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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■智照院殿

2016-02-19 11:12:02 | 歴史

 これは細川家の菩提寺・妙解寺の総絵図である。左下の表示部分に、かっては図示のごとく「智照院」があった。
智照院とは細川光尚の異母弟・尚房の謚名である(智照院月江義心)。この場所は平成18年、九州新幹線の計画に伴う道路の位置変更の計画に伴い、尚房一族のお墓(上部)の発掘調査が行われた。当時の新聞は尚房よりも生母である永壽院のお墓の方が立派で、側室の立場が重んじられたと報じ、尚房の死に当たっては藩内での立場を表すようにお墓が貧弱であると報じている。大名一族のお墓の発掘調査は珍しく、その成果は「智照院細川家墓地 花岡山・万日山遺跡群第1次調査区発掘調査報告書」としてまとめられている。

尚房は光尚の18歳年下の弟である。光尚の死に当たってはその遺領の国替案・二分割案・三分割案などが取り沙汰された。
その三分割案に登場したのがこの尚房である。老中酒井讃岐守の強力なリードによって二分割案が進められていたようだが、宇土藩主の丹後守が諫言の為に江戸に赴いた家老を殺害したとされ、これが二分割案の頓挫に繋がったのではないかと私は考えている。
同時に三分割案や国替案も消滅したのではないか・・・・
尚房は寛文五年新知二万石を給されている。尚房28歳、新藩主綱利は24歳であった。
尚房室は肥後国の存続の為に死をかけて奔走した松井寄之の女・万であり、その子尚方も20歳で亡くなり一族は断絶した。
報告書に詳しく記載された記事の一つ一つが、なんとも哀れをさそう。
今は墓地も妙解寺内の別の場所に移設されているが、この智照院の場所に何らかの説明板など設置すべきだろうという方が居られる。
もっともの事と考えるのだが・・・・・
 

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■御恵贈御礼・THE RAIBOW ACROSS THE BOUNDARIES

2016-02-19 09:32:00 | 書籍・読書

 著者はわが熊本史談会の会員でもある、出井ヤスコ氏である。今般このような立派な著書「境界に架ける虹」の刊行に当たりご恵贈たまわった。
厚くお礼申し上げると共に、深く敬意を表したい。
氏はお茶の水女子大・英文科を出られた後、地元高校の教師を20余年勤められ、その後尚絧大学講師に転じられた。定年前に退職されると英文学研究の為に米国モンタナ州立大学に進まれて、「ネイティブ文学」の研究につとめられた。まさに情熱にあふれての行動であったようだ。
その成果は、アメリカ先住民の歴史や文学に深い憧憬と理解をもってこの著書の上梓に至っておられる。
わが史談会でも平成25年7月の例会において、お話をお聞きした事があった。史談会に会員として在籍いただいている事をありがたく思う。
 

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■お安く読む・中公新書「古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人」

2016-02-18 20:59:35 | 書籍・読書
     古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人 (中公新書)
 
                         中央公論新社

内容紹介

信長や秀吉に仕えて勲功をあげ、千利休の死後、特異な芸術センスで一世を風靡した武将。「ひょうげもの」と呼ばれた男の実像に迫る。


第1章 一大茶人に至るまで―生誕から信長時代
第2章 利休の門人となる―豊臣政権確立期
第3章 師の側近として―天下人秀吉の時代
第4章 天下一の茶匠―関ヶ原合戦前後
第5章 巨匠の死―大坂夏の陣まで
終章 織部の実像

内容(「BOOK」データベースより)

織田信長に仕えて調略の才を発揮した古田織部は、のち羽柴秀吉に従って天下取りに貢献。他方で茶の湯を千利休に学んで高弟となる。利休死後、特異な芸術センスで桃山文化に多大な影響力を及ぼし、公武にわたる広範な人脈を築いた。だが、大坂夏の陣で豊臣方への内通を疑われ、幕府から切腹を命じられる。その死の背景に、徳川政権の盤石を期す家康の思惑はなかったか―。美の世界に革命をもたらした稀有の茶人の実像に迫る。

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■松寿庵先生・第179講

2016-02-18 17:59:34 | 史料
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■「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その五(了)

2016-02-18 08:54:33 | 史料

 ここからは綱利の肥後国遺領相続の決定に至る断階で、宇土支藩の中でおきた不幸な事件についてである。
此の文書が「秘書」と題して密かに書き残されていたのは、まさしくこの事件の不透明さが物語っているように思える。
永青文庫の「秘書」と、ここで引用している上妻文庫所載の「梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記」には随分違いが見える。
其の部分に付いては「秘書」を引用して( )書にて補足することとする。

これは肥後国二分割案(本家40万石・宇土支藩14万石)の話が宇土へもたらされたため、家老の福地平左衛門が急ぎ江戸に上り若い藩主を諌めた処、立腹した藩主により殺害されたというものである。

「梅原丹七」の項にあるように、酒井雅楽頭は随分宇土支藩に力入れをしていたらしい。娘婿とも考えていたらしい。
綱利に旧知のまま54万石が与えられたのは、この事件が原因しているように考えられる。
丹後守が忠興の養女・三(源立院)を正室に迎えるのはこの直後かと思われる。
 

宇土丹後守様御
手寄之御老中江御秘事之筋有之候 肥後半国
御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形手遣
出来寄之由早打飛脚を以宇土到来 彼御家老を初
御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦
至極歓候處 福地平左衛門ハ扨々是ハ大切至極之出来ニ而
御家之滅亡此節ニ極り候程次第ニて御本家ニも可被

為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届千万拙者直ニ
(江戸江罷越身命を差上可奉諫とて直ニ打立極々早打ニて十三日四日振ニも江戸へ着候由 左候て小屋ニ不寄直ニ御館え罷出御目見を願 御直ニ
奉諫之由曽て御承引無之小屋ニ引込居候様ニ
被仰付候ニ付不得止引退ニ翌日尚又出勤押而御目見
奉願如前日強て御諫申上候処御立腹ニ而御手打
被仰付候由
   但一説ニは翌日御呼出ニ而御手打被仰付候共申候 殺候
   人は剣術者名を失念兼々御意ニ叶御座候御側ニ罷在候
   由 其節も御差図ニ而右之浪人切候由初太刀は切損シ
   二刀ニ切留候由也
右之事御母公様被聞召以之外逆鱗ニ而御目通不被成
様ニと被仰一年餘御對面不被成由 左候而丹後守様
従 公儀江為召候ニ付而御出仕之御支度ニ而御式臺
迄御出被成候處平左衛門が亡霊切害被仰付候節之通ニ而
キツト御式臺之真中御通筋ニ座着罷在候を被成御覧候而
忽御気絶候様ニ被為見 御出仕相止ミニ而其後御気分
不被勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極々秘事乍ラ
如何して式部殿被成御聞候歟 其節段々御手前之
御老中様江被仰達候とも有之 八代ニは委キ御記録も
有之由咄傳申候 左候而其以後御末家ゟ御代替ニは
奉對御本家隔意を企申間敷段 八代江誓紙を
被有御取候由承り傳候 勿論此儀は古老咄傳ニ而虚
實之儀は存不申候
   但福地屋敷其後他人居住仕事難成とて
   二十年(以前)迄は囲ニチンチク竹垣にして明屋敷ニ
   なり居よし

近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭候
ニは町在之者参詣被成御免由農商人も多参詣
仕よし此相殿ニ福地を御祝被成候由宇土町邊之下説
之由ニ而是以虚実は存不申事 月翁様之
御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名
と仰付福永平大夫と申候 外ニ今一人地下何某と改名
被仰付両人共百五拾石宛ニ而新規ニ被召出候 福地
名字を二ツに分其跡被成御立候 思召之由ニ候事
丹後守代ニ福地之霊を神ニ祝江戸二本榎下屋
敷内ニ小社を建立霊神宮と崇申候 宇土ニは
無之候 祭日六月三日也

福地之名跡壱人ハ柴崎勘左衛門二男ニ而知(地)本■右衛門と
申候 江戸宇土ニ分相建申候 瀬兵衛・勘右衛門共ニ
家老役也
  以上 

 


 

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■G2◇古書状《細川慶順(韶邦)》真筆花押 《稲葉伊予守》宛

2016-02-17 07:28:59 | オークション

                      G2◇古書状《細川慶順(韶邦)》真筆花押 《稲葉伊予守》宛

                      G2◇古書状《細川慶順(韶邦)》真筆花押 《稲葉伊予守》宛

                  

  慶順公は以前「護順」と名乗っていたが将軍家慶の御字を頂戴して、慶順と名乗る事に成る。「韶邦」を名乗るのは明治改元直前の慶応4年4月23日からだ。徳川家から拝領した御字を避けたいという想いからだろうか・・・・
明治9年に42歳で亡くなくなるから、名乗りとしては「慶順」がずっと長かったわけだ。

稲葉伊予守とは、豊後臼杵藩14代の稲葉観通だと思われる。幼くして天保16年(1845)藩主と成り文久2年(1862)25歳で亡くなった。
慶順は万延元年(1860)に藩主の座に付いているから、それから文久2年(1862)までの二年の間に書かれたものであることが判る。
稲葉家はさかのぼると、忠利の妹・多良が稲葉一通に稼している。古い付き合いがある両家である。

私が解説を付ける筋合いではないが、謎解きが面白い故にである。 

 

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■「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その四

2016-02-16 08:30:27 | 史料

一同年四月十七日 阿部豊後守(忠利)殿より 田中主殿頭(吉官)殿 松井式部(寄之)・長岡勘解由(沼田延之)儀御用有之候間 両人召連 翌十八日辰
  之
刻御登城候様ニ 松平阿波守(蜂須賀忠英)殿も 御一同御登城被成候様ニ 主殿頭殿を以被仰渡候段 主殿殿より式部・勘解由被仰下候 依之
  御屋
敷中如何可被仰付哉と 何れも気を詰罷在候由 若異候儀被仰出も御座候ハヽ 綱利様を兼而内決仕候通 高野山江奉入覚悟ニ而 式部・勘解由
  供之者
迄も 直旅行之用意仕せ候由 左候而 翌十八日阿波守殿・主殿頭殿御両人 式部・勘解由被召連登城御座候処 井伊掃部頭(直孝)殿・酒井讃
  岐守(忠
勝)殿・松平伊豆守(信綱)殿・堀田加賀守(正盛)殿・阿部豊後守(忠秋)殿御列座ニ而 讃岐守殿 式部・勘解由 綱利様御儀御遺領無相違
  被仰付旨 委
細上意之趣被仰渡候ニ付 定而山川海共ニ万事如先規 被為拝領ニ而可有御座候哉と 両人口を揃申上候処 其通との御事ニ付 扨々難
  有仕合奉存候段
御受申上候 上意之趣 事長キ御事ニ而 若承違も可有哉と 則於殿中 式部矢立ニ而紙面ニ相調へ 阿波守殿・主殿頭殿へ懸御目 其
  上ニ而讃岐守殿
懸御目候処 無相違由被仰聞候 此度は御大切之御様子段々御座候得共 首尾能相済申候 此外委細之儀省略仕候 式部・勘解
  由讃岐守殿被仰渡候
上意之趣 熊本申越候 式部自筆之書附

    慶安三年卯月十七日 阿部豊後守様より田中主殿頭様を以被仰下候は 長岡式部少輔・長岡勘解由左衛門両人 明十八日辰之刻ニ主殿頭様被
    召連 御城江可罷上之旨被仰聞候 松平阿波守様も主殿頭様を以被仰渡候之由御座候 依之式部少輔・勘解由左衛門 十八日辰之刻ニ主殿頭
    様御供仕 御城江罷上候処 井伊掃部頭様初 其外段々御列座 阿波守様も其御座敷へ被成御出 式部少輔・勘解由左衛門被召出為 上意讃岐
    守様被仰渡候は 肥後守儀被成御取立候ニ付而 御奉公をも可仕覚悟と被思召候処 不慮ニ若年ニ而相果 御不便ニ被思召候 就夫諸目之御仕
    置早々可被仰付候処 依御違例 只今被仰出候 肥後国之儀御手端 其上大国之儀ニ付 六(綱利)事幼少之儀に候条 所替をも可被仰付候得共
    三斎関ケ原之時分 奉対御当家一筋ニ御忠節仕 其以後越中守御奉公可仕躰ニ被思召候ニ付而被成御取立 肥後国へ被遣候処 無程相果 扨
    又肥後守儀年若候へ共 御奉公をも可仕者と被為及御覧候故 越中守跡職無相違被仰付
弥以肥後守御奉公一筋之者と被思召候 就中相果候
    刻之申置ニも 代々御取立之儀ニ御座候得共 御奉公も不仕 千万迷惑ニ奉存候 然者幼年之悴ニ跡職被仰付 又候哉御奉公も不仕候様ニ御座
    候得は 猶以迷惑至極ニ奉存候条 御国之儀は差上 悴両人御座候 両人御奉公をも可仕様ニ罷成候ハヽ 至其砌被為叶御覧候通被召仕被下
    様ニと申上候 代々ケ様之御奉公振 殊ニ相果候刻御奉公之道をも忘却不仕 子共儀にも無構 御国を差上申段神妙ニ被思召候 依之 六儀幼少
    ニ候へ共 肥後国無相違被仰付候間 奉得其旨 六幼少之事ニ候得共 此段々具ニ可申置候 実子無之候得は養子をも仕 跡職之儀何角申事も
    御座候得共 肥後守儀今度之申上様御取立之 肥後守ニは尤ニ被思召候ニ付 如是被仰出候条家来之者共も難有奉存 六御奉公をも仕候様
    随分守立可申候 小笠原右近大夫儀は 六と間柄之事ニ候 幸近国ニ罷在候間 折々肥後国見舞候様ニと被仰付候間 仕置等之儀は談合仕
    度儀共相尋 可致沙汰候 其上 六事御懇ニ被思召候条 御目附をも可被遣候間 左様可相心得旨被仰渡 御座敷を罷立候得は 被召返 重而被
    仰候聞候ハ 六丸被召出可被仰聞候へ共 幼少之儀ニ候間 両人被召出被仰聞候 追而御目見も可被仰付旨 上意之由被仰聞候 右之趣早速
    御国へ申遣 家来之者共難有奉存 諸事精を入候様被仰聞候 右上意之趣 卯月十八日於殿中 酒井讃岐守様被仰聞 謹而承知仕 御座敷罷
    立申候 左候而阿波守様・主殿頭様御退出 直ニ此方上屋敷被成御越 此御両所様と稲葉能登守様 殿様御同道被成 掃部頭様・讃岐守様・
    加賀守様・伊豆守様・對島守(阿部重次)様御礼ニ被成御出 式部少輔・勘解由左衛門も御供ニ致参上候 翌十九日之朝 田中主殿頭様・曽我
    丹後守様・同又左衛門(近祐)様御供仕 先讃岐守様致伺公候処 御前ニ被召出 昨日之上意共難有可奉存由再三被成御意候 其上ニ而又被
    仰聞ハ 肥後守縁辺之儀 越中守存生之時分被申上候は 一筋ニ御奉公仕上度奉存候間 肥後守縁者組之儀不被仰付候様ニと被申上候ニ付
    烏丸殿息女被致祝言候 然処彼之息女死去ニ付 肥後守代ニ成り 縁辺之御内証も雖有之 越中守如申上 肥後守も達而御断依被申上 縁者組
    不被仰付候 ケ様之儀も被成上意候得共 上意多候故 讃岐守殿態ト被仰除候由被仰候 夫より伊豆守様致伺公候処 御懇ニ被仰 昨日之上意
    之様子 主殿頭様・丹後守様被成御物語 此外何も不残御礼伺公致候 右讃岐守様被仰聞候通 私共は如是覚申候 御口上事永々御座候つる
    間 前後仕たる事も可有之候得共 畢竟相違之儀は有御座間敷候 以上
    慶安三年
      己卯月十九日         長岡勘解由左衛門
                        長岡式部少輔  

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■お安く読む・岩波ジュニア新書「姜尚中と読む夏目漱石」

2016-02-15 10:15:22 | 書籍・読書

 先に新しい「くまもと・文学歴史館」の館長に服部英雄九州大学教授が就任されることを書いた。
それを読んだ悪友が電話をしてきて、熊本県立劇場の館長に姜尚中氏が就任された事は知ってるかとのたまう。
知っていると答えると、この「姜尚中と読む 夏目漱石」を読めと進める。本を紹介するとは珍しいことだが、素直に承る事にした。
今年に入ってから「吾輩は猫である」を精読しようと頑張っているが、中ほどで頓挫している。
少々、小休止して 姜先生のご高説に触れたいと思っているが、中高校生を対象にしたジュニア新書ではないか。
少し馬鹿にされたようにも思えるが、悪友も読んだというのだから良しとしようと、変に納得した。 

 姜尚中と読む 夏目漱石 (岩波ジュニア新書)
 
                     岩波書店

内容(「BOOK」データベースより)

『こころ』『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『門』…広く知られた漱石の小説ですが、じっくりと読んでみたことはありますか?鋭い社会へのまなざしや深い人間洞察には、読み返すたびに新しい発見があります。漱石作品を心の糧にしてきた著者と一緒に、100年以上読み継がれる奥深い魅力を味わってみませんか。

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■細川藩家中ことば

2016-02-15 06:41:06 | 熊本

 司馬遼太郎氏は細川護貞様との面談を経て、その著「春灯雑記」で「護貞氏の話 肥後細川家のことども」を86頁を割いて詳しく触れている。
そんな中で護貞様は「家のなかのことばは、むかしからずっと肥後弁でした。ですから私の肥後弁のほうが、いま熊本でつかわれている肥後弁よりふるいかもしれません」と仰っており、これには司馬氏も驚いている。

さてお殿様が使われた肥後弁とはどういうものであったろうか。随分以前の熊本日々新聞の記事に面白い物があった。
資料を整理する中で見つけ出したのでご紹介する。これは昭和53年(?)、熊本大学文学部の生徒が卒論で取り上げた明治後期(?)の「肥後弁」とされるものである。
「乙葉家」の会話が取り上げられているが、大変雅にとんだ言葉である。お殿様の日常の会話も、このような物ではではなかったかとふと思った。
 

               

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■河原ノ者・非人・秀吉 vs 蒙古襲来

2016-02-14 17:22:26 | 書籍・読書

河原ノ者・・秀吉  蒙古襲来

 先に新しい「くまもと・文学歴史館」の館長人事が報じられたが、九州大学の服部英雄教授が就任されるとのことに驚いてしまった。
教授の著に上記の著作がある事は、以前から承知していたがこれは読んでおかずば成るまいと思っている。 

     ■河原ノ者・・秀吉
        の世界に身を置きながら関白にまで昇りつめた秀吉。あらゆる史料を熟読し、秀頼は秀吉の実の子ではないことも立証。
        被差別民の新たな活動と役割を中世の視座から明らかにする。

          ■蒙古襲来
        「神風」が吹いた。果たして、それは真実か。『蒙古襲来絵詞』には、暴風は描かれていない。太平洋戦争以前、日本が他国か
        ら攻撃を受けた唯一の戦いである、と言っても過言ではない「蒙古襲来」に関する通説こそは、砂上の楼閣だった。
        第66回毎日出版文化賞受賞後、渾身の話題作刊行。
           

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■「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その三

2016-02-14 10:00:36 | 史料

一長岡興長より同寄之申含候密意之趣 於江戸猶又寄之 梅原九兵衛得と申聞候 九兵衛 酒井雅楽頭殿参上仕直ニ申上候は 今度肥後守(光尚)
  病死仕 六丸(綱利)儀ニ付国元家老共御内々ニ而奉願候儀御座候 則長岡式部と申者罷越居申候 其子細は 六丸儀幼少ニ而御座候ニ付 何とやら
  肥後守跡式を御減少可被仰付歟の趣風聞仕候 弥其通ニ御座候哉 何卒御取成を以 如先規無相違被為拝領候様ニ奉願儀ニ御座候 又細川帯刀方
  江分知仕候様ニ可被仰付様ニも相聞申候 ケ様之儀実説ニ而御座候得は 先祖 幽齋(藤孝)以来 殊更 三斎(忠興)儀は先年関ケ原表之一乱ニ付度 
  々御奉公相勤 御代々御懇意ニ被仰付 相続而越中守儀も右之趣旁ニ付 肥後国一円ニ被為拝領候処 越中守(忠利)・肥後守(光尚)共ニ短命ニ而御
  座候段 可仕様も無御座候 今度分知等被仰付候は 長岡佐渡を初 家中之者共一円ニ承伏難仕候 若被仰出候上ニ而 何かと愚意を申上候様御座候
  得は 恐多奉存候 依之御内意申上候 如前々一円ニ被為拝領候様 六丸様守り立 御奉公仕候様仕度奉存候 此段私を以申上候 若願之通難相済趣
  ニ御座候ハヽ 私ニ屹ト了簡仕候様ニと申付候段申上候処 雅楽頭殿被仰候は 其方了簡とハ如何仕候哉と有之時 九兵衛懐剣を取出し 鞘半抜出し
  右之手に持 左之手ニ而雅楽殿可取附躰ニ而 此のことく仕候より外ニ了簡とてハ無御座候と申候得は 雅楽頭殿やれやれ九兵衛かたくるしや 肥後
  国一円ニ被為いては可相済哉 国士ハ扨々かたましとて御笑被成候ニ付 何か扨 其通可被仰付をと被仰候時 九兵衛飛下り 謹而御請申上御厚情之
  段 六丸儀成長之上難忝可存候 家老共初家中之者安心仕候儀 於私難有仕合奉存候段申上罷帰申候 委細寄之申聞候段 興長申越候 

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■「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) そのニ

2016-02-13 09:25:12 | 史料

一同(慶安)三年正月 長岡佐渡興長於八代 年頭之礼式相済候上 出府仕居申候処 旧蠟 光尚様於江戸御所労之処被為為及御大切 同廿六日被遊御逝
 去候趣 江戸より追々早打を以申越候処 天気悪敷 海陸共隙取正月九日於熊本着仕候 且又続助左衛門・柘植勘平も同日ニ着仕候 早速興長宅長岡監
 物(米田是季)・長岡式部(松井寄之)・米田左馬允(是長)を初 御小姓頭・御奉行等何も寄合 先早打を江戸へ差立申候処 又々早打着仕小笠原右近大夫
 殿より興長へ御状を以 此節急度江戸可馳来旨被仰下候 其子細は 綱利様御幼稚ニ被成御座 肥後國之儀は西国筋ニ而も様子有之 其上酒井雅楽頭
 (忠清)殿 兼而 細川帯刀殿取立御縁被結度御内存之由ニ而 今度 光尚様御遺領之内四拾万石 綱利様へ被宛行 拾四万石は帯刀殿被下 綱利様御
 後見可被仰付哉之趣ニ付 右之通被仰下候処 興長儀はケ様之節 御国にしかと可罷在候間 監物江戸罷越可然旨 興長より申談候処 六丸(綱利)様御
 登城可被遊候 其節御供可仕者 佐渡より外ニは有之間敷候 其上右近大夫殿より被仰下候趣も有之候付 旁以佐渡参府可然由何も申候得共 承引不仕
 候付 何れも一同ニ 此節ハ佐渡罷越可然候半哉と達而申候故 得と了簡仕 其通ニも可然哉と申候而 其席之決定は不仕候 然処 大坂町奉行曽我丹後守
 (古祐)殿より興長御状を以 光尚様御逝去ニ付而は 佐渡儀急度参府可仕旨 小笠原右近大夫殿より被仰越候由御聞届候ニ付 能々被在了簡候処 佐
 渡儀は必御国ニ罷在 江戸は別人差出可然由 縦御国を出候とも途中より可罷帰候 其趣は丹後守殿より右様近大夫殿は 委細可被仰入由被仰越候ニ
 付 則又々興長宅江何も寄合重畳申談候 此節監物儀は持病差起候由ニ而罷出不申候 右丹後守殿御紙面之趣ニ任せ 佐渡儀は弥御国ニ罷在 同姓式
 部寄之ニ長岡九郎兵衛(三渕之直)相副 急度江戸罷越候様 一決仕候 御国中末々迄も何角と批判仕 至極危き御事と甚気遣仕候由 佐渡儀は始終之
 事を思慮仕 寄之密意を委細ニ申含 寄之即夜罷立申候 都甲太兵衛儀は当時鉄炮頭ニ而武功有之者ニ付 今度寄之差添江戸へ罷越候付 且又梅原
 九兵衛儀は柳生但馬守(宗矩)殿御門弟ニ而剣術修練仕候者 忠利様御代浪人分ニ而被召出 光尚様御附被成 有馬御陣之節も能相働 当時御使番ニ
 而今度江戸より被差下置 江戸表功者ニ有之 御大名方ニも御存知之者ニ而 酒井雅楽頭(忠世)殿御出入も仕 興長 兼々九兵衛心底をも能存知居申候
 ニ付 則呼候而 江戸表之躰を得と承届 興長存念之趣委細申含 於江戸雅楽頭殿興長密意之趣申上 若御承引無之躰ニ候ハヽ彼御所ニ而致切腹候様ニ
 と申渡候処 奉得其意候 此節之御奉公と奉存候間 随分心を合相勤可申段申達候ニ付 則太兵衛・九兵衛両人共ニ式部・九郎兵衛一同 江戸差立申候
 興長儀は御国之儀万端手当仕 江戸より之御左右相待申候 

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       松井寄之が国元を出立するに当たり書き残したのが ■興長殿へ寄之殿遺書(一) ■興長殿へ寄之殿遺書(二・了) である。

 

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■「細川家家中式法」熊本細川藩  細川斉茲 写本 和本 ・ 他

2016-02-13 07:47:09 | オークション

「細川家家中式法」熊本細川藩  細川斉茲 写本 和本  「細川家家中式法」熊本細川藩  細川斉茲 写本 和本


「細板記」 熊本細川藩 細川宗孝 写本 和本   「細板記」 熊本細川藩 細川宗孝 写本 和本

     延享四年八月十五日川宗孝は江戸城中で、寄合倉勝該に刃傷に及ばれ死去する。その顛末を記したものである。

 

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■「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その一

2016-02-12 14:45:02 | 史料

 これは堀平左衛門が書き残したものだが、正式には「秘書」(永青文庫)と名づけられている。上妻文庫に書写史料があるが、ここでは「梅原丹七・福地平左衛門 一件略記」とされている。光尚の死からその後の必死の対応や、これに伴う不幸な事件( 福地平左衛門の殺害)などが取り上げられている。

一光尚君忠利公之御子ハ 御天性殊にさがしくまし/\けれは おほやけの御覚もふかく 人々のもてなしも他
  に異りけるが、不幸にして御年若く かくれさせ給ひけれハ 世の中灯のきへたる如く 皆人思ひかなしみ
  けり かく御年わかくすきさせ給ひむれハ 御曹子綱利公も 皆程は いまた御二才にて渡らせ給ひ 御
  代継の事につき 年寄達深き心遣ひの事ありける 此事もとより機密の事なりけれは 世の記録なんともふ
  つヽかなりけるを 故ありて 堀勝名のひそかにあつめ 録しおかれけるを 此程もとめ得て 左に写し置ぬ

            真源院殿光尚公亜
            妙應院殿綱利公
一慶安二年十二月下旬 光尚様於江戸御所労之処 被為及御大切之御様躰ニ付 小笠原右近大夫殿 小笠原右近将監忠真事歟 小笠原右近大夫ノ妹ハ忠利公之御台様にて 
  光尚君之御母様也
始終御附添被附御心候 其外御一門様方被成御詰候 此節長岡勘解由左兵衛(沼田延之)相詰居申候ニ付 追々早打を以て御国申越候
  同廿四日 家光公上使として 酒井讃岐守(忠勝)殿御出 御懇之被為蒙 上意候ニ付 被遊 御対面御請被 仰上候上ニ而 讃岐守殿被為 仰合候は 不
  肖之私儀大国被為拝領置 御厚恩之程難有仕合奉存候 依之 平生何とそ相応の御奉公をも勤申度念願ニ而罷在候処 ケ様成ル大病ニ而残念之至ニ奉
  存候得共 可仕様も無御座候 悴両人居申候得共 幼年ニ而未御奉公相勤可申躰無御座候 私果候以後領国之儀は差上可申候 悴共儀は成長仕候上に
  て 御奉公をも可相勤躰ニ御座候ハヽ相応ニ被召仕被下候様 此段御聞置可然様御取計頼入候段 委細被為入 御書附をも御渡被遊候ニ付 讃岐守殿御
  感涙ニて御退出被成 此旨達 上聞候処 殊之外無心元被思召候由ニ而 松平伊豆守(信綱)殿 其後阿部豊後守(忠秋)殿為上使御出候得共 難被遊御対
  顔 同廿六日被遊御逝去候 右御国被差上候との御儀ニ付 讃岐守殿へ被為仰入候趣御書附写 且又御国之儀ニ付 無異儀差上可申旨 続助左衛門・柘
  植勘平両人御国へ為御使被差下 委細被仰下候

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■松寿庵先生・第178講

2016-02-12 09:16:23 | 歴史
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