津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

古今伝授のこと

2009-08-12 17:34:33 | 歴史
 水前寺成趣園にある「古今伝授の間」は、現在改修工事の最中である。
     www.kobai.jp/kokin/index.htm
     kokindenjunoma.hinokuni.info/100/110
この建物は慶長五年、後陽成天皇の弟宮・智仁親王に幽齋が古今伝授をした建物とされる。伝授の途中で幽齋の居城が石田三成方の軍勢15,000の包囲をうける。朝廷は和睦の斡旋をするも幽齋は是を拒絶、死を覚悟した幽齋は智仁親王に、古今伝授の箱と相伝証明状を届けたのである。朝廷は勅使を派遣し再度の和睦を斡旋、幽齋もこれを受け入れ開城したのである。

 元亀三年壬申十二月、三丞大納言実澄卿より、古今御相伝可被成との事にて、御誓状を
 被進候、証明状ハ天正四年御請被成候し、抑古今伝授之事ハ、中古鳳闕にも絶たりしを、
 濃州の士東下野守平常縁是を伝得て、紀州之種玉庵宗祗法師へ伝へ、宗祗より西三条
 内府実隆公逍遥院と号に伝ふ、其息右府公条公弥名院と号其息内府実澄公初実世後実枝三光院
  殿と号
より藤孝君に御伝授し也、此時は大納言ニ而候、天正七年正月一ニ天正六年四月と有ハ
  誤なり
内大臣ニ被任、同月廿四日薨、右実澄公より御相伝之節之証明状、御誓状扨又幽齋
 君に御相伝を御受候ひし方々、式部卿智仁親王、中院中納言通勝卿、烏丸大納言光広卿、
 西三条内府公国公
始公光中公明、天正十五年任内大臣、同年十二月薨、号山智院、同右大臣実条公
  雲院と号す 
武家にては嶋津修理大夫義久入道龍白なり、其証明状誓状等之留書を後年烏
 丸資慶卿より細川丹後守殿江写被進(以下略)
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俳句の秘法

2009-08-11 22:19:21 | 書籍・読書
 俳句に大変興味があるのですが、どこかへ出かけて指導を受けるという気にはならないのです。いろいろ本を読んでいるのですが、鷹羽狩行氏のまだ発売前という本を見つけ出し、早速注文を入れました。

俳句の秘法
秀句を作るにはどうしたらよいか。句作生活60余年の著者が秘法を伝授。

[ 著者 ] 鷹羽狩行
[ 内容 ]
平易な入門書の出版、あるいは放送関係の講師として人気を集める著者の最新俳句入門者。俳句の素材と発想、詩趣と品格、上達の秘訣、作句の急所など、秀句を作るための心得を簡潔明瞭に説く、俳句実作への案内書。

     発売日:2009年 09月 07日
     定価(税込): 1575円
     発行元:角川学芸出版

■さらに詳しく 目次

Ⅰ、俳句の素材と発想
   俳句になる素材/素材の新旧/素材と個性/新しい素材/新しい発想
  詩趣と品格
   詩趣とは、品格とは/秀句・佳句の条件/古典性/高度な作品をめざす

Ⅱ、私の初学時代
   俳句は国民的教養文化/俳句少年・橋行雄と季語体験/橋行雄時代の作品/
   山口誓子への傾倒/鷹羽狩行時代へ/俳句は人の世の花

  選ばれてこそ俳句
   選んだ作者との再会/選句の季節に合わせる/選句ということ/解釈あってこその
   俳句/選を受けて分かったこと/冷却期間を置く/句会で選句力を磨く

  類想をおそれるな
   類想と類句/季語は類想のエッセンス/類句にも優劣/類想と類句の違い/他の文学
   との類想/類想をおそれず

  季語と地名
   吉野の「桜鮎」/季語と歳時記の今昔/俳句の国際化と季語/俳枕/地名としらべ/
   外国の地名と俳句/地名の一つも探したらんは

  句の失敗は成功のもと
   俳句ブームの要因/俳句の魅力と難しさ/推敲に次ぐ推敲/十七音の重要性

  一字の違いが大違い
   季語の吟味、言葉の吟味/発想の転換をはかる/印象鮮明な句に/単純化と奥行き/
   より高い完成度を

  俳句か川柳か
   人事句流行の時代/生身魂の句など/無季俳句と有季川柳/川柳と俳句の違い/現代
   川柳と滑稽

  私の一句
   海外俳句とは/メートル法の俳句/海外子どもの俳句/瞬間を永遠に

Ⅲ、俳句上達の秘訣
   古典性と現代性を/季語と定型としらべ/俳句の芸とは/しらべには魔力がある/
   季感を効果的に/得意な季語をもつ/季語への思いを深める/まぎらわしい季語/
   選句には他者の目を/意欲作を投じ、意欲作を選べ/推敲の心得/貯句のすすめ/
   内容と表現の一致を/俳句の効果的な表記/俳句は下五で決まる/詩の新しさとは

Ⅳ、作句の急所
   何を削るか/字句と語順の吟味/季語を変えてみる/単純化をめざす/写生を超えて/
   気負いを捨てる/材料をしぼる/報告は避ける/何を伝えたいか/切字を生かす/
   より即物的に/推敲は上から下から

あとがき
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聚楽第の細川邸

2009-08-11 09:23:34 | 歴史
 聚楽第の中にあった大名邸の場所を解説しているサイトがある。
     http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/yasiki1.htm

 これによると、細川屋敷は『浅野文庫蔵諸国古城之図』、『豊公築所聚楽城址形勝』、『京都市町名変遷史』の三つの資料が一致する大名屋敷だとされるから、ほぼ間違いない場所のようだ。解説ではこの細川屋敷は東西俵屋町だとしているが、ここが現在のどの位置になるのか、私にはとんと判らない。幽齋が亡くなった車屋町とは違う場所なのだろう。また千利休の屋敷についても場所の確定は出来ているらしい。いろいろな史料によると、この屋敷は利休の死後「上り屋敷」となり、その後沼田氏の所有するところとなって、幽齋の斡旋で蟄居後の細川休無(忠隆)の屋敷に成ったとされる。こことて休無の終焉の地ではないように思える。

 聚楽第については私は100%知識を持たないが、少し勉強をしてみたいと思わせるところではある。

 
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光陰者百代之過客

2009-08-10 16:37:43 | 歴史
 細川幽齋が亡くなったとき、家臣にして歌道の弟子でもあった志水伯耆守清久入道宗可が、追悼文の冒頭につかっている。李白の【春夜宴桃李園序】からの引用である。

    奉追悼
  泰勝院殿前兵部和歌并序
  夫天地者万物之逆旅 光陰者百代之過客と云々
  抑
  幽齋尊老は
           ・・・と続いている。

 松尾芭蕉も「奥の細道」の冒頭に引用している有名な言葉だが、その刊行は元禄15年(1702)だというから、遡ること90年ほどまえ(慶長15年-1610)のこの様な文章に遭遇すると、当時の人々の教養に驚かされる。

【夫れ天地は万物は逆旅、光陰は百代の過客なり。而して浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾何ぞ。古人燭を秉つて夜遊びせしは、良に以有るなり。況や陽春我を召くに煙景を以てし、大塊我に仮すに文章を以てするをや。桃李の芳園に会して、天倫の楽事を序す。群季の俊秀なるは、皆恵連たり。吾人の詠歌は、独康楽に慚づ。幽賞未だ已まず、高談転た清し。瓊筵を開いて以て花に坐し、羽觴を飛ばして月に酔ふ。佳作有らずんば、何ぞ雅懐を伸べん。如し詩成らずんば、罰は金谷の酒数に依らん。】
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護煕氏の花押

2009-08-10 12:40:50 | 歴史
 平成5年(1993)8月9日細川内閣が誕生した日である。
短命内閣ではあったが、その誕生は55年体制崩壊の象徴的出来事であった。永く語り継がれることであろう。天下分け目の衆議員選挙のさ中という事もあって、新聞などでも取り上げられることも無くいささか淋しい。
 
 「首相官邸」というサイトを見ると、歴代首相の花押を見ることができる。
     http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/heisei.html
細川護煕氏の花押は、現在もお使いになっておられるのかどうか知る由も無いが、これは専門家の手により作成されたことが某サイトからうかがえる。どうしてこういう形ニ成ったのか良くわからないが、現代的でよいではないか。

 大臣予備軍の方々も、戦々恐々の戦いであろうが、人知れず花押を書く稽古をしている人があるのだろう。ご検討をお祈りする。
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一座のとよみと成りにけり

2009-08-09 14:39:19 | 徒然
 幽齋の或一日である。心安い人たちが集った中での話であろう。高尚な笑いが窺える逸話。
 
 御手前御不如意に御座候故、或時大津の十四屋と申者、金を御持可被成様を教へ可申
 と申上候は、夫こそ望なれ、教てくるるならは、只今銀百枚礼に可遣と被仰候、十四屋夫
 にてハもハやなり不申、其様に金を沢山に御つかひ被成御ふんべつゆへ、びんぼう被成
 候と申て一座のとよみと成にけり

          とよむ【響む・動む】 大声を上げて騒ぐ。騒ぎ立てる。
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細川家家臣・井沢氏/上林氏

2009-08-09 11:29:17 | 歴史
 熊本市上林町の町名は、このあたりに「上林氏」とその組屋敷があったことに由来する。この町にある上林氏ノ菩提寺・宗岳寺に、熊本県古書籍商組合が建立した井沢蟠龍の石碑というものがある。(祖父の代迄上林氏を称し、父の代に本姓・井沢氏となった)
何故同組合がこのような石碑を建立したのか・・・井沢蟠龍は十郎左衛門長秀といい、多くの貴重な著作を残しているが、「肥後文献解題」によると66冊に上っている。「細川御家伝」を初めとして内容は多岐にわたり、肥後近世史研究には欠かせないものばかりである。その故を以ってである。
 この「細川御家伝」は小野武次郎の綿考輯録編纂にあたり貴重な資料となっている。この跋文に、先祖附では窺えない井沢家(上林家)の先祖に附いての記述がある。(綿考輯録・第一巻藤孝公p399から引用)

    長秀、其の先は甲州の人、氏は井沢、居ること凡そ二十世、其の後九郎左衛門
    清景、武田勝頼に仕ふ。長篠の役これに死す。其の子六郎左衛門長景移りて丹
    波の国に居る。波多野下野守秀尚に仕ふ。天正六年、秀尚、織田信長と播州に
    戦ふ。長景これに死す。其の子政景猶丹波の上林郷に在り。波多野家滅るに及
    んで、丹後に赴いて、改めて上林源太左衛門と称す。九年、藤孝公丹後を領す。
    故に政景籍を藤孝公、忠興公に通ず。実は長秀が高祖父なり。其の子政嗣、其
    子政清猶上林を以て氏と為す。其の子勘兵衛永清旧氏に復して、井沢と称す。
    実は長秀父なり。

 この記述及び其の他の史料を綜合すると、上林(井沢)家の略系図は概ね次のように成る。

 井沢清景     井沢長景     上林政景       上林政嗣     上林政春        上林
 九郎左衛門---六郎左衛門---源太左衛門---+--甚助----+--次郎左衛門---+--甚助
                              |         |           |
                              |        |           +--伝右衛門
                              |        |
                              |        +--甚十郎
                              |
                              | 井沢永清      井沢長秀・蟠龍
                               +--勘兵衛--+--十郎左衛門
                                       |
                                       +--貞右衛門

 ところが、次のような記述が綿考輯録に存在し、これには頭を抱えてしまう。
        次郎左衛門二男伝右衛門本苗に復し、井沢伝右衛門と云、慶安三年、別禄
        ニ而被召出、追々御加増、四百石被下候、内二百五十石は嫡子伝右衛門江
        被下候、今之十郎左衛門祖也、百五拾石分知、二男十太夫ニ被下候、今之
        慶助祖なり        (綿考輯禄・巻五--上林助兵衛項)
   
         話がまったくかみ合わず、上記跋文の信憑性が疑わしく思われる

 井澤蟠龍 名は長秀、通称十郎左衛門、亨斎又蟠龍子と号す。元禄十年家を継ぎ撃剣、
        抜刀、柔術をも能くす、好んで長さ三尺三寸も長刀を帯び、質性朴実にして
        邊幅を飾らず、江戸にある日神道に志し、山崎垂加流の奥秘を究め、神道に
        関する著作少からず、平居手に巻を廃てず常に学に通じ通邑大都に就かざる
        を以て憾みとす、然れども当時博学多識を以て聞ゆ、著述極めて多し(中略)
        享保十五年十二月三日歿す、年六十三、市内宗岳寺に葬る。
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「火の国まつり」開催中

2009-08-08 17:47:57 | 熊本
 昨日・今日と「火の国まつり」開催中です。
昨日は熊本城内「藤崎台野球場」での花火大会、私は我が家の窓から時折首をだして見物いたしました。もっとも7~8キロ離れていますが、高台に住んでいますので、ビル超しですがよく見えました。今日は「おてもやん総踊り」が有るようですが、先ほどから雨模様に成りました。夕立のようですが、むし暑くなりそうです。私はといえば一度も出かけたことが有りません。皆さんご苦労さん・・・

      www.hinokunimatsuri.jp
      www.hinokunimatsuri.jp/contents.cfm?id=560
    
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かいつ殿御屋敷

2009-08-07 15:24:10 | 歴史
 熊本市役所の東側に、九州郵政局の庁舎がある。その南側に現在は駐車場となっている広い敷地がある。かって熊本第一高校だったところだ。江戸時代元禄期の屋敷図を見ていたら、その場所に該当する「かいつ」と書き込みのある広い屋敷がある。現在の上通りアーケード街の一つ北側の道筋である。よくよく見ていると、綱利の生母清高院の実家・清水縫殿助の屋敷が近くに在る。これでひらめくものがあった。「かいつ」は「海津」だ。忠利室千代姫の輿入れに小笠原家からついてきた、岩間六兵衛(武田信玄・孫)の内室である。忠利の元で「大局」を勤めた。光尚代もそうであったのだろう。清高院が懐妊した際、光尚は堕胎を命じ尚且つ屋敷を下がるよう命じたというが、六兵衛が諫言し誕生に至ったという。一時期清高院は六兵衛屋敷に留め置かれている。そんなことがあっての六兵衛・海津夫妻は、それなりの発言力と力をもっていたものと思われる。清高院のご乱行に、家老松井興長が辛らつな諫言をしているが、これに対する返事が、この「かいつ」を通じて行われていることからも、この時期まだ「大局」の地位にあったものと思われる。六兵衛は江戸定詰で合ったと思われるが、この「かいつ」の広大な屋敷は、六兵衛死後「かいつ」が國元に屋敷を得たものであろう。綱利の配慮であろうか。かいつの没年は延宝二年(1674)八月である。綱利は32歳である。
忠利-光尚-綱利に仕えた。この屋敷が岩間家に継がれることは無く、「かいつ」の死と共に召し上げられたのであろう。時折つかう駐車場は、曰く因縁の土地だった。
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足利将軍家家臣

2009-08-06 15:55:00 | 歴史
 細川家家臣団を見ると、旧足利将軍家家臣であった家が大変多く見受けられる。
完全に把握できていないがご紹介してみよう。

   松井家 廣之 山城守 従五位下 足利義晴・義輝に仕 大外様衆
         勝之 廣之嫡男・新次郎 足利義輝に仕、近習衆 義輝生害の時討死 
         康之 廣之次男 佐渡守 従五位下
   米田家 求政(橘) 壱岐守 従五位下 足利義晴・義輝に仕
   三渕家 晴員 細川藤孝・実父 伊賀守 申次衆・御部屋頭
         藤英 晴員嫡男 大和守 従五位下 御部屋頭 江州阪本城討死 
         秋豪 藤英嫡男 御部屋衆 父と共に討死
   沼田家 光兼 上野介 足利義昭に仕  
         光長 光兼嫡男 上野介 足利義晴・義輝に仕 義輝生害の時討死 
         清延 光兼四男(?)勘解由左衛門 足利義晴に仕 詰衆
   飯河家 信堅 山城守 
         宗祐 信堅嫡男 豊前守
   荒川家 晴宣
   槙嶋家 昭光(云庵)
   樹下家
   大館家 晴忠
   築山家 
   志水家 新丞
   
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幽齋の京都屋敷

2009-08-05 16:00:17 | 歴史
 幽齋の京都における屋敷について、綿考輯録は次のように記している。

一、一条狠(ママ)橋之西爪(詰)四町四方
一、下京之北ハ綾小路、西ハ高倉、南ハ五条坊門、東は万里小路四町四方也
        右ハ和泉守之守護御用屋敷也
一、細川淡路守屋敷一条狠橋西爪屋敷の隣にて四町四方
        右之通代々御屋敷之由也

 この場所が一体何所なのか皆目わからないでいる。(ご存知の方、お教えください)

 永禄十一年十月十四日足利義昭は、わずか七人の御供衆をつれて六条本圀寺に入り、十五日もここで過ごしている。そして十六日には細川藤孝の屋敷に入った。その細川屋敷は「細川氏綱の屋敷跡」だとされるが、上記のことであろうか。そして十八日義昭は将軍宣下を受けるのである。

そして翌年織田信長は義昭の為に御所の建設を始める。細川屋敷の庭にあった名石「藤戸石」を綾・錦で飾り立て、三・四千人の手によりにぎやかに新御所の庭に引き入れたという。後にこの名石は聚楽第に動かされ、後又秀吉の命により醍醐寺三宝院に運ばれた。

   【藤戸石】    members.jcom.home.ne.jp/seiwaen.asano/sanpouin.htm
   【細川氏綱】   ja.wikipedia.org/wiki/細川氏綱
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一天にわかに掻き曇り・・・

2009-08-04 15:56:06 | 熊本
 梅雨明け宣言も無いままこのままいくかと思っていたら、九州も突然の梅雨明け宣言。
ところが熊本は皮肉な事に三時前突然の雨、風神・雷神もお出ましになって一しきりである。
昨日は一日中クーラーの中で過して、今日は体がだるくて仕方が無い。
おまけに晩は、地震で揺られて心臓にこたえた。
台風のニュースも聞えてくるし、梅雨明けとはいえお天気の方はぐずぐずが続くのだろう。

      暑中御見舞い申し上げます    津々堂
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好物は・・焼き鳥

2009-08-03 17:19:40 | 徒然
 リチャードギア主演の「忠犬ハチ公」のリーメーク米国版「HACHI 約束の犬」を、愛子様がご両親殿下と御覧になった。あの話は「作り話」であったことはご存知だったろうか。すっかり渋谷のランドマークとさえなっているハチ公だから、いまさら何をとも思うが・・・日本エッセイスト・クラブ編のベストエッセイ集「’88年版」に、作家・林秀彦氏の「父がデッチあげたハチ公伝説」という一文がある。昭和五年のことだと言うが、罪なことをなさったものだ、話には尾ひれがついて「修身の教科書」にのり、ヘレンケラーはハチ公血縁の秋田犬を連れ帰ったという。主人公上野英三郎氏の飼い犬には間違いないようだが、渋谷に出かけるのは焼き鳥屋の残りものにありつかんが為だったらしい。
 実はウィキペヂアを覗いても、この真実には触れていない。遺骸を解剖したら、焼き鳥の串がでてきたとしているが、このあたりが真実だろう。

 リチャードギアが「HACHI」などと呼びかけて、秋田犬を抱きかかえているが・・・「好物は焼き鳥ですよ・・・・・・」
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細川家家臣・大木氏

2009-08-03 09:10:06 | 歴史
 かっての肥後国主加藤家家臣が、どのくらい細川家の家臣として召し出されたかを調べたことがある。綿考輯録によると、これも加藤家家臣だった日下部(志水)元五が尽力したと記している。私の調べたところでは95人ほどになったが、細川家の侍は950~1,000人位だとされるから約一割にあたる。加藤家十六将と称えられた森本儀大夫・庄林隼人佐・貴田孫兵衛や、飯田覚兵衛・小代下総守・出田宮内少輔・下津棒庵などの本人若しくは子息たちが再仕官した。その中に大木兼友の名前も見える。
兼友の父・兼能は、織田信長の兄・津田信広と一族十数名を討取り高名した。佐々成政の侍大将として肥後に入ったが、成政没落後加藤清正に仕えた。内室は清正の側室竹の丸の妹だとされる。清正に殉死し、清正廟(本妙寺浄池廟)を守るように兼能の碑が建てられている。

   加藤清正
      ∥
  +--竹の丸     有吉英貴---+---英安=====直常------------→ 有吉家
  |                   |
  +---●               +---たつ
      ∥                   ∥  
   大木兼能-----+---兼友--------兼憲---+---憲近===兼賢----→ 大木本家
             |                 |  
             +---●             +--直常有吉英貴養子
                 ∥-----→      |
   佐々成政===備前---平馬            +--兼賢兄兼近養子
                               |
                               +--幸周-----------→ 大木分家
         肥後佐々家(佐々友房等)
           水戸佐々家(佐々助三郎等)

 旧加藤家家臣の内での、一番の大身(兼近5,500石)となった。
           
          
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カウント

2009-08-02 10:35:47 | 徒然
 侍帳に掲載している「家」「その他の個人」の数を確認する作業を始めた。画面をスクロールしながらカウントするのだが、これが意外と大変だ。正確を期す為に二回カウントすることにしたが、合わないと三回ということになる。マウスのクリックと画面のスクロールがうまく行かないことが度々で、お(を)まで一時間以上費やしてしまった。2050家くらいではないかと推測していたが、大幅に越えそうな気配である。ご報告が何時になるのか・・・最近すっかり根気を失いつつある小生としては、安請け負いできない処である。

   追記:結果発表
      諸家・・・・2,020家
      その他の個人・・1,598人  三時間かけてカウントした結果、以上のようになりました。
                                                    17:05

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