「明智一族・三宅家の史料」から引用させていただいた、細川家家臣三宅家の四つの系図である。同じお宅に内容の異なる系図が四つも有るという事に驚かされるが、この事はまさに明智一族の出自の不確実さを物語っているといえる。
左馬助の存在については、将軍家光の病気の平癒の使者を三宅重元が勤めた折、榊原飛騨守に対し細川光尚が書状で「重元が左馬助の孫である」と書き記していることを以て証明されるとして居られる。
此度差下申候使者
先年天草ほんど
ニ而討死仕候三宅藤兵衛
子ニ而御座候 寺沢手ニ而夜
うちの時も 此者手ニあい
申候 明知日向守ためニひ孫子
明知左馬介孫子ニ而御座候
ゆへ 我々とものがれさる
者ニ而御座候 不調法ニ
五座候へとも つらを御
ミしり候て可被下候 以上
肥後守
ひた様
これらの系図の異同について、ある時期訂正方を藩庁に申し入れをしたがそれが認められず「四つ」の系図の存在に至っているという。
今となっては如何ともし難いことであるが、いずれにしても「四つ」が並存していたことも事実で誠に不思議な事ではある。