される。相当量のものがあるらしい。内容については月曜日にご連絡をいただくことにした。
 さて、その日録についてである。私みたいな物好きが時折尋ねてきて、史料の風通しをするくらいの事なのだろう。私はその内容にも日の目を当てたいと思うのである。何か良い方法は無いのか。今のままでは死蔵、宝の持ち腐れである。
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味噌天神

2006-06-10 10:41:50 | 熊本
 熊本市には、街中を貫通するように路面電車が走っている。熊本市民が云うところの「市電」だが、ちょうど熊本の中心(人口バランス)に当たる所に「味噌天神」という電停がある。熊本市民にとっては、別に気にも留めない名前でもあり場所でもある。昨日外出の折、ちょうど一旦停車の信号待ちをしていると、老年のご夫婦の声が聞こえた。観光客だろうか「変な名前ねー」ただそれきりのことだが、走り出してふと考えてみると「そうだよなー」と妙に合点してしまった。
 周辺の家並みに埋没するような小さなお社の歴史は古く、和銅六年の創建とされる。元々は「御祖天神宮」と言っていたらしいが、一つの伝説がある。国分寺を創建当時、工人たちの為に味噌が納められていた。その味噌が酸っぱくなったのでこれは一大事と「御祖天神宮」にお参りをすると、「味噌に笹を立てるように」とのご託宣、急ぎかえってそのようにするとたちまち元の味噌に還ったと言う訳である。その後「味噌天神」と呼ばれ今日に至っている。境内には笹が植えられているらしいが、恥ずかしながらみたことが無い。「のうみそ=脳味噌」にも良かろうと、学業の神様でもあるらしい。神様も日日発展しておられる。
 蛇足だが「味噌汁」のことを「おみおつけ」というが、何方かの文章に「御御御付け」と書くとあったことを思い出す。いつもの調子で何方のものか思い出せないが、不思議な名前ではある。
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「十八万石の壷-松井康之」

2006-06-09 09:02:12 | 歴史
 当サイトに、「御家創々-松井佐渡守康之・長岡佐渡守興長」「松井家御給人先祖附の人々」を寄稿していただいた御池章史氏が、ご自分のブログ「細川藩MUDA蔵」に「十八万石の壷-松井康之」を発表されている。六月六日を第一回として連日掲載されている。行く行くは小説を物にしたいと云っておられたが、満を持しての公開だと思われる。ブログを御覧になった方はお気づきだろうが、過去のそれぞれのレポートの内容は詳細で、今にして思うと、小説上梓のための情報収集メモではなかったかと思わせるほどだ。頭が下がる。三回分を読んだだけでワクワクしている。毎日が楽しみなことではある。
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梅雨入り

2006-06-08 13:44:18 | 徒然
 昨日の熊本は、光化学スモッグ注意報が出る(びっくり)などしたし、気温も上昇して些かばて気味だった。今日は一転涼しい風が気持ちいい。小雨も降りだしたが、どうやら梅雨に入ったらしい。庭の紫陽花が一段と綺麗に見える。また、八代の松井家・松濱軒のお庭の肥後菖蒲も今が盛りなのだろうか。
   
  むらさきは古武士の色よ肥後菖蒲  伊佐緒
  純白は拝領と聞く肥後菖蒲  きぬえ (くまもと歳時記より)
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「驚き入ったこと」後日談

2006-06-06 23:13:07 | 歴史
 肥後藩士・久野次郎左衛門の、細川家仕官に関する消息が分る佐久間不干齋(佐久間信盛・長男)の文書が、ヤフーオークションに出た事は先にご紹介した。私も少し興味があったが、慢性的金欠病を患っている身としては、成り行きを見守るほか無かった。68、000何がしかが最終値であったようだが、落札者が何方かは分らなかった。実はJH氏からお知らせいただいてから、一二の人に連絡を入れた。その方たちから、それぞれご連絡いただき熊本のMK氏が落札された事が判明した。出すぎたことをしたのではないかと、少々思い悩んでいたが、メールの喜びの文面を見て、杞憂に過ぎたことに安堵の気持ちで一杯になった。そしてコピーを頂戴したい旨を図々しくお願いしてしまった。さてどのような内容なのか、胸をワクワクさせている。ご了解を得て、後日お目に掛ける事ができれば・・・と願っている。
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賽銭

2006-06-05 17:59:55 | 新聞
 6月1日の熊本日日新聞夕刊の、コラムニスト佐野好古氏の一文が面白い。熊本城は築城400年を来年迎えるにあたり本丸御殿の工事が進んでいる。完成祝いに熊本市長は、加藤清正の年頭作法を再現しようとお考えらしい。その年頭作法についてである。「元旦に家臣が総登城し、位の順に清正に賽銭を投げて挨拶をし・・・」とある。そもそも賽銭とは、「神恩に報いる為に奉げる金銭」である。信長ではあるまいし、清正が自らを神などとは思っていなかっただろうが、この行事はどのような経過で発生したのだろうか。賽銭箱が何時の頃から登場したのか知らないが、賽銭箱に投ずるように、「チャリン、チャリン」と投げたのだろうか、興味あるなー。
 下って細川時代ではどうであったのだろうか。投げはせずとも、何がしかの金を届けたという事を聞いたことがあるのだが・・・・
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奢れる者は久しからず

2006-06-05 12:00:19 | 徒然
 元ライブドアの堀江氏に続いて、村上ファンドの村上氏に捜査の手が及んでいる。彼らの手法に対し、「金が全てか」という議論が高まってきた。それでもPCの前に陣取り株取引に終日を過す若者が多いという。所詮「株」はギャンブルだから、堀江氏や村上氏に掛けて損をしたという人に、同情するには及ばない。
 小泉自民党も、いかにも手荒い手法で政局を動かしてきたが、既に死に体、幹事長などは今後さぞかし恨みを買うだろうし、小泉チルドレンなる連中も、次の選挙で消えてなくなる人が数多く出ることだろう。民主党は若さを露呈した。みんな「おごり」だ。消えて無くなれ。
一つの時代の終わりは、また萌芽の刻でもある。
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叔父・甥-№2

2006-06-04 09:53:15 | 歴史
 木下勝俊のご内室は、あの森蘭丸の姉於梅(寶泉院)である。娘は家康五男忠吉に嫁いでいるという。「森家先代実録」によると、勝俊の実父は武田孫八郎信統(後・宮内少輔信重)、生母を三渕伊賀守女也としている。後妻が京極龍子(後・豊臣秀吉側室)である。「森家資料調査会」の佐藤誠氏から、ご教示いただいた。その内容は詳細を極めており、真実に値するのではないかと思うのだが、「勝俊は木下家の嫡子だ」とされる若狭の郷土史家も居られる。真実は闇の中である。
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古文書を読む会・発足

2006-06-03 18:33:17 | 熊本
 熊本の有志が集まり古文書を読む会が発足、第一回の集まりがあった。出席者11名、初回としてはまずまずだろう。テキストは文政四年の、熊本の豪農・弥富家当主の、日光参詣の「道中之記」である。弥富家は、横井小楠を経済的に援助をした家として知られるが、一方徳富蘆花の小説「灰燼」のモデルとなった家でもある。解説を努められた下津氏は下津棒庵のご子孫、荒尾在住の郷土史家である。コピーされた原文と、訓下文とを交互に眺めながら解説を聞く。出席者からの質問なども飛び交い、和気あいあい。その後、出席者の自己紹介もあって、旧知の間柄のような挨拶が飛び交う。次回、またお目にかかる事を約して散会。ほんとに有意義な数時間だった。次回開催日等は、決定次第ご紹介したい。
出席可能な方、いっぱい来てはいよ・・・面白かよ・・・
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叔父・甥

2006-06-03 09:50:03 | 歴史
 木下勝俊(長嘯子)の生母は、三渕伊賀守晴員(細川藤孝・父)女とする説がある(そうな)。勝俊は秀吉室(ねね)の兄・木下家定の長男だが、若狭の武田義統の子・元明の子で、四歳で木下家定の養子になったとされる。生母を京極龍子(のちの秀吉側室・松の丸=京極の局)とする説もある。長嘯子新集は「三渕晴員女」説、若狭守護代記は「京極竜子」説とし、勝俊生母は謎の中にある。
 歌道を通じて細川藤孝と木下勝俊は師弟の間柄であるが、仮に晴員女生母説をとると、二人はは叔父・甥の仲となる。さて真実は・・・

 ちなみに藤孝女宮川は、武田元明の祖父信豊の弟・武田信高室である。
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「さき」なる藤孝の妹

2006-06-01 23:47:50 | 歴史
 藤孝の田辺城籠城に際し、寺の僧十数名と共に駆けつけた、瑞光寺の明誓上人の奥方は藤孝の妹だそうな。私の資料では、藤孝の実家三渕家にも、室麝香の実家沼田家にも、それらしい人が見つからない。元常の娘だろうか?。
 これらの事は、「田辺籠城之書」(丹後田辺志・所収)に書かれている。「さき」という名前は、瑞光寺に伝わる処らしい。   
   両丹地方史「田辺籠城戦記諸本について(一)真下八雄氏より
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