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自縄自縛日記

『上野英信展 闇の声をきざむ』

2017-12-16 09:54:57 | 思想・文学

『上野英信展 闇の声をきざむ』と題された展示が福岡市文学館で開かれていた。遠くてちょっと行けないので、図録を読んだ。直接取り寄せるつもりだったが、新宿の模索舎で入手することができた。

山口で生まれ北九州で育った上野英信は、満洲建国大学に進み、大日本帝国のエリートの道を歩みはじめていた。ところが宇品で原爆にあい、心の中に闇を抱える。敗戦後編入した京都大学を中退し、かれは筑豊の炭鉱へと向かった。これが、記録作家・上野英信のはじまりである。

たえず現場や個人を追っていた上野に対し、谷川雁は「鬼ゴッコ」と揶揄した。『追われゆく坑夫たち』の出版記念会においては、谷川は、「せっかく一度、思想の範型として追いつめられようとしたイメージが実態と縁を切ることができないために、マイナスの労働者像が形而上化され、聖化されてしまっている」と批判もしている。また、谷川は、石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』(タイトルは上野が考えた)に対しても、<水俣以前>の水俣や患者を聖化したと、同様の批判を展開している。しかし本書において井上洋子氏が指摘するように、それは、暗部や闇を掘り下げていった上野や石牟礼の世界を正当に評価したものとは言えまい。「鬼ゴッコ」こそが上野英信が残した作品の価値に他ならない。

上野は、炭鉱離職者たちが南米移民になった姿を『出ニッポン記』で描いている。これは政府の棄民政策のひとつだが、さらにさかのぼり、20世紀初頭に沖縄からメキシコ、キューバへと出て行った者の存在は、上野にとっては発見であり驚きであった。やはり炭鉱労働者として。これが『眉屋私記』として結実するわけだが、実は、その続編的な作品の構想もあったという。上野がもっと生きていたなら、沖縄についてさらに掘り下げていたのだろう。

それにしても、炭鉱、移民、沖縄。また、熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』にあるように、原発。すべてが差別政策と棄民政策というキーワードでつながってくる。これは結果ではなく明確な政策であった。本書の巻末に収録された、上野による講演「解放の思想とは何か」に次のようにある。まさに現在ゾンビのごとく蘇っているかたちではないか。

「・・・文盲政策というものが日本の資本主義の中には一貫してあったんだということを、私たちは忘れてはならないと思います。覚えたくても覚えさせてくれない。字が読めなければ読めないほどいい。そういう文盲な人を必要とする、そういう資本主義の構造というものを日本の資本主義はもっておったわけです。」

そしてまた、差別にも結果としてではなく意図的な政策の関連があった。

「・・・筑豊だけでも三百を越すが散在しておるということでありますけれども、これはただ単に炭鉱の近くにがあるということだけではありません。(中略)ほとんど例外なしに、炭鉱が坑口をあけるときにはの土地をねらうわけです。」

●参照
上野英信『追われゆく坑夫たち』
上野英信『眉屋私記』
伊藤智永『忘却された支配』
西嶋真治『抗い 記録作家 林えいだい』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
本橋成一『炭鉱』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
石井寛治『日本の産業革命』
高野秀行『移民の宴』(沖縄のブラジル移民)
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(沖縄の台湾移民)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー