神尾健三『ミノルタかく戦えり』(朝日ソノラマ、2006年)を読む。
カメラもレンズも、戦争と切っても切り離せない。朝鮮戦争の取材時に、D・D・ダンカンがニッコールレンズの優秀さを発見・宣伝し、特需も相まって日本のカメラ産業が伸びた歴史がある。レンズのコーティングは交戦時の測距のために重要視されたものだが、そのために必要な真空技術は、原爆開発のために研究されたサイクロトロンの技術によるところが大きいという。もとより、ニコンは国策会社であり、海軍の測距儀を得意とした。
大阪商人・田嶋一雄が創始したミノルタ(千代田工学精工)も戦争と無縁ではなく、海軍から、光学ガラスの溶融工場を作れ、コーティングの技術を開発せよといった命令を受けて苦労したのだという。
ただ、本書によれば、大阪にあるミノルタは他のメーカーとは性格を異にしていたようだ。商売のしかたはもとより、地理的な制約が大きかった。カメラ軍艦部(そういえば、この呼び方も戦争)の製造技術においては、プレス技術と表面処理技術が重要だったといい、その品質は、明らかに、舶来もの>坂東もの(東京)>阪もの(大阪)という差があった。もちろん、その後は、職人が1台ずつ調整しなければならない方法から、素人でも組み立てられる精度の部品を作る方法へとシフトしたわけである。
そのくだりを読んでいて思い出した。もう十年以上前に、「ミノルタA2」(1955年のレンズシャッター機)を中古屋で7,000円ほどで買った。愉しく何度か使ううちに調子が悪くなり、分解して調整し組み上げたのだが、まったく動かなくなった。慌てて「ナオイカメラサービス」の直井浩明さん(赤瀬川原平の本にもときどき登場する)に見せたところ、ネジの締め方がアンバランスだから歪んだのだとの言。普通に組んだだけなのに。結局、A2は手放してしまった。
本書には、戦後、さまざまなカメラやレンズを出していったミノルタの歴史が書かれている。神話のように語られる変人も、天才的な技術者もいたらしい。レンズでいえば、レンジファインダー時代の名レンズ・キヤノン50mmF1.8を設計した伊藤宏と並び称される存在として、ロッコール50mmF1.8を開発した松居吉哉という人がいた。わたしは後者のレンズを使ったことがないのだが、そう言われてみると試してみたくなってくる。
読んだあとに、研究者のTさんと、新宿ゴールデン街の「十月」にまた足を運んだ。写真展を開いている海原修平さんやほかのお客さんたちとカメラやレンズの話をしていると、なんだかまた気になるものが増えてくるのだった。
Tさんが保管していた、1997年の「海原修平写真展」。