松籟夜話という集いに出るため、青山の月光茶房「Bibliotheca Mtatsminda」に足を運んだ(2017/2/5)。
福島恵一 音楽批評
津田貴司 サウンドアーティスト
歸山幸輔 オリジナルスピーカー
契機は、久高島における最後のイザイホー(1978年)の音源(宮里千里『琉球弧の祭祀―久高島イザイホー』)。ここから、声とそれをとりまくもの、その声を発せしめたものという、間口が広すぎるとも思えるリンケージによって、アイヌ、宮古、奄美、台湾原住民(少数民族)、タイ山岳民族、意図的ないたずらとしてのブルガリア、ベトナム少数民族、イヌイットなど、まるで違うはずの土地や人びとが重ね合わされてゆく。ここで津田さんによって提起されたものは、環境と声とのかかわりのようなものだった。
つぎに、福島さんにより、神秘性、場に根付くもの、内界と外界との往還といった鍵をもって、やはり、それぞれ異なる時空間と文脈に属するはずのイメージや音楽の間をつなぎあわせようとする試みがなされた。オリエンタリズム。東松照明の沖縄から南方への視線。比嘉康雄。岡本太郎。アントナン・アルトー。セルゲイ・エイゼンシュテイン。琉球石灰岩。
最後に紹介された音楽家は、灰野敬二(フランスの洞窟で発したヴォイスということ、洞窟という場が象徴的だ)、沢井一恵、ミシェル・ドネダ(やはり琴の沢井一恵、ヴォイスのベニャ・アチアリとのトリオ)といった、越境する者たち。越境といえば、締めくくりに紹介された映像『島の色 静かな声』を撮った茂木綾子のパートナーがヴェルナー・ペンツェルであり、かれがフレッド・フリスを撮った映像作品が『Step Across The Border』であるというオチ。
ところで、このペンツェルこそ、アート・アンサンブル・オブ・シカゴやユセフ・ラティーフを撮った人でもあり、また、相棒のニコラス・フンベルトは歴史修正主義への強烈な一撃たる『Wolfsgrub』を撮った人である。このあたりからも次の風呂敷がありそうな予感をあらためて覚えた。
それはそれとして、イザイホーは琉球王国の正史と聞得大君を頂点とする権力体系の中に位置づけられるものであり、それは吉本隆明『南島論』におけるように、われわれが日本神話を外から眺めるのと同じスタンスで相対化されるものだ。また、琉球石灰岩の洞窟は、既に昔から、黄泉の国、熊野と重ね合わされている(上里隆史『海の王国・琉球』)。そのような歴史を経て、沖縄の御嶽までが神社の権力体系に組み込まれようとしていた(加治順人『沖縄の神社』)。すなわち、いまわれわれがイメージする「聖なるもの」は、すでにイメージされ、権力の網の中に絡めとられてしまっている。
宮里千里『琉球弧の祭祀―久高島イザイホー』において、比嘉康雄が琉球のルーツを日本に見出そうとする伊波普猷(『琉球人種論』、1911年)の言説を誘導的に用いる場面が、唐突とも思える形で挿入されている(伊波普猷『古琉球』はそのような書物でもあった)。これは、罪なイノセントさに対する冷や水という意図的な罠(誰の?宮里千里さんの?)かと思えてならないのだ。
そんな話を、終了後に福島さんにしたところ、そうするとこの場がカルチュラル・スタディーになってしまう、と。確かにそうである。意図的に乱暴に越境し、別の数列を創りだすことが本意に違いない。いずれにしても、脳の使っていなかった箇所が刺激されるようで、愉快な時間だった。
●参照
宮里千里『琉球弧の祭祀―久高島イザイホー』
久高島の映像(1) 1966年のイザイホー
久高島の映像(2) 1978年のイザイホー
久高島の映像(3) 現在の姿『久高オデッセイ』
久高島の映像(4) 『豚の報い』
久高島の映像(5) 『イザイホー~沖縄の神女たち~』
久高島の映像(6) 『乾いた沖縄』
吉本隆明『南島論』
「岡谷神社学」の2冊
柳田國男『海南小記』
伊波普猷『古琉球』
伊佐眞一『伊波普猷批判序説』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』
加治順人『沖縄の神社』
岡本亮輔『聖地巡礼』