Sightsong

自縄自縛日記

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『マリア・ブラウンの結婚』

2017-12-30 23:24:04 | ヨーロッパ

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『マリア・ブラウンの結婚』(1979年)を観る。

ベルリン。マリアの夫は、結婚1日半で戦争に出征し、間違って戦死したと伝えられる。生き延びるために、マリアは連合軍の黒人兵士と、結婚しない形でパートナーとなろうとする。しかし、まさにベッドインのときに、夫が帰ってくる。マリアは鈍器で兵士の頭を殴り、殺す。その罪は夫が被り、長く収監される。またもマリアは生き延びるために、女性であることを使うのだが、それを刑務所の夫に明け透けに喋る。かれはそれを受け容れられず、去ってゆく。マリアは絶望する。

ファスビンダーらしい描写は、愛の不毛というよりも、いやそこまでやるのかという展開か。一歩間違えるとギャグになってしまうほどのプロットを躊躇なく突き進むことで圧倒されるのだが、これは鈴木則文と同じ天才性のゆえであったに違いない。もう救いも何もあったものではない。

その生き地獄の中で、マリアことハンナ・シグラの恍惚とした表情が凄い(ジャン=リュック・ゴダール『パッション』においてのように)。あるいはハンナ・シグラのための映画であったのかもしれない。

●ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
ファスビンダーの初期作品3本(1969-70年)


徐京植『日本リベラル派の頽落』

2017-12-30 10:05:59 | 韓国・朝鮮

徐京植『日本リベラル派の頽落』(高文研、2017年)を読む。

本書には、1989年から現在までの著者の文章が収録されている。テーマは、植民地主義、戦争責任、慰安婦、ナショナリズムといったものであり、これらの問題を気にかけていた者にとってはさほど新しいものではない。指摘は正鵠を得ており、それらが新しくないということが、日本において歴史の真っ当な共有が失敗してしまったことを如実に示している。

思索の数々は、それを記憶にとどめておき、深めてゆくべきものだ。

かつて小林よしのりは、侵略の手先となった皇軍の兵士を「じっちゃん」と呼び、感情を欺瞞的に肥大化させて日本の侵略責任や戦争責任をなきものにしようとした。しかし、著者が言うように、「罪」と「責任」とは異なる。手先が組織の決定や空気に抗えなかったからといって、そして「罪」に問われなかったからといって、「責任」は存在するわけである。すなわち大日本帝国の手先と市民とは無条件に同じとはできない。この差について、柄谷行人は個人と社会との間にある自由度を「括弧に入れる」ことによる態度変更を説いた(『倫理21』)。また、高橋哲哉は「責任」は「応答責任」だと明確に位置づけた(『戦後責任論』)。こういった知識人たちの思索を発展させずに、暴力的に歴史を歪め、忘却の彼方に追いやろうとする策動、すなわち歴史修正主義は、いまなお怪物のようになって生きながらえている。

これは著者にとっての「韓国人としての責任」についても同じであるようだ。韓国の兵士も、ベトナム戦争において、残虐行為を行った。

「私は、彼(※小林よしのり)とはちがって、自分を騙してまで「クソまみれ」の背中を立派だと思い込もうとしているのではない。自国の権力によって理不尽にも背中になすりつけられた「クソ」を、なんとかして拭いとるために努力しようとするのである。私の「韓国人としての責任」は、朴正煕や全斗煥と「同一化」して、彼らを「かばい」、彼らの罪に連座することではない。彼らやその残党と闘い、韓国政府にベトナムに対する公式謝罪と個人補償を実現させ、そうしたことを再び繰り返さないような社会に韓国を変えるべく務めることである。それが背中の「クソ」を拭いとる唯一の途だからだ。」

こういった「責任」についての考え方は、北朝鮮の拉致被害者問題についても、まさにブーメランのように戻ってくる。工作員が組織の一員として「やむを得ず」やったことだとして認めるのか。ましてやその罪や責任を無きものとして一方的に押し付けてきたとして、それを認めるのか。拉致被害者家族を政治利用しつつ、慰安婦や侵略の犠牲者を罵るのか。それはあまりにも非対称である。

●参照
徐京植のフクシマ
徐京植『ディアスポラ紀行』
高橋哲哉・徐京植編著『奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展の記録』
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』


ブルース・ウェーバー『Let's Get Lost』

2017-12-30 09:33:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブルース・ウェーバー『Let's Get Lost』(1988年)をDVDで観る。

VHSは持っていたのだが、やはり、こうして改めて観たかった。

若者たちが海岸で踊りながらディジー・ガレスピーのソロを口ずさむはじめの場面から、どうしようもなく惹き込まれる。亡くなる直前のチェット・ベイカーはまだ60歳にもなっていないのに、皺が深々と刻まれ、美女を横に座らせて諦念のような表情を浮かべており、どうみても普通の人生を送ってきた人ではない。この時間をとらえたブルース・ウェーバーの手腕はさすがである。

そして、チェットが「Everytime We Say Goodbye」、「Almost Blue」、「Imagination」などを歌い、吹き、酒場でクリフォード・ブラウンのソロを真似して呟く、そのひとつひとつが沁みて沁みて仕方がない。

●チェット・ベイカー
ロバート・バドロー『ブルーに生まれついて』(2015年)
チェット・ベイカー+ポール・ブレイ『Diane』(1985年)

●ブルース・ウェーバー
カメラじろじろ(2) 『トゥルーへの手紙』(2004年)


黒沢清『散歩する侵略者』

2017-12-30 08:39:28 | アート・映画

バンコクからの帰国便で、黒沢清『散歩する侵略者』(2017年)を観る。

3人の宇宙人が、地球侵略準備のためにやってくる。人間の身体を乗っ取って、人間を理解するために、他者から概念を盗む。自由という概念、家族という概念、所有という概念。盗まれた者は文字通り腑抜けとなってしまう。

日常の風景とは当たり前のことであり、むしろ、ささくれてやさぐれた風景の中での淡々とした蛮行が怖い。この侵略が方向を変えたこと、それは、愛という概念を盗もうとしたことにあった。まさに「愛でもくらえ」。