津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■四つの「三宅家系図」

2016-03-25 12:40:37 | 花押

「明智一族・三宅家の史料」から引用させていただいた、細川家家臣三宅家の四つの系図である。同じお宅に内容の異なる系図が四つも有るという事に驚かされるが、この事はまさに明智一族の出自の不確実さを物語っているといえる。
左馬助の存在については、将軍家光の病気の平癒の使者を三宅重元が勤めた折、榊原飛騨守に対し細川光尚が書状で「重元が左馬助の孫である」と書き記していることを以て証明されるとして居られる。

             此度差下申候使者
             先年天草ほんど
             ニ而討死仕候三宅藤兵衛
             子ニ而御座候 寺沢手ニ而夜
             うちの時も 此者手ニあい
             申候 明知日向守ためニひ孫子
             明知左馬介孫子ニ而御座候
             ゆへ 我々とものがれさる
             者ニ而御座候 不調法ニ
             五座候へとも つらを御
             ミしり候て可被下候 以上
                    肥後守
              ひた様 

これらの系図の異同について、ある時期訂正方を藩庁に申し入れをしたがそれが認められず「四つ」の系図の存在に至っているという。
今となっては如何ともし難いことであるが、いずれにしても「四つ」が並存していたことも事実で誠に不思議な事ではある。
 

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■再開「我が家検索リスト」  68-8 寺原

2016-03-25 11:40:43 | 地図散歩

 下部の蛇行する川(坪井川)の右手部分が「68-7 内坪井」である。鉄砲衆などの組屋敷が連なる町「てらばる」である。
現在の地図を御覧頂くと、大きく蛇行する坪井川の流路が改修により直線化されている。
真光寺・順因寺・壽昌寺・流長院などの各寺は場所を替えることなく現在に至っている。 

         堀部助左衛門・吉住伝助・菅村権之助
   真光寺・井場軍太兵衛・中山武兵衛  田尻式右衛門 荒川落左衛門 後藤源助 永田庄蔵
   順因寺・井上五郎右衛門
   壽昌寺・富永助九郎」・小原権内・永井金吾・岐部弥左衛門・長江寿山・神辺丹次・佐藤勝太郎
      山田新兵衛・原田左平次・守田又左衛門 吉永兵左衛門・石原新七郎・緒方佐七郎・塩津恒助・増田藤右衛門・野入隼之助・尾藤健之助
      大塚清之允・宇佐川勘兵衛・則元宗敬・光行寿沢・江藤理右衛門・河口伴次・鹿子木二郎七・
      井口円七・相沢木右衛門
      安藤十左衛門・浅山左納・宝光院
   流長院 

   



 

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■吉浦郷右衛門覺書(三)

2016-03-25 07:22:27 | 史料

一、天草郡ハ寺沢様関ヶ原乱之後御加増ニ被成御座候 唐津
   ゟ海陸四十里余之遠方ゆへ 志摩守様御大切之場所と被思
   召上 城地を御念被入 所々御改被成候 初者栖本に御城御座
   候而 高畑忠兵衛殿と申仁貮千石取ヲ被召置候 其後才津
   村に御城を被築 関主水殿と申是も貮千石取を被召置
   候 此仁元ハ筒井順慶老御内ニて 氏家彦之進と申て 武
   功覚之仁ニて 後 家名を改被申候 右彦之進家来ニ山本
   五郎兵衛と申者 主人ニ劣り不申覚の者ニて 貮千石之
   内ゟ二百石給居候 此者悴五郎兵衛を古藤兵衛様へ被召
   抱置候處ニ 一揆之節本戸ニて首尾好御供申上 相果
   申候
一、才津城も解候而 富岡ニ御城御築 此所 本ハ志岐崎と申
   候を御城被築候て 富岡と名を被改候 最初之御城代田村
   四郎右衛門 知行高弐千石 次ニ中村藤齋老弐千石 其跡藤兵
   衛様被成御座候 右栖本御城代高畑忠兵衛殿御勤之砌 薩
   摩守様を御縁組相調候ニ付 志摩守様ゟの御使者伊勢兵
   庫と申家老之弟伊勢平左衛門と申仁唐津へ被差置候
   處ニ逗留之中 寺沢家之小身をあなとり 何角兎過言被申
   慮外なる様子栖本ニ相聞候付 忠兵衛立腹被仕 唐津
   者其分ニて差通候儀腰抜と成 あわれ当所ニ船ゟ寄申候
   へかしと被申候處 唐津ゟ之帰りニ栖本ニ船懸被仕候付 忠
   兵衛殿歓被申候 唐津ゟ之当所之城代 茶を進申度候
   条 城江御入様ニと申遣呼受 振舞之上数奇屋之中ニて
   何之手もなく平左衛門殿を打果被申候 供之者臺所迄切
   入候を 忠兵衛殿家来城付之侍衆切払 城外へ追払被申 船
   ニ退乗申候 尤味方ニも手負・死人少々有之候由 忠兵衛殿
   早速切腹被仕候 平左衛門殿死かひハ船場へ持出し 薩摩衆
   へ相渡申候 忠兵衛殿へ男子二人御座候 舎兄半兵衛殿・弟
   六左衛門殿と申候 嶋津家へ被對 家督不被仰付 新地五百
   石被遣候 子孫いつ方へそ可有御座候哉 忠兵衛殿下腹ニも
   男子壱人御座候 盛人後高畑久之允と申候て八代前
   の佐渡様へ相勤居申候處 様子有之山本金左衛門と申中
   小姓頭 外ニ壱人打果候様ニと被仰付 久之允を八代御
   城檜木書院ニ召出 打果可申と仕候處 久之允一尺四五寸
   程之脇差ヲ抜合 金左衛門ニ渡合 漸々久敷切合 久之允
   者即座ニに打果 金左衛門ハ深手ニて後日ニ相果申候 右切
   合申候内ニ久之允手の指切落され申候付 後ハ無刀ニて金
   左衛門ニ言葉をかけ 己如きの小悴者蹴殺候ハんと申而間合を
   蹴廻り申候 死骸を見申候處 足の裏ニ切疵数多有之由 折
   節 久之允脇差を細工屋へ遣差替へ持不申故 細工屋ゟ麁
   末成脇差をかりて差居申候故仕負申候由 よき道具持合
   居候ハヽ中/\多勢ニても手ニ及かたく様子ニ御座候由 脇差
   短く御座候故 餘り踏込過付 金右衛門手疵ハ切疵ゟと
   額ニ銙之あたり申候處数多御座候由 中々脇ゟ助申事
   も成り不申程之働ニ而御座候由 八代衆古き人珍敷事
   ニ何れも物語残申候 剛ノ者子孫有之候由との物語
   ニて御座候 

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■松寿庵先生・第183講

2016-03-24 14:20:27 | 史料

                         島田美術館ブログ http://shimada-museum.net/gallery/shimabihonkan/555

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■再開「我が家検索リスト」  68-7 内坪井

2016-03-24 09:55:49 | 地図散歩

     熊本所分絵図の内の「内坪井絵図」である。文政四年以降のものとされる。
     下の絵図は明治初年のもの、Dr.T先生のご所蔵であったものである。まったく同じ場所であり付き合わせて見ると随分動きが見えて興味深い。
     現在は上熊本へ向かう大きな道路で上下に分断されたが、道の北側(図面上部)の道筋はほとんど変わって居ない。
     地図を片手に散歩するには格好の場所である。

北ブロック 毛木次兵衛・上田軍次・河喜多角助・国友半右衛門・宮永勝助・吉田某・高岡一太郎・高見喜左衛門・福島道寿・杉谷十右衛門・大槻権十郎
     丹後寺長岡与三郎天神・大槻才右衛門・大河原次郎九郎・藪九十郎・高橋二助
     松江文右衛門・正垣九十郎・松下久兵衛・渡辺平之助・奥山静叔・財津源之進・村上弁蔵・村上久太郎
坪井川東蛇行部分東四ブロック
      生源寺市兵衛・塩山騎三郎・佐々陸助・岡慎助・西田熊助
     横田吉左衛門・井関熊之丞・右田庄之助・神足十郎助・岡佐太兵衛・北里又大夫・横井求右衛門(夏目漱石旧居)・魚住衛門助
     西村彦太郎・志賀太郎助・塚本市之允・河井清三郎・牛島彦五郎・金子貞喜・志水新之助・松田五左衛門・島庄右衛門・高島新右衛門・堀内弾右衛門
     西村達太郎・可児清左衛門・岩下維和太・宮川庄兵衛・山東平兵衛・下村庄左衛門・門川太兵衛・吉田才助・山東新十郎・小林恒太郎・大木織部・野口甚左衛門
坪井川西蛇行部分東六ブロック
     神足新左衛門・小栗司馬助・大木織部
     澤村小平太・久保惣左衛門・金澤■・永井幸淳・大野伝兵衛・橋爪三右衛門・大木七右衛門・久野次郎左衛門・富井彦之允・甲田左源太・安岡喜兵衛
     中路半之允・杉浦清左衛門・湯地丈之進・片山八郎助・住江又八・原田九郎兵衛・中村庄右衛門・宇野市郎右衛門
     金子尉助・牧藤左衛門・本庄藤次郎・高原左助・水足五郎右衛門・行徳文郎(現・行徳眼科)・成田甚兵衛・荏原清亀
     上村角助・志水又七・野々口勘右衛門・明石源助・堀田甚助・甲野恒之允・澤村尉左衛門
     田中司・尾藤九兵衛・上野堅五津田山三郎
南四ブロック
     兼坂五郎右衛門・出田市右衛門・氷屋文次郎・田中新平・芳賀助十郎・恵良左十郎・横田冶部右衛門・国友式右衛門
     関角之進・林長兵衛・永野徳進・嵯峨三郎右衛門
     堀尾十郎右衛門
     牛島五一郎・平山委一郎・山口清之允・平川丈右衛門・嘉悦市之進・坂本佐一右衛門・入江八助・河喜多和学

       

              

             赤く表示した不思議な三角地が現存しているが、後の道路整備によって生じたものであることが判る。

  参考ブログ: 内坪井から御城を望む
         ■熊本の四つの橋   

         あづき坂

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■吉浦郷右衛門覺書(ニ)

2016-03-23 18:41:25 | 史料

一、天野源右衛門殿柳川ニ居申され候中 家中之衆中ニ馬之中
  乗を初メ被申候 其時分迄者西国方ニハ馬の小乗不存候處ニ
  柳川衆へ者右之通源右衛門殿ゟ傳被申候 武之法式品々御
  座候由 岡田平大夫殿と申仁物語ニ承り 平大夫儀御事ニて
  ト柳川衆故御存知ニて御物語御座候
一、右源右衛門殿武功之中ニ者 第一覚ハ 光秀様御謀反之事
  信長様を鎗付被申候 其次第ハ 光秀様御謀反之思召立ニ
  て 御在城丹波亀山ニ御引入被成 外へ之聞ニ候 中国毛利家
  との御取合之為御人数を催され候分ニて 御人数御仕立被
  成 亀山ゟ京都へ本道を御押被成候てハ行程遠く 間抜仕
  候間 御数国之中故 人夫を大勢御取寄被成 大江山の中
  に夜の間ニ朝道を被仰付 夜中ニ京都ニ御着被成 天正十
  年六月二日之未明ニ 左馬助様御手先ニて 信長様御宿陳
  本能寺へ御取懸被成 未タ御門開キ不申候ニ付 左馬助様
  ゟ仰入られ候者 城之助様御謀反ニ付 光秀御味方ニ参
  り申候 早々御門開き被申候様ニと有之候得者 御門番之衆中ニ
  驚 取あへす御門を開き候付 其侭押入 御門番之者共
  を一々切伏 未明と申 俄之事故 差而立向衆無之故 其侭
  御臺所前迄御仕込被成 其時信長様ヘハ御さばき髪
  ニて 半弓を御持被成 御臺所口ニ御立被成候哉 世悴共と御
  いかり被成候 御威光ニ 覚へずハつと平腹(伏)仕候 中ゟ源右衛門進
  ミ出 鎗を以信長様之左之御頬先を突被申候を 信長様源
  右衛門鎗りを御握り 鎗先之血を御衣ニて御ぬくひ取 鎗ヲ
  御つき放し 其侭奥へ御入被成 其跡ゟ森蘭丸切出申
  され候を 是も源右衛門付ケ被申 其時親子共ニ仕舞候と
  高聲ニ呼わり申され候 是ハ蘭丸を城之助様と心得違
  ての儀ニ御座候 城之助様へハ 二条之御城ニ被成御座候儀
  を 兼而乍存 取違被申候故 後年武功物語之節者 自分
  邊ハうろたへ 武邊毎度座興ニ被申候由御座候 源右衛門
  殿終に様子ハ於唐津左之頬ニ無名の腫物出来 色々療
  養被仕候得共平癒無之 有馬湯治ニ罷越 唐津發足
  之時分被申候ハ 平癒仕候ハヽ帰可申 平癒無之候ハヽ二度帰り
  申間敷と被申候處ニ 有馬湯治ニても快気無之候ニ付 彼方ニて
  自害仕相果被申候 子息壱人御座候ヲ御取立 壱万石被下
  御家督被仰付候處 無程目を相煩 盲ニ成被申候由ニ御座候 

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■海坂という言葉

2016-03-23 17:45:06 | 徒然

 藤沢周平の小説は100%とは言わないまでも随分読んだ。今でも随分くたびれた文庫本がわが本棚に並んでいる。
多くの舞台となった海坂藩の名前の由来を知ったのは、そう遠い話ではない。なんとなく俳句を親しむようになってからのことである。
藤沢は「半生の記」の中で「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかに弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である。」と書いている。
舟が水平線の彼方に見えなくなるのは海に傾斜があって他界に至ると考えたからという。神話における「海神の国と人の国との境界」という考え方の何とロマンチックなことか。 
熊本では天草の西海岸に出ないと水平線を見る事はできない。ましてや水平線に消え行く船の姿などとても見る機会はなさそうだ。

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■吉浦郷右衛門覺書(一)

2016-03-22 09:34:41 | 史料

 

    唐津以来之聞書
一、古藤兵衛様御事天正十年六月十四日光秀様四条縄手之
   御合戦に御仕負被成候節者 藤兵衛様ハ二歳之御時ニ而候 其
   節左馬助様ニ者美濃国安土信長様御居城ニ被為向候處 蒲
   生殿御留守居ニ御在城ニ而御座候得共 御防戦難成 信長様
   御臺所様・御子様方共早々城を御退散被成候故 御雑作も
   なく城を御乗取被成 上方之様子御到来有之ニ付 早速安
   土ニ火を被成御懸 江坂本之御城へと御引取被成候 光秀様
   御持之城ハ 丹波亀山・近江坂本両所ニ而御座候 坂本御
   城へ者光秀様御臺所・左馬助御良様方も被成御座候 右
   之通左馬助様安土ゟ坂本ニ御引取被成候御様子 太閤
   様方へ相聞候ニ付 久太郎殿瀬田橋口へ備を立待受合
   戦ニ及候を 左馬助様一戦ニ御切崩被成 石山寺邊迄追討
   被成 其競を以大津之濱辺を御通被成坂本之御城江御恙
   なく御入被成候 安土へ被成御向候節は御人数三千ニ而御座候へ
   共 四条縄手負軍之様子相聞ニ付而落散 安土御引取被
   成候節ハ漸七百程ニて 御城へ被成御入候 然ハ太閤様方之人
   数段々かさみ御城を取巻申候 城下ニも段々一騎起り御
   城所々ニ火を懸焼立候ニ付 見方ハ次第ニ気後 侍中も段々
   落散 御重恩の衆中 又内之者共ニ漸八十人程を相究罷
   留候 籠城之躰ニ而口々を堅メ申候 其時左馬助様御意被成候
   ハ 此城外ニ後詰之御味方無之 御運の極り候間御籠城
   可被成様も無之 終日堅固ニ御城を御持被成候 左候而暮
   方ニ及 光秀様御臺所様 布袋を数多被仰付 白米・金
   銀を御入させ被成 侍衆を被成御寄御意被成候者 此躰迄い
   つれも忠義の勤を仕候段御感悦不浅事ニ被思召上候得共
   御家運今日ニ限候得者 御報謝可被成様も無之候間 此袋も
   のを銘々持参仕 夜ニ入何卒堅固ニ御城を罷出申 何方
   ニなり共身を寄被申候様ニと 数々の御意御座候而一々御配
   被成候末ニ 又 内之もの共ハ御本丸下郭ニ御集被成 袋を首ニ
   かけ 夜ニ紛 方々に退散仕候 当世御旗本に齋藤帯刀様
   も其中ニて御座候様子承傳申候 其節 左馬助様御家老
   安田某と申仁も其中ニて堅固ニ立退西国ニ下り被申 天
   野源右衛門と改 筑後国柳川の家老二千石にて相勤被申候
   当御国山鹿隈部式部殿籠城之一乱之節も 柳川勢の
   中ニて一段振よろ敷 其後朝鮮陳ニても 立花家ニて武功勝レ
   申候 後ハ柳川を立退被申候を 肥前唐津寺沢志摩守様へ
   壱万石ニて被召寄候 左馬助様へ居被申候節ハ定而小身ニ而
   可有御座處ニ 右之通りニ御座候得者其御主君左馬助
   様御武功之程 乍恐被奉察候 能者を御持被成候儀御名将
   故と被奉存候 右之通ニ付 上々様方段々御生害ニて御座候
   左馬助様へも御腹切可被成 御行水御場所江藤兵衛様を
   御呼被成候を 御うば御意を背 いたき奉り 御城を立退申候
   推而も御呼不被成由 定而若は御長久も被成 御家を御立被成
   候時も可有御座とも思召ニての儀ニ御座候哉と承傳申候
   藤兵衛様御姉様御座候被成候 是ハ御生害ニて御座候 左
   候而御うばとかくいたし 御城ハ立出申候得共 乱軍之中ニて
   凌かたく 大津町裏葭の茂り候中ニ隠置奉り 其身迄立
   退候を 京都の町人拾ひ上奉り 京都ニて密ニそたて上申
   候 此町人ハ定而左馬助様御用等相勤候御懇意之者故 御
   姥知り申候故ニ付拾ひ上申候哉と一提申候 藤兵衛様 天
   草御在世之御時ゟ 京都之町人大文字屋と申者の方へ
   五人扶持完被差登候を 一提能覚居申候 大文字屋と申
   迄覚居申候而 名を覚不申候 左候而 太閤様御代ニ成り世
   も静ニ成候上ニて 藤兵衛様を三齋様伏見之の御屋敷へ
   御供仕 右之次第を申上ル 藤兵衛様十三才の御時ニ御座候
   三齋様被為驚 早速密ニ高野山へ被差登置候 寺院の名
   ハ失念仕候 御出家下地之躰ニて 御名を帥様と申候 其間
   折々伏見へ御越被成 秀林院様へハ必多度と御對面御
   座候 其砌秀林院様ゟ被進候御文残居申候 瀬戸
   口へ御持参被成候 奉書紙一枚ニ御文躰さら/\と被遊候
   て 御端書ニ返ス/\かね五拾目まいらせ候 御合点ニて御つかひ
   候得と被遊候を 折々拝見仕候 帥様十九才之御時 時節も押
   移苦かるましくと三齋様被思召上候哉 左馬助様の御子
   高野山ニ忍び御座候を被聞召付候 御縁方之儀ニ御座候
   ニ付 如何可被遊候哉被為伺候處 太閤様上意ニ其悴盛人
   仕候迚何をか可仕哉 三齋様へ被遣候間 如何様共御心の侭ニ
   との儀ニて御座候由傳承申候 依之 早速御元服 御名を三
   宅与助と被為改 三齋様ゟ三百石被遣候 唐
   津へ御越被成候御様子ハ左馬助様之御家老天野源左衛門
   唐津へ居申ニ付 夫々御便り御越被成候哉ニ承傳候 唐津
   ニて 大坂乱之時分 唐津御家老何某と申仁御陳觸
   を背キ被申候ニ付 志摩守様御立腹被成 御打果候様ニと 仕
   手を被差向候處ニ 此仁 武勇之人ニて 家来に被申候而屋
   舗を取かため 弓・鉄炮を放し寄手を散し 中々手ニ及ひか
   たく御座候ニ付志摩守様も大手御門迄御出馬被成候
   程の所ニ 藤兵衛様御馳付被成 宜敷御働被成候ニ付 早速
   三百石の御加増ニて六百石ニ御成なされ候 其後段々御加
   増被成 三千石ニて 天草の押へ御役ニて富岡城へ被成御
   座候 藤右衛門様にハ 御別知ニ千石ニて唐津ニ被成御座候
   御番頭御勤被成 同御城内ニ御座被成候 是ハ藤兵衛
   様御老年ニ付 志摩守様御懇意ニて御介添之御心持ニ
   て 富岡ニ加右衛門様をも被遣置哉と一提常々申候 加右衛門様
   御城代之御役故 一揆之時分御出陳難相成 本戸嶋子
   之戦場へは御出不被成候 一揆以後藤右衛門様御当家へ御越
   被成候 此方之儀は相知レ居申儀を書不申 右之物語者宗天
   様・遠山与右衛門様と申仁御座候 御理發仁ニて萬故実ニ
   被達 此物語を一提常ニ承り 其外ニも古キ衆残居申され
   折々の物語を承り覚居申候 右与右衛門様御事 御重病
   ニて 世上躰難被成 御浪人ニて戸次村江御在宅被成 彼所
   ニて御病死被成 御墓所も村之上松山際ニ御座候 

  

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■旧事諮問録―幕末諸役人の打明け話

2016-03-21 20:10:48 | 書籍・読書

 

 旧事諮問録 幕末諸役人の打明け話 旧東京帝国大学史談会/編     
   青蛙房 旧事諮問録―幕末諸役人の打明け話 (新装版)


内容説明

明治維新から二十余年、文明開化、欧化主義のあらしが静まり過去の歴史への反省が生まれるころ、旧弊として否定し去った幕政へ、新たな検討が始まった。東京帝大の当代トップクラスの学者グループが、政治・経済・法政・外交の各般にわたり、旧幕古老にたずねた問答体の速記録。

目次

将軍の日常生活
勘定所の話
評定所の話
大奥の話
目付 町奉行 外国奉行の話
御側誤用取次 外国奉行の話
八州取締 代官手代の話
昌平坂学問所の話
欧州派遣使節 奥御右筆の話
御庭番の話


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■明智一族三宅家の史料

2016-03-20 20:23:21 | 書籍・読書

                 

                     発行元:清文堂のHPにある「甲立物昇幕紋の絵図」

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■藤崎宮富講

2016-03-20 18:44:18 | 史料

 宝くじは今も昔も庶民の夢だが・・・・熊本での発祥は、藤崎宮の永代修復料の為に許可された富講である。宝暦三年二月の事だとされ、第一回は三月二十三日薬師坂下瀬戸(藤崎宮登り口の屯)にて行われた。年6回、1回に35,000枚、一枚60文で売られた。収入銀30貫目そのうちの25貫目が賞金に宛てられた。
一等賞金は5貫目(約83両)だったそうだ。

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■只今読書中「明智一族・三宅家の史料」

2016-03-18 07:21:27 | 書籍・読書

          明智一族三宅家の史料       

16日無理をして図書館に出かけ、これがたたって又風邪の具合を悪くしてブログを休んでしまった。
その折お借りしたのがこの「明智一族・三宅家の史料」、購入したいのはやまやまだが、なにせ価格が「24,000円+税」だから、年金生活者の小生には一寸手が出ない。二週間の返却期限まで精読しようと頑張っている。

かって安國寺さまからご提供頂いた、明智氏に関する「土岐系図」「喜多村家系図」などは、三宅家の御所蔵だったとお聞きしていたが、この事に付いてはこの中では触れられて居ない。明智家のご先祖を遡るのは三宅家の史料をもってしても不可能ということだろう。

近世三宅家の系図は大変詳細に及び、細川家の有力武士に婚姻による枝葉が広がり、名家の底力を思わせる。
改めて細川家が「明智氏」をどうとらえ、どのように遇しようとしてきたのか、想いを深くせざるを得ない。

秘密のベールに閉ざされてきた三宅家史料に日の目が当たり、巷間期待されていた明智氏の出自に関わる史料の新出は見受けられなかった。
その点では多いに期待はずれの感があるが、精読すると大変興味深いものがある。
(釈文と読み下し文が紹介されているが、編集上字体を変えるなど一考あってしかるべきではなかったか、非常に判りずらい)

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■ある間違い

2016-03-17 22:17:26 | 徒然

 この写真にはある間違いがあります。お判りですか? 編集者の方には随分とお気をつけ頂きたいものです・・・・・・・・。

 

コメント (3)
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■お問い合わせにより・・

2016-03-17 17:53:18 | 花押
東大史料編纂所データベース検索に付いてお問い合わせが有りましたが、次の要領でお願い致します。
全部で3,367頁有り、スクロールが出来ませんからなかなか大変な作業に成りますが、お楽しみ下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
東大史料編纂所データベース検索 http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
  左上の「資料所在」の欄の一番上「所蔵史料目録データベース」をクリック
                   ↓
所蔵史料目録データベース 
  キーワードに「細川家記続編」と打ち込んで「検索」をクリック
                   ↓
目的の「ソート」に到着。表示種別で「全表示」をクリック
                   ↓
「冊データ」で見たい冊の「イメージ」クリック、これで目的の「細川家記続編」を見る事ができます。
 
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■未だ完治とはまいらず・・・・

2016-03-15 19:03:38 | 徒然

 風邪の方は90%は直ったと思っていますが、花粉症がただならぬ状況で外出も控えています。
明日は予約をお願いした本を借りるために図書館に出かける予定ですが、大丈夫かしらと少々心配です。
ティシュの箱を持参しなければ成りますまい。ひどい時は10秒おきには鼻をかんでいる有様で、鼻の周りがカサカサに成りつつ有ります。
土曜日は史談会の例会、そろそろ完治させないと当日どういうことに成るか、心配しています。
今日も早寝をさせていただきます。 

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