安田峰俊『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』(講談社、2018年)を読む。
「八九六四」、すなわち、1989年6月4日に、第二次天安門事件における大弾圧が起きた。多くの市民が殺された。
本書は、それに何かの形で関わった人たちに直接インタビューを行い、ナマの声を集めたものである。潰された死体を視た者もいた。電波ももちろんネットも届かない地方で運動を行っており、それを視ていない者もいた。わたしは当時の若者たるかれらと同世代だが、何が起きているのか理解できずテレビを呆然として視ていたが、情報の量という点でいえば決して少なかったとは言えない。それほど「視える」ものに濃淡がある時代だった。
とは言え、本書を読むと、その後、かれらの多くは同じような波に呑みこまれているように思える。すなわち、中国は経済開放・経済発展に大きく舵を切り、大きな豊かさを手に入れた。共産党独裁は良くも悪くも続き、むしろ習近平政権となってから情報統制が強化されている。若い知識人が、現実を知らぬまま、ピュアに後先考えず突き進んだ運動だったとの冷めた見方さえ共有されているようだ。仮にそうでなかったとしても、現実の生活を前にしては大した意味を持たない。成熟か、退行か、それもまたどちらでもよいというわけである。
もちろん世界は均一ではない。ここには、妥協を選んだ多くの人たちとともに、事件後にネット情報などで「真実に目覚めた」人や(ネトウヨのように)、全てを失いつつもなお動き続ける人や(容赦なく弾圧されている)、台湾やアメリカといった別の活動の地を選んだ人も登場する。やはり中国の力が増強されている香港において、日本と同様かそれ以上に極端な左右の動きが出ているということにも注目すべきである。
やはり「現実」にかなりの哀しさを覚えてしまうのだが、そればかりではない。事件がなかったら、世界の民主化はこのようには進まなかった。台湾のヒマワリ学運の成功は、実は事件の教訓が活かされてのことだった可能性があるという(逆に、香港の雨傘革命においては事件を悪いようになぞってしまった)。また本書に書かれているわけではないが、事件のあと、中国から派遣されたある代表団が、ベルリンのホテルに宿泊した。市民がそれを知り、抗議のデモをはじめた。やがて抗議の目標はドイツ政府や党に向けられ、ベルリンの壁の打ちこわしが始まった、という話もあったようだ(竹内実『中国という世界』)。
事件のことを、記憶と思索の領域になんどでも浮上させなければならない。
●参照
加々美光行『未完の中国』
加々美光行『裸の共和国』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
加々美光行『中国の民族問題』
L・ヤーコブソン+D・ノックス『中国の新しい対外政策』
国分良成編『中国は、いま』
稲垣清『中南海』
ダイヤモンドと東洋経済の中国特集
白石隆、ハウ・カロライン『中国は東アジアをどう変えるか』
『世界』の特集「巨大な隣人・中国とともに生きる」
『情況』の、「現代中国論」特集
堀江則雄『ユーラシア胎動』
天児慧『中華人民共和国史 新版』
天児慧『中国・アジア・日本』
天児慧『巨龍の胎動』
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)
加藤千洋『胡同の記憶』
藤井省三『現代中国文化探検―四つの都市の物語―』