津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■獏枕

2017-08-20 08:12:06 | 熊本地震

昨日の史談会では「友枝家と祇園社」として、能の友枝家の「覚」(先祖附)を取り上げた。
武家の先祖附とは異なり内容の豊かさに驚かされた。その一つがこの獏枕拝領の記述である。
忠利公が肥後入国の際高瀬町(玉名市)に止宿されていた処に、友枝家は挨拶に参上して「熊本絵図」を差し上げた。
丁度忠利公はお休みの最中で熊本の街中の」夢(夢中)を見て居られたらしい。
そこえ「熊本絵図」が届けられたので、大変不思議に思われるとともに驚かれ、お休みになられていた折使われていた「獏の枕」を下賜されたのだという。
その記述は下記の如くである。

      木地欅か唐桑之類長サ弐尺計横七八寸
      首尾ハ高サ六七寸中四寸計金泥蒔絵
      ニて書跡見ル中ニ細き穴有鋲少出ル鋲ハ押ルは獏

ちょっと寸法が違いすぎるが、東京国立博物館が所蔵する九曜の紋が入った南天獏蒔絵枕」が、まさにその手本ではないかとさえ思える。

      「獏枕」の画像検索結果 
東京国立博物館サイトから(拡大図) 

      

「覚」には文化八年当時「其節被為拝領候を所持仕居申候事」とある。はたしてこの品の行方は如何に・・・

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■そろそろ限界・・

2017-08-19 20:17:54 | 徒然

 史談会の8月例会は、「O家の先祖附を読む」を予定していたが、肝心のO氏が所用でご欠席。
急きょ予定を変更して「友枝氏と祇園社」に変更する。約1時間半ほどを担当して、声が出なくなる有様。
毎度のことながら帰宅するとしばし仮眠。
新たに購入した「一太郎2017プレミアム」をインストールして、使い心地を体感するため時間を忘れてしまった。
食事をして「ブラタモリ」を見ていたらこの時間、ヤフオクで落札した本を確認したり、頂戴した某「総合索引目録」等を眺めていたりしたらブログ書き込みも忘れそうになってしまった。
一日くらい忘れてもそうでもないが、二日も忘れると心配をしていただいてメールなどが入るので、何とか皆勤しようとついつい下らぬ些末なことを書き込んでいる。まことに申し訳ない次第であるが、最近では書き込むネタが切れて胃が痛む感じさえする。
余りの暑さに図書館に出かけるのも少々気欝なのだが、そろそろネタの仕入れに出かけねばならない。

がんばります。

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■空前絶後の処刑

2017-08-18 18:58:20 | 史料

これも押し入れの中から出てきた史料だが、「日本談義」に宇野簾太郎死の「肥後藩に於ける空前絶後の火炙りの惨刑」という一文がある。
なんとも読むのに耐えかねるような話だが、読んでいると寛永四年四月十六日のことだという。
当年25歳の役者で美男の松五郎が多くの女性をたぶらかして金品をだまし取ったうえ、挙句におけいという金持ちの老婆の家に放火して焼き殺した罪により「火炙りの刑」となったというものである。
この文章を読みながら私が所持する、処刑場の資料を見ていたら、全く日にちを同じくするものであった。
大意は処刑される人物がもし刑の前に死亡しても刑場に引き出して斬刑にせよとの達しである。今回はそうではないが病気であっても刑の執行を行うようにとの、御昇方への指示である。
熊本藩における刑の執行は御昇方の職務とされていた。

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■竹崎順子・896頁

2017-08-17 07:01:47 | 書籍・読書

                           竹崎順子

 悪友が徳富健次郎(蘆花)の『竹崎順子』を持ってないかと連絡してきた。
何事かと聞くと熊本県立図書館には6・7冊所蔵しているのに貸し出しをしてないというのである。
「896頁もあるというのに、何度も通って図書館で読めというのか」とおかんむりである。「図書館に言え」と言ってやった。
なんでまた「竹崎順子」を読むのかと聞くと、有名な「肥後の維新は、明治三年に来ました」という文章の前後の文脈を知りたいというのである。
「熊本は明治維新に乗り遅れたというが、その明治維新とは果たして何なのだ」と息巻く。
「そりゃー実学党の政権が出来たということだろう」と私。
「誰もかれもが鬼の首を取ったように蘆花のこの文章を取り上げて、いかにもそれ以前の藩政を全否定するような言い方が気にくわん」というのである。
少々過激な発言もあったが、これは削除しておこう。

扨この本残念ながら持っていない。そう伝えると「そうか持たんか・・」と残念そう。
「日本の古本屋で買え、そして読み終わったら俺に貸せ」というと「馬鹿か・・」と言って電話は切れた。

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■「日本談義総合索引目録」

2017-08-16 09:42:20 | 書籍・読書

 押し入れの中の積み重なった資料を整理していたら、荒木精之先生の44年間延べ463号に及んだ「日本談義」の「総合索引目録」の一部のコピーが出てきた。
「歴史」というくくりの内「郷土史」に関わる212~238頁にわたるものである。

一つ一つの記事の著者並びに〇〇年〇月号の〇〇~〇〇頁掲載といった具合で紹介されている。頁を追っていくと興味深い記事がいろいろ出てくる。
郷土史ばかりでは駄目だな~と思い、古本を探して購入しようかと考え「日本の古本屋」を検索すると結構出品されている。一番頭で26,250円とあって驚いてしまったが、安いところでは4000円ほどである。ほかにも買いたい本もあり少々悩ましい限りである。
まずは手許のコピー「郷土史」をよく眺めて、読みたいものを図書館でコピーに及ぼうと思っている。

その中でも興味を引いたのが、山崎正董氏の「長岡監物伝」、昭和38年1月から42年9月全37回に及んでいる。それぞれが4~5頁に及んでいるから大変な大作である。又、宮本謙吾氏の「細川三齋公とその茶道」昭和33年1月~6月(5回)、山崎貞士氏の「熊本における蕉風俳諧の流布覚書」昭和43年11月~45年7月(7回)なども大変興味深い。
また単発の記事にも大いに興味をそそられるものが沢山ある。それぞれが荒木先生のお眼鏡にかなった錚々たる方々の執筆によるものである。
少し涼しくなったら気合を込めて図書館に出かけコピーを取ろうと考えている。寄る年波コピーをとるのも一仕事になり何度も通わなければならないようだ。

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■宗孝公災難の日

2017-08-15 10:56:33 | 史料

 延享四年の今日八月十五日、宗孝公は江戸城中で旗本寄合席板倉勝該から切り付けられた。正式には十六日の死去とされているが、ほとんど即死状態であったといわれるが、公然の秘密ということであろう。駕籠で運び出され、小姓頭・生田又助が終始藩邸につくまで駕籠に向かい声をかけ続けたとされる。生存している様に知らしめるその機転が今以て讃えられている。
事件の詳細についてはこの人の事件報告書ともいうべき「生田又助覚書」をはじめとして、「宗孝公被為蒙御手疵候一件」「延享秘録」「秘書細板記」「隠見細倉記」「八代蜜柑」「板倉騒動」「板倉修理乱心記」「降徳公御変記」など沢山の記録が存在している。

ここでは「隠見細倉記」(細倉記の細=細川、倉=板倉)の冒頭部分をご紹介する。
      

          隠見細倉記

         延享四丁夘年八月十五日 細川越中守
      如例月次出仕之儀は諸大名不残事也 扨大廣間
      面々は兼而申合ニも無之儀なれ共高位之御方ニ候ヘハ
      段々御上座ゟ(よろ)しく御間定り諸侯出仕之上大御目付衆
      見合有御礼始まり候事也 越中守殿毎之通座席江
      着座以後小用所江被参候処跡ゟ来し人や有けん
      誰共知す抜打ニ首筋際ニ打懸タリ 是ハと思ひ
      給ふ内ニたゝミかけて左之肩江切懸ケタリ 越中守殿も
      我に覚る敵なし全乱心人なるへしとて殿中と申
      兎角組伏せはやと思はれけれ共其内手疵深
      けれハ叶かたくいかヽせんとしハし立やすらひし内ニ誰云
      となく小用所ニ大乱なりと云声のしけれハ御杉戸
      御番両人御徒目付聞付御目付衆江早々告けれは大目付
      石川土佐守守殿御目付中山五郎左衛門殿其外追々馳集り
      被参候時は最早越中守殿ニハ大廣間大廊下迄被参

      脇差左持居り被申候 土佐守殿越中守殿へ向ヒ申候
      時は誰人共不知跡に血ニ染たることくなれハ御家名ハと
      問し時たへ/\敷声ニ而細川越中守と答ふ 誰人討
      懸しやと尋候時越中守殿被答候ハ誰共見分ケす
      上下着用之者なりと有しかハ夫ゟ直ニ土佐守殿
      御徒目付と小坊主ニ分へちり不申様集可置由
      扨又御門/\早速打せ可申其段達候様と御目付衆ゟ
      被申渡けれハ早速申通し御玄関前御門ゟ外桜田迄
      御門を打たり 扨越中守殿療治之儀詰合御醫師江

      被仰付け夫ゟ切懸し人有へしと大勢相尋しに縁
      の上ニ抜身の脇差有り 扨こそ此所ニ脇差有り此近所
      外ヘハ行まし殊更無刀と見へたり詰り/\をさかせ
      とて尋しに右之小用所すミに人有 夫ゟ御目付衆
      御徒目付呼寄いかなる人そと問せしに修理なりと
      答ふ 御目付衆被申候ハいかヽして殿中も憚らすかくの
      躰はいかヽと被申けれハ修理殿被申候ハ誰共知らす
      自分ニ切懸しにゟ打かけ候とや 扨其元之髪ハ
      何とて切被申候哉と尋けらハ人をあやめ自分も難立
      存髪を切申候 夫は何にて切被申候哉其節修理殿
      被申候は懐中之鋏ニ而切しと答へ給ふ 全乱心と
      見へし上は御徒目付立寄蘇鉄之間脇小部屋へ
      入置御徒目付其外御小人目付付置候と也
    一、越中守殿手疵療治之時分早速ニ石川土佐守殿を以
      人参被為拝領候段越中守殿ニ被申渡候処有難仕合
      御礼之儀は宜取成被下候様に被申上候 療治相済候上
      御小姓を以御湯漬被為拝領旨療治ニ而気も尽可申
      候し間給可申旨 上意ニ而被為拝領旨御申渡候処右之
      御湯漬不残被致頂戴候 御礼之儀も声高ニ被申上候
      右之通之始末強生成ル事と何も我を折しと也

              以下略

この後小姓頭他二名が異例にて殿中に入り、宗孝に付き添い平川門(不浄門ともいわれる)をでて辰口邸へ帰られた。
最初にも書いた通り即死状態であったとされる。弟君(重賢公)の相続も認められ翌十六日に死去されたとされる。
板倉修理は二十三日に切腹した。
この事件に際しては相聟(紀伊大納言宗直女)である伊達宗村や、妹婿であった(妹・岑姫は前年に死去)織田山城守信旧の働きが注目される。
      

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■「明暦前後」地図散歩

2017-08-14 08:50:36 | 地図散歩

                                                                                                                          
右上の藩主居館「御華畠(花畑邸)」表示の中に「明暦前後」の書き込みがある。
すぐ近所に慶安三年に佐藤傳三郎によって殺された林外記の屋敷があり、外記の奥方が逃げ込んだ隣家の明石玄碩は 「万治二年知行被差上候」事態になっているから当然この屋敷から離れているだろう。二人の事からして「明暦」の書き込みは間違いといえるが「前後」とあるから大きな幅を持たせていることが判る。
この時期の名入り絵図は珍しく、岐阜攻め、関ケ原、大坂の陣、島原の乱などで活躍した人たちの名前も見える。

林外記の屋敷があるのは(1)「桜馬場地区」である。
  小笠原備前、小笠原民部少輔の大きな屋敷が背中合わせにある。右手に見えるのが備前堀、小笠原備前の屋敷前であることに由来する。
  備前邸右手の道が城内南門につながる南坂、現在の行幸坂である。
  民部少輔邸の左手が慶安坂、この二つの屋敷跡が現在の「桜馬場・城彩苑」、観光客でにぎわっている。
  小田原友庵・岡部道宇・関太郎兵衛・内匠(?)・小原無楽・岩男加入・平野弥五右衛門
  住江求馬・内田安右衛門・阿部主殿・山崎傳右衛門・久野与右衛門・内藤左兵衛 等の屋敷跡は国の機関の建物が立ち並んでいたが今は
       それぞれ転居して空き家状態である。
  
(a)林外記明石玄碩・平野源太左衛門・続次大夫・仲光半助・堀内三盛・穆門・横山五郎大夫・古市快庵

桜馬場地区の横山五郎大夫の屋敷の左手の細長い空地はいつの頃からか道となっている。
その左手の堀に囲まれた一帯が(2)「古城地区」、大方が現在の県立第一高校の敷地となっている。
  内藤宗印・石田理齊・長岡道伯・清田石見・田中左兵衛・長岡右馬助・坂崎清左衛門
  藪図書・岩間清大夫の屋敷はこのブロックに入れるのは正確ではないが便宜上ここに入れておく。

古城地区を取り囲む堀は後には相当部分が埋め立てられてこの時期の面影はない。堀の跡には住家が立ち並び現在では一部が公園化している。「古城堀端(ふるしろほりばた)」と呼ばれていたが、現在では「こじょうほりばた」と呼ぶ人が多い。
道を挟んだ西側をここでは(3)「新町地区」としておく。絵図では書き込みがないが左上隅部分は勢溜である。新三丁目御門があり法華坂へつながっている。
  (b)藪市正・田中左兵衛・長尾伊織屋敷とその下屋敷、浅野七右衛門・衣笠平大夫・薮嶋之助・西村半兵衛・真玉半右衛門・西嶋六左衛門
  御客屋・旅人衆・前川一角・佐分利加左衛門・竹田了由・佐分利弥左衛門・同吉左衛門・吉十郎・権兵衛・乃美兵大夫・同市郎兵衛・木戸治部右衛門

大きく蛇行する坪井川に囲まれた地区が(4)「塩屋町地区」である。
  高田五郎三郎・竹原道印・岡田茂兵衛・黒部孫兵衛
  住江四郎兵衛・斉藤忠三郎・谷助十郎・松野道遊・山崎加平太・横井牛右衛門
  長瀬助之丞・藤本伊織・伊良子喜左衛門・竹原金右衛門・白井孫左衛門・古橋小左衛門・明石十左衛門・生駒平左衛門
  岡田助兵衛・明石五左衛門・岡十郎左衛門・前川平左衛門・薮嶋之助下屋敷・御客屋
  斉藤又大夫下屋敷・佐分利次郎兵衛・横井牛右衛門下屋敷・一村弥三兵衛・見古・関膳左衛門・米田甚左衛門・藤本勘助・村上百助・貴田角右衛門・堀太兵衛・山田右左衛門・鳥井藤左衛門・前川平左衛門・萩嶋之助下屋敷・御客屋

藩主居館「御華畠」の前に広がる地区が(5)「桜町地区」である。
左から上下方向にブロックを追いご紹介する。
  広大な屋敷が沢村宇右衛門尉(沢村家二代)である。このブロックの左下に山崎天神が見え、森崎玄三・久野角大夫・八木慶固・上田忠蔵と続く。
  酒巻弥五右衛門・八木長右衛門・益田孫大夫
  牧丞大夫・林弥五右衛門。清田石見下屋敷
  清田石見下屋敷・奥村安大夫・岡崎七左衛門(切米取)・森半大夫・水間十右衛門

  八並太左衛門、加助・西山徳左衛門・岡部庄之助・平井文之進・(c)竹内数馬後家・北村宗雲・冨田惣兵衛・鈴木伝兵衛・桑木浅右衛門・横山玄与・刑部殿下屋敷
  弓削五郎兵衛・北里次郎左衛門・久武権左・川方清庵・清田助十郎・吉田加右衛門・杉村喜右衛門、星野伝吉・福田権兵衛・大塚仁右衛門、左次衛門・村山七兵衛
  樽見惣兵衛・宮部加右衛門・長谷川忠右衛門、藪右衛門・宮部市右衛門・瀬戸五兵衛・安本山三郎・一村市之進・小野右衛門・松下又一・竹村弥右衛門・大塚七郎

  福田杢左衛門・古市宗庵・鎌田杢助・落合勘兵衛・欲賀了益・佐藤権丞・磯野治兵衛・安藤平兵衛・的場勘兵衛・洞院与三兵衛
  服部武左衛門・豊岡理助・内藤源丞・熊谷小三次・辛川忠助・熊谷孫兵衛・岡田甚五左衛門・磯貝惣左衛門・原田十兵衛・平野治部左衛門・志方十兵衛
  荒瀬角兵衛・野々口又之丞・上田吉十郎・木村九兵衛・荒川三右衛門・宮崎伝四郎・岩崎権平・寺井小三郎・出田作庵・佐方清左衛門・荒瀬左太右衛門
  柏原新左衛門・荒木教大夫・永井安大夫・永井左門・一宮勘十郎・生田又助
  竹田平大夫・上田久兵衛・神足少兵衛・宇野弥次兵衛・西沢伝兵衛・出田七大夫・蒲田弥左衛門

大きく蛇行する坪井川に二つの橋が架かっている。藩主の居館御華畠から城内に入る下馬橋(現・行幸橋)下方にあるのが洗馬橋である。
洗馬橋の右手のブロックを(6)「洗馬地区」とする。
  竹原少大夫・曽根権三郎・平野先右衛門・佐野九左衛門・岩佐真左衛門・古川五大夫、理左衛門・東条新左衛門
  中野七右衛門・桑原主殿後家・刑部殿下屋敷・長坂三郎左衛門

  (d)内藤長十郎・奥村喜内・金森四郎右衛門・井上七左衛門・木野左兵衛・津田半右衛門・宇野喜太郎・宗像少右衛門・小川安左衛門・永田三郎・刑部殿下屋敷
  香山源兵衛・中路加兵衛・鯛瀬小左衛門・河村長吉・金子主善・尾崎伊織・成田十左衛門・久野又右衛門・中路新右衛門・津田茂左衛門・郡与茂丞・奥村安大夫下屋敷
  林勘左衛門・小林伝三郎・中山左次衛門(高橋町奉行)・太田安大夫・古屋七右衛門

「洗馬地区」の東側が(7)「山崎地区」である。
  高森九郎大夫・角田団四郎・野田小三郎・加藤新兵衛・(e)高見権右衛門・坂井七郎右衛門・上村甚五左衛門・仲光金大夫・脇坂五郎右衛門・関安丞
  杉山権兵衛・山田久丞・門川三丞・川方三右衛門・遠山半兵衛・門川茂左衛門・高見少五郎・不破兵大夫・不破十丞
  太田九郎兵衛・岩崎角丞・志方十兵衛・魚住久太郎・萩田又兵衛・斉藤文大夫・(f)栖本又七・平野清兵衛・古橋惣左衛門・加藤九郎兵衛
  出田宮内少輔・矢野三郎兵衛・服部武左衛門   尾池伝右衛門

  明石源兵衛・辛川文大夫・本田作左衛門・竹内八兵衛・安場五大夫・大塚甚右衛門
  生野猪助・可児次郎右衛門・可児小七郎・野本平八・小林吉大夫・可児長三郎・林長兵衛
  津田了斎・鎌田源大夫・牧牛之助・南條牛之助・上村理左衛門

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この絵図では忠利公没後の殉死者やいわゆる「阿部一族」誅伐事件の関係者の屋敷が散見される。
  (a)林外記 阿部一族の誅伐に際し、竹内数馬を「忠利公懇の者」として主将に指名した。
        光尚公の死後、御供するであろうと噂されたが殉死せず非難された。
        佐藤傳三郎により殺害(差違い?)された。
    明石玄碩 林外記の夫人が逃げ込んだ屋敷。600石御医師。
  (b)藪市正 阿部一族の嫡男権兵衛は忠利公三回忌の墓前で自らの髻を伐り、捕縛され薮屋敷に預けられた。
        権兵衛は光尚の大いなる怒りを買い後井手の口で斬首される。

  (c)竹内数馬後家 阿部一族の誅伐に際し主将を勤め表門から入って戦死した数馬の屋敷。
  (d)内藤長十郎 森鴎外の小説「阿部一族」によると、殉死前に酒をたしなみ寝込んでしまい、時刻に至り若妻に起こされて殉死の場所に出かけたとされる。
          鴎外の捜索であろう。
  (e)高見権右衛門 阿部一族の誅伐に際し副将を勤め裏門から入り活躍した。
  (f)栖本又七  阿部屋敷の隣家の主人。つまりこの栖本家の隣・斉藤文大夫屋敷が阿部一族の屋敷跡である。
          熊本の民放RKKの局舎が建っている。著名な作家・荒木精之氏が場所を特定された。
  

  

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■お盆休みの読書

2017-08-13 11:44:10 | 書籍・読書

 毎日が休み状態の爺だが、暦を感じるためにお盆の間は一応お休みの感覚で行こうと少々ゆっくりしている。
この暑い中、外出は控えようというのが本音だが、冷房を入れっ放しで噴き出し口の前に鎮座しているとこちらも体に悪い。
休み(11~15日)の間にこの三種四冊の本を読み終わろうと頑張っている。隆慶一郎の「花と火の帝」は何度か読んだのだが改めて精読しようとチャレンジ只今二割方。「明治天皇という人」「伊能測量隊まかり通る」は初読、前者は三割方、後者は二割方といったところ。
それぞれに誠に面白い。
史談会(19日)の資料作成があるのだが、しばし忘れての読書浴である。

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■御尋ニ付而申上覚 原 武左衛門

2017-08-12 07:37:17 | 史料

 先に書いた「御尋ニ付而申上覚 後藤市右郎衛門」と、この原武左衛門の「覚」において、特段新たな情報はもたらされていない。
まるで申し合わせたような文章である。

                    御尋ニ付而申上覚     
    一、佐藤傳三郎殿と今朝五ツ過ニ外記処ニ被参御出何やらん
      御隠密之御談合被成候間何もの退候へと傳三郎殿被仰
      候ニ付児小姓迄も其座ニ居不申候ニ付太刀音高く聞へ申
      候ニ付而児小姓共参り私共様子申聞候ニ付其侭参見申
      候へは子両人共ニ相果江申聞候ニ付其侭参見申候へは
      早両人共ニ相果被申し候ニ付私儀は内々外記被申付候ハ火事
      其外何事ニ而も後藤市郎右衛門私両人は女房衆を裁判仕
      候へと被申付候ニ付奥江参女房衆ニ付居申候処おもてニ而  
      大勢切合申音仕候間おく之口をしめ後藤市郎右衛門私両人 
      共ニ女房衆ニ付居申候処ニ奥之口を打破り申候ニ付両人として
      外記女房衆を召連明石玄碩所江うらゟのけ申候所ニ郡
      安右衛門殿其外御鉄炮衆数人御座候而私共刀脇差出し
      不申候ハヽ外記女房衆御通し有間敷由被仰付候間無是非
      刀脇差出し女房衆召連玄碩所江参申し候 傳三郎殿外記
      果し申候儀幷下々相果候様子今日も内々之儀存不申候
      事 右之外ニは何ヶ度御尋被成候而も申上儀無御座候
      以上
         慶安三年
           七月朔日    林外記内  原 武左衛門

          志水新丞殿
          西郡要人殿

 先の後藤市郎右衛門とこの原武左衛門両人の証言からすると、傳三郎と外記は刺し違えて死んだようである。外記には二人の子供があり両人とも死亡している。
「子」と書かれているが何歳ほどの人であったのだろうか。夫人は隣家の医家明石玄碩の家に逃げ込み助かっている。

夫人は八月八日熊本を離れているが、有縁の人を頼っての離国だと思われるがどちらへ行かれたのか?いずれにしても不可解な事件である。
藩主の居館・花畑邸の目と鼻の先で起こっているが、花畑邸が幼い主・六丸(綱利)を迎えるのは12年後のことである。

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■御尋ニ付而申上覚 後藤市郎右衛門

2017-08-11 08:02:08 | 史料

 佐藤傳三郎が林外記を打ち取った事件に付き、外記の家臣・後藤市郎右衛門の「御尋ね」について口上書である。

                           御尋ニ付而申上覚
    一、佐藤傳三郎殿と外記と今朝五ツ過ニ差違被申様子少も不
      存候 果シ被申候心當少も密之御談合被成候間何も退候へと傳三
      郎殿被仰候ニ付児小姓共も其座ニ居不申候 太刀音高く
      聞え申候付児小姓共私とも様子申聞候ニ付其侭参見申
      候へは子両人共ニ相果被申候ニ付私勘右衛門と申者両人左馬允
      様江伺公右両人相果被申し候通申上候へは番を仕居申候
      へと御意被成候付外記屋敷取罷帰外記死骸之近所ニ
      惣兵衛其外小姓共付置私儀は女房衆居申候所江
      参候へは茂右衛門と申ものハ前廉より女房衆ニ付居申候
      私共ニ女房衆ニ附居申候処ニ表ニ而大勢切合申音仕候而 
      奥之口を■(扌にメ=締)両人奥江附居申候 奥之口を打破り申候
      ニ付両人として外記女房衆を召連明石玄碩所江うらゟ
      退申候處郡安左衛門殿其外御鉄炮衆数人御座候ニ付
      私刀脇差出し不申候ハヽ外記女房衆御通し有間敷由
      被仰付候間無是非刀脇差出し外記女房衆召連玄碩所江
      参申し候 傳三郎殿外記被相果候儀併下々相果候様子
      今日も内々之儀少も存不申候事
    一、勘右衛門儀も相果申様子如何様之存相果候も存不申候
      私茂左衛門両人儀は外記常ニ申付候ハ火事其外何
      事ニ付而も女房衆之裁判仕候へと申付候ニ付今朝も
      女房衆江付居申候事  右之外ニは何ヶ度被成御尋
      候而も申上儀無御座候以上
         慶安三年
           七月朔日    林外記内 後藤市右郎衛門

          志水新丞殿
          西郡要人殿

凶行現場となった林外記の屋敷は、「新熊本市史・地図編」の「20・山崎之絵図但二ノ丸塩屋町之内茂有之」で知ることができる。
市右衛門が外記の奥方を避難させたのが明石玄碩宅とこの口上書に記されているが、まさしく右隣が玄碩の屋敷である。
明石玄碩とは御医師衆 六百石 (真源院様御代御侍名附)
           六百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
           万治二年知行被差上候 六百石 

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■どんと打った花火

2017-08-10 11:54:41 | 徒然

 自衛隊の西部総監部と健軍駐屯地の広大な敷地は、我が家から1キロも満たない距離にある。
我が家からは高いアンテナ塔などが数本、家々の屋根越しに見て取れる。
昨晩は我が家のベランダからかぶり付き状態に花火が上がった。詳しくは判らないが「自衛隊夏祭り」だろう。
昨年は地震後の事で行われなかったのだが、今年は何ともありがたく拝見した。
江津湖畔で行われていた花火大会も、地震後は去年今年と取りやめ、花火大好きの奥方は残念がっていたが、かぶり付きで見られるというので大興奮・・・
小生はあわててカメラを取り出して撮影を試みたが、大輪の花火にタイミングが合わずほとんど失敗。これは証拠写真という意味合いのものです。

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■沢村権兵衛殿

2017-08-10 11:27:19 | 熊本地震

            

 この沢村家は沢村大学吉重の妹聟・九兵衛(天草島原の乱戦死)の嫡子・八郎右衛門友秋を初代としている。沢村家の嫡流を継いだ宇右衛門友好(松井仁平次定高嫡子=松井康之甥)が1,000石を分知した。二代目から700石となったが明治に至る迄この家禄を維持した。
この権兵衛は5代目八郎助であり、明和八年家督 鉄炮頭等を勤め文化四年二月致仕したとある。

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■佐藤傳三郎のこと

2017-08-09 17:38:12 | 史料

先の「林外記の不可解な死」事件についての雑撰録の記事である。佐藤傳三郎も自ら落命するこの事件は、当事者両方が亡くなっており、その真相は闇の中である。

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■テレホンカード

2017-08-09 15:05:58 | 徒然

 以前は諳んじていた「般若心経」だが、最近は相当怪しくなっている。
随分以前友人が亡くなった時、お葬式で「皆様ご一緒に・・」と案内があって参列者一同が般若心経を唱えたことがあった。
当然の事ながらまったくご存知ない方もおられ、非常に戸惑って居られたが私は何とか付いていくことができた。
このテレホンカードは、使い終わってからも私の名刺入れに入ったままである。十数年来の骨とう品である。
またそういう機会に遭遇することが有るかもしれないと思っての事だが、幸いなことに二度目は訪れていない。

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■21:28 震度3

2017-08-08 21:31:59 | 熊本地震

 連日の暑さで少々疲れ気味、早々とシャワーもしたし、今日は早寝をしようかと思ったらぐらりと来た・・・
3くらいかなと思ったら案の定である。
暑くて地下のナマズも耐え切れなかったか。

昨日は立秋、まったくらしくもない昨日今日だが、明日は待望の雨が予想されている。
台風は熊本市内にはまったく雨をもたらさなかったから、10㎜くらいは降ってくれないかなーと思うのだが。

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