ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『The Collapse of Western Civilization』(Columbia University Press、2014年)を読む。
ナオミ・オレスケス(ハーヴァード大)とエリック・M・コンウェイ(カルテク)は、『世界を騙しつづける科学者たち』(原題『Merchants of Doubt』=『懐疑論の商売人』)を書いたコンビである。そこには、タバコの健康影響、酸性雨、オゾン層破壊、地球温暖化、化学物質の環境影響といった分野において、いかに米国政府と巨大産業とが「結婚」を行い、一部の御用学者と利用しあう形で、ほんらいの危機に懐疑論をぶつけることによって対策を阻害してきたかが書かれている。本質的に相手にするに値しないような懐疑論であっても、メディアはまるで「論争」があるかのように取り扱い、また、懐疑論をぶつけたい側は、両論があることを盾にしてきた。日本でも、科学の「ためにする」懐疑論や、歴史修正主義の懐疑論は、まさに同じように利用されている。
本書は、『世界を―』に続き、その小説版として書かれたものだ。曰く、SF小説は将来を想像し、歴史家は過去を辿る。それに対し、本書は、科学的な知見に基づき、将来のある時点から過去を辿ったものである。
21世紀末。既に気候変動に伴う海水面上昇によって、オランダ、バングラデシュ、ニューヨーク、フロリダなどの低地は水没し、大規模な移住や都市機能の移転がなされていた。対策は可能ではあったが、コスト上の判断により、その地を棄てることが選択された。すなわち、犠牲になるのは常に低所得者であった。そのために、アメリカとカナダは合併し、北欧も大きな国家となっていた。
確かに、ヨーロッパ中世のペスト大流行など、過去にも大災厄はあった。しかし、それらとの違いは、「わかっていた」にも関わらず、有効な対策が講じられなかったことなのだった。直接的な要因は、科学の縦割り、科学が「確実に実証できること」ばかりを対象としてきたこと、利益を追求する巨大産業やそれと結託した為政者たちの行動(なんと、科学者たちの行動を抑圧するための法制度さえ出来てしまうのだ)、市場経済市場主義の失敗といったところ。
市場経済の失敗という点で、著者は、ハイエクやフリードマンといった経済学者について言及している。かれらさえも、新自由主義やリバタリアニズムの権化とばかりは言えず、政府の介入の必要性を認めていたのだという。ノーム・チョムスキーも同様の指摘をしていた(「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」)。アダム・スミスは新自由主義のドクトリンのように扱われているが、実は、その本質は異なるものである。有名な「見えざる手」という表現もまれにしか出てこないのであり、しかもそれは、平等な配分を説くために使っているのである。スミスの言説は、新自由主義の都合のよいように変えられてしまっている、と。
ただ、『世界を―』と同様に、政府のあるべき介入を環境経済という形で解決しようとする考えについては、言及を避けているような印象がある。また、望ましい形の政府の介入として、中国政府が再生可能エネルギーに対して行っていることを称揚している点については、少なからず違和感を覚えた。それによって、中国以外の国の行動を歪め阻害する面があることも無視できないはずである。
いずれにしても、極めて真っ当で興味深い本である。そんなに長くもないので、ぜひご一読を。・・・といっても、アル・ゴア『不都合な真実』と同じように、シニカルな言説のなかに取り込まれてしまうかもしれないと思うと、ちょっとゲンナリしてしまうのではあるが。
●参照
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』
ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』
多田隆治『気候変動を理学する』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
ダニエル・ヤーギン『探求』