林立雄『ヒロシマのグウエーラ ―被爆地と二人のキューバ革命家―』(渓水社、2016年)を読む。
先日、記者のDさんと有楽町で飲んだときに頂戴した。(ありがとうございます。)
「グウエーラ」とは何か、ゲバラのことである。チェ・ゲバラは、フィデル・カストロらとキューバ革命(1959年)により政権奪取したその年に、訪日し、さらには突然に広島にやってきた。そのとき、ゲバラが何者であるかも、名前さえも、日本では知られていなかった。著者(故人)は、原爆慰霊碑に献花するゲバラを取材した唯一の新聞記者だった。そして、乏しい文書から引っ張ってきた名前が「グウエーラ」だったのである。
ゲバラ訪日の目的は、国を存続させるために必要な経済的なつながりを求めてのことだった。具体的には、キューバの砂糖を輸出する先を探していた。しかし、それとは別に、被爆地・広島を訪れたいと熱く願い、外務省が嫌がるであろうことも察知して電撃的に動いた。ゲバラは、「日本人はこんなに残虐な目に遭わされて腹が立たないのか」と直情的に問うたという。
それから36年が経ち、今度は、フィデル・カストロが電撃的に日本を「非公式」に訪問した。当時、自社さきがけ政権で首相は村山富市。社会党とは言え、アメリカという主人の機嫌を気にすることは今と変わらない。村山首相は、「外務省の耳打ち」により、アメリカの受け売りで人権問題を持ち出してカストロの不興を買った。ここで、より高い政治家としてのヴィジョンで語りあっていたなら、社会党~社民党の凋落も、これほどべったりの対米追従も、少しは違った形に軌道修正されていたかもしれない。
カストロは2003年にも再来日し、ゲバラと同様に、原爆慰霊碑に献花している。そのとき、著者の機転で、1959年のゲバラの写真を見せられたカストロは興奮、感激したのだという。長く歩んで清濁併せ呑んで政治家となった革命家が、熱く走って殺された革命家に、想いを馳せたのだろう。胸が熱くなるエピソードだ。
ゲバラもカストロも、原爆資料館を実に熱心に見学したという。一方、アメリカのオバマ大統領による歴史的な広島訪問(2016年)の際には、ほとんど見学の時間は作られなかった。この段取りを設定した者が、キューバの革命家ふたりの言動の意味を深く理解していたなら。
●参照
細田晴子『カストロとフランコ』(2016年)
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」(2014年)
太田昌国の世界 その10「テロリズム再考」(2011年)
『情況』の、「中南米の現在」特集(2010年)
中南米の地殻変動をまとめた『反米大陸』(2007年)
チェ・ゲバラの命日