今回は~
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「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
(マルコによる福音書、16章17~8節)
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~の「⑥ 蛇をもつかみ」である。
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「蛇をつかむ」というと、『使徒行伝』に記録されている、伝道者パウロの次の事件を連想する(28章)~。
すなわち~、
パウロ一行(「使徒行伝」の著者となるルカも加わっている)は、伝道旅行の途中で上陸したマルタ島の人々に、非常に親切にされる。島の人々はおりから雨が降り出して寒かったので、火をたいてもてなした。そして~
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「パウロがひとかかえの柴を束ねて火にくべると、熱気のために一匹のまむしが這い出してきて、彼の手に取り付いた。・・・(中略)・・・しかし、パウロは、その生きものを火の中に振り落として、何の害もうけなかった」
(『使徒行伝』28章3~5節)
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このくだりを連想するのだが、鹿嶋の正解は少し違う。
ここでの「⑥ 蛇をもつかみ」はむしろ、「恐怖」がなくなることをいっている、とみる。
<蛇は不気味な生きもの>
蛇は、本来多くの人に恐怖を与える。あの眼も、ヌメヌメした動きも不気味だ。
また聖書読みは、『創世記』冒頭で、悪魔が蛇を用いてエバを誘惑した場面も連想する。
だが、ここでは「恐怖が全くない状態」をいっているのだ。
恐怖の反対語は安息(平安)である。人の心に安息が充満であれば、恐怖心の侵入する余地はない。その状態をいっている。
<恐怖は安息心理を失わせる>
恐怖は、たとえ一瞬のものであっても、イエスの「黄金の約束のことば」を信じる「第(III)ステージ」の心理を失わせる。
つまり、イエスと同一化した意識波動の状態を放念させる。
すると、「望むことはなる」という状態も消滅する。
それはイエスの弟子ペテロに起きた次の事件が如実に例示している~
(マタイ14:28)
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~弟子たちが、イエスより先に舟で湖の向こう岸に向かっていると、夜中の三時頃、イエスが湖の上を歩いてこられた。・・・(中略)・・・するとペテロがいう。「主よ、もしあなたでしたら(幽霊でなく)、わたしに、水の上を歩いてここまで来い、と命じてください」と。
イエスは「来なさい」といわれ、ペテロは水の上を歩いてイエスの方に行った。
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「ところが風を見て怖くなり、沈みかけたので『主よ助けてください』といった。」
(マタイによる福音書、14章29~30節)
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ペテロは、イエスの天の意識波動体の中にいて、水の上を歩いていたのだ。
そのペテロの意識に、この世(地上)の物理的意識波動体が一瞬侵入した。
すると、ペテロは地上の物理法則の波動のとおりに、水に沈み始めたのである。
<イエスの与える安息は・・・>
だからイエスは弟子たちにことあるごとに、「平安(安息)でいなさい」「安息あるように」といった。
「私の与える安息は世の与えるものとはちがう」といった。
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世の与える安息とは、「優しい言葉」や「物的豊かさ」などの、安息心理を造る環境条件が形成するものである。
安息を増す、とは、それらの環境要素を増すことだ。
だが、イエスのいう安息は、「(天の)安息の波動体そのもの」なのだ。
その波動体が心に充満すると、もう恐怖の忍び込む余地はなくなる。
その結果、驚くほどに大胆にもなる。
恐怖がゼロになれば、大胆が100%にもなるのだ。
だから、「信じる」の第(III)ステージにいたると、「蛇をも(何の恐怖もなく)当然のようにつかむようになるのだ」と。
今回の聖句「⑥ 蛇をもつかみ」はそう言っているのである。
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