Sightsong

自縄自縛日記

上海の夜と朝

2008-10-12 18:23:21 | 中国・台湾

上海の昼間は見ていない。夜は飲み食いをして、朝は近くを散歩しただけだ。トーキョーなんか相手にもならない、『ブレードランナー』を地で行くような都市だなという勝手な印象が残っている。

夜景のなかで目立っていたのが、新しい「第二森ビル」である。100階以上もあり、周りの超高層ビルが低く見えてしまう。いちばん上に四角い穴があいていて、栓抜きのように見える。この穴、計画では丸のはずだったのが、日の丸をおもわせるという理由で形が変更されたときいた。


浦東空港 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


高速 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


理髪店 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


朝の公園 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


朝の公園 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


万里の長城の端ッコ、エスピオミニ

2008-10-12 00:08:02 | 中国・台湾

先月中国を訪れたのは数日間だったので、スーツケースは置き去りにして手荷物だけにした。それで、コンパクトなペンタックス・エスピオミニを鞄に入れた。

小さいためすぐにポケットから出して片手で撮ることができるのはいいことだが、やはり、ピントも露出もコントロールできないのはもどかしい。ピントも甘いような気がする。これがすっかり廃れてしまった、「高級コンパクト」と呼ばれたカメラ(コンタックスT3、ミノルタTC-1、リコーGR-1vなど)だったらどうなのだろうか。こればかりは使ってみないとわからない。エスピオミニは、レンズは良いが機能が単純で、「準高級コンパクト」と呼ばれることもあった。

フィルムは、ローライの「レトロ400」を使った。暗室で引き伸ばしているとわかるが、Tri-XやTMAX400と比較して銀塩の粒子が目立たない。ただ、堀内カラーでは現像を引き受けてくれなかった。

北京から北東に300km弱のところに、秦皇島という都市がある。渤海には、万里の長城の端ッコが飛び出している。山海関という明代の関所もあった。雨だったので急ぎ足で観てまわった。片手に傘、片手にカメラという使い方ができたのはコンパクトカメラさまさまだ。

とりあえず満足して空港に行ったら、上海行きの便が止まっていた。飛行機に乗るはずだった乗客全員がバスに乗り込まされ、また市内に戻り、ぼろホテルに軟禁された。何しろいつ連絡があるかわからないので、せっかく晴れたのに外に出るわけにはいかない。昼食も部屋に電話があり、食堂で見知らぬひとたちと円卓を囲んで食べた。飛行機が飛んだのは暗くなってからだった。


長城と渤海 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


長城と渤海 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


山海関 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


山海関 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


山海関 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


山海関 Pentax ESPIO MINI、Rollei レトロ400、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


ハノイでサックス・マエストロ、クエン・ヴァン・ミンを聴いた

2008-10-11 01:28:22 | アヴァンギャルド・ジャズ

ハノイに行くのだと言うと、師匠の松風鉱一さんが、巧い親子のサックス奏者がいるらしいとチェンマイで聞いた、と教えてくれた。それで、旧市街にある「Jazz Club Minh」に出かけた。

ライヴは9時からだ。8時前には客がひとりもいない。店内には、そのマエストロがウェイン・ショーターと並んで撮られた写真が飾ってあった。コーラを飲みながら待っていると、欧米人がだんだん集まってきた。

編成は、クエン・ヴァン・ミン(アルトサックス)と息子のクエン・ティエン・ダック(テナーサックス)、それからキーボード、エレキベース、ドラムス。スタンダードばかり、「ディサフィナード」、「イージー・リビング」、「リカード・ボサノバ」、「イン・ザ・ムード」なんかを演奏した。

はっきり言って、ベースとドラムスはリズムを単調に刻んでいくだけでまったく面白くない。息子のテナーはどうもはっきりしない感じで、時に良いアドリブ・フレーズを吹くが、響く低音やフラジオ奏法による高音を混ぜるのがあざとい気がして、好きになれない。ムード歌謡を聴きにきた気分だ。ところが、親父のアルトサックスだけは綺麗な音色、澱みないアドリブなど巧く、別物だった。

帰る際にCDを買った。いくつも書いてあってわけがわからないので、クエン本人にフェイヴァリットを尋ねて、『Birth '99 The Traditional Music of Viet Nam with Jazz Style』というのにした。ちょっと話したが、やはりチェンマイで「Bamboo Sax」を作っているドイツ人は良く来ると言っていた。また、日本人なら廣木光一と演奏したことがあるぞ、とのことだった。

帰国してから聴いた。最後に1曲、「ミスティ」を廣木光一とデュオで共演している。どうもこのCDは、唯一日本で発売された『バース』(PIRKA MUSIC)と同じもののようだ(>> リンク)。本人はそんなこと覚えていなかったに違いない。いい加減だなあ(笑)。

ところで、ライカのレンズ、ズミターを使って撮影してみた。光がまわらないような状況で、このオールドレンズを解放で使うとどんなものかと思ったが、やはり、限界がもろに出ている。ボケも煩雑だ。しかし、クエンも1950年代生まれのようだし、敬意を表して1951年製造のレンズを使ったということでよしとする。それに、50年前に感度3200のフィルムなんて考えられなかったのだ。その意味では、当時ありえない撮影条件でレンズを使っていることになる。


クエン・ヴァン・ミン Leica M4、Summitar 50mmF2、TMAX3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


グラス Leica M4、Summitar 50mmF2、TMAX3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


クエン・ヴァン・ミンとその息子 Leica M4、Summitar 50mmF2、TMAX3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


本を読む客 Leica M4、Summitar 50mmF2、TMAX3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


ハノイの夜 Leica M4、Summitar 50mmF2、TMAX3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』

2008-10-08 23:45:46 | 思想・文学

フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』(平凡社ライブラリー、原著1989年)は、ガタリの環境論かとおもいきやそうではない。ここでガタリの言うエコロジーとは、環境のエコロジーだけでなく、社会のエコロジー精神のエコロジーを含んでいる。そしてそのようなエコロジー概念が哲学と交錯するあり方をエコゾフィーと呼んでいる。

もっとも、定義などは問題でない。自然環境が一様な法則に従う構成主義的なものではありえないように、社会も精神もそうであっては破滅する。静的な構成要素という捉え方であってはならない、という思いが、ガタリをしてエコロジー概念を拡張させたのだとおもえる。

言い回しは平易ではないものの、本書の幹は(ガタリであるからリゾーム的にイメージすべきか)、シンプルで情熱的ですらある。ハノイの空港での長い待ち時間に読んだが、いかに読み手が能動的に体内のボキャブラリー(言葉に限らず)を用いて再構築するかによって、面白さが異なってくる。

ガタリがエコゾフィーを説く背景には、ほんらい無限の差異が圧延され、同一の価値次元のもとにすべてが総体の構成要素として奉仕するような世界への抵抗がある。たとえば、国家というものの強化、新自由主義的な世界市場、軍事・産業複合体といったところが想起される。

それに対して、エコロジー的な身振りとしては、常に<実践>により、自己領域からの脱領域をはかり続け、何か大きなものに依拠するのではない論理を構築し、異物たることが考えられているようだ。これは、誰もが<芸術家>であることに他ならない、という説明となる。ガタリがこちらを安心させるのは、<実践>が日常的な身振りであり、決して高邁な活動などを意味しているわけではないことだ。

「精神、社会体、環境に対する行動を別々に切り離すのは正しくない。この三つの領域の劣悪化を直視しないでいると―――メディアがそれを支えるかたちで―――、やがて世論は小児化し、民主主義は破滅的な無力化にいたりつくだろう。」

「さまざまに異なった実践のレヴェルがあり、それらは何も均質化したり、ある超越的な後ろ盾の下に無理につなぎ合わせたりするにはおよばないのであって、むしろ、異種混成的な過程に入るべきなのである。」 「特異性、例外性、稀少性というものを、国家秩序的発想をできるだけ排しながら総体的に把握し、位置づけることが要請されているのである。」

「個人的・集団的な主観性が、自己同一性に囲いこまれ、「自我化」され、個人別に仕切られた境界領域からいたるところではみ出し、社会体の方向だけでなく、機械領域、科学技術的な参照の場、美的世界、さらには時間や身体や性などの新たな「前-個人的」理解の方向へと、全方位的にみずからをひらいていくようにならなければならない。再特異化の主観性が欲望や苦痛や死といったようなすがたをまとった有限性との遭遇を真正面からうけとめることができるようにならなければならない。」

社会と個が、メディアを通じて判断停止に陥り、それを喜んで受動的に支えているような状況を想起するなら、蠢き続ける自律的な異物であろうとすることは、決して空論ではないとおもえる。むしろ、元気の出る本である。


牛乳(3) 森まゆみ『自主独立農民という仕事』

2008-10-07 23:53:16 | 食べ物飲み物

森まゆみ『自主独立農民という仕事 佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々』(バジリコ、2007年)は、牛乳を中心にした本ではない。あくまで、佐藤忠吉氏という魅力的なひとの活動や考えを紹介している本だ。著者は、タウン誌『谷中・根津・千駄木』発行の中心的人物だったこともあり、「ひと」という単位での見せ方がとてもうまく、引き込まれて読んでしまった。

木次は出雲にある。ここで佐藤忠吉氏は、日本ではじめて、63℃30分殺菌のパスチャライズド牛乳を売り出したという。独特なのは、日本の農政の乳量主義やコスト主義、牛乳濃度主義、単一作物主義、農薬多使用主義などにすべて反したスタンスだ。長い模索の末、あくまで気候風土に合った乳業のため、ジャージーやホルスタインなどの半分未満しか乳を出さないブラウンスイスという牛を育てている。

穴がぼこぼこあいたエメンタールチーズの製造については、平澤正夫『日本の牛乳はなぜまずいのか』(草思社)にも中心人物として登場する乳業の技術者、藤江才介という技術者に指導を受けたようである。藤江氏も、パスチャライズド牛乳を推進していた。

木次乳業で抱いていた疑問は、「牛乳は日本人に必要ないのではないか」という思いだったという。そんななか、高温加熱の牛乳はたんぱく質の熱変性によりカルシウムの吸収が悪く、焦げたような匂いがすることを認識し、パスチャライズを開始する。ここでは乳糖の分解ではなく、可溶性カルシウムの消化吸収のよさをポイントとしているわけである。その思いもあり、何と、製品にも自動車にも「赤ちゃんには母乳を」と、牛乳メーカー自らが書き込んでいるのだ。

牛乳のほかにも、佐藤語録とでもいうべき言葉に含蓄があり、いちどお会いしてみたいとおもわせる魅力がある。

「人生、みんな愛しいです。いかなることがあっても愛しい。思い出しても難儀なときのことがいちばん愛しい。中途半端にいい目にあったことは忘れてしまう。ついでに中途半端につらいこともみんな忘れてしまう。難儀を乗りこえ乗りこえ来ることが、いちばん生き甲斐でしょうが。ちがいますか。うまくいくこともあるし、うまくいかんときもある。失敗のない人生は失敗でございます」

「もちろん並行して米をつくり、小麦、豆、芋をつくり、ナタネやゴマもつくり、養蚕もタバコ栽培も多少はやり、鶏も羊もブタも飼う。ほんとうに自給自足に毛のはえたものですが、ほとんどのものをつくっとった。でも我々には別の夢があった。牛を飼って乳をとり、それを加工して付加価値をつけ消費者に届けるという。素材の生産だけだったら我々は都市の奴隷にすぎない。」

「そもそもどんな農法でやるかは農民一人一人が考えて決めるもので、行政が有機農業をすすめるなんてのは私は大反対、納得して自らやるもので、お上が旗ふって上からやらせるべきものではない。それではそれを強いる者がおらなくなったら、それで自然消滅してしまう。あくまで農民は自主独立農民でありたいということです」

「弱肉強食、自由競争の資本主義が勝ったとは私は思っておりません。これは環境をくいつぶし、生存の基盤を掘りくずしている。それに変わる自立自治の生き方を『ゆるやかな共同』の中で考えていきたいと思っております」

この、「ゆるやかな共同」を模索するため、佐藤氏は、イスラエルのキブツを見にいき、米国のアーミッシュにも興味を持っているという。「ふところまで入りこまず、お互いをみとめあって助け合う」という、「個」と「社会」とのバランス感覚はとても興味深い。

●参考
○牛乳(1) 低温殺菌のノンホモ牛乳と環境
       - 平澤正夫『日本の牛乳はなぜまずいのか』(草思社)
       - 中洞正『幸せな牛からおいしい牛乳』(コモンズ)
○牛乳(2) 小寺とき『本物の牛乳は日本人に合う』
       - 小寺とき『本物の牛乳は日本人に合う』(農文協)
沖縄のパスチャライズド牛乳


新浜湖干潟(行徳・野鳥保護区)

2008-10-06 23:59:10 | 環境・自然

市川市行徳には野鳥保護区があり、宮内庁の鴨場と接している。このあたりはかつて三番瀬と同様に干潟だったが、埋立が進み、何とか人工の潟湖「新浜湖」として残されている。江戸川放水路ではトビハゼを見ることができなかったが、ここにも棲息しているらしい。ただ、普段は中まで入っていくことができない。

歩道から見ると、びっしりと生えた葦、それからクサガメ。土日は歩道より新浜湖近くの林地に入ることができる。海辺なので、トベラの樹が目立っていた。実を潰してみると中は真っ赤だ。林地の脇の歩道には側溝があり、5cm近くにもなるクロベンケイガニが冗談のように大勢いてちょっと怖い。ここの自然観察会にも、そのうち参加してみたいとおもっている。


新浜湖 FUJI GW680III、FUJI PRO400、ラボプリント


新浜湖 FUJI GW680III、FUJI PRO400、ラボプリント


新浜湖 FUJI GW680III、FUJI PRO400、ラボプリント

●参考
○三番瀬 (千葉県浦安市~市川市~船橋市)
盤洲干潟 (千葉県木更津市)
江戸川放水路の泥干潟 (千葉県市川市)
○泡瀬干潟 (沖縄県沖縄市)


ラオス、ヴィエンチャンの本

2008-10-05 23:44:59 | 東南アジア

短期間ではあっても、おもいがけず仕事でラオス・ヴィエンチャンに行くことになり、本棚を眺めると何冊もラオスの本があった。独身時代、次はラオスへの独り旅もいいかなと考えて勉強していたのだった。

もっともコンパクトにまとまっているのが、青山利勝『ラオス インドシナ緩衝国家の肖像』(中公新書、1995年)だろう。メコン川をタイとつなぐ「友好橋」の建設やその他の公共事業、ODA事業などに肩入れしていて、経済発展重視に偏っているきらいはあるものの、近現代史や社会主義の特徴を整理してあって読みやすい。特に、ヴェトナム戦争といえばヴェトナム、カンボジアを中心に考えてしまうが、米軍の空爆でラオス国民の11%(330万人のうち30万人超)が死亡し、これはヴェトナムの10%より高いこと、その北爆による爆弾の総量は300万トン以上であったこと(1人あたり1トン超)、などの指摘には驚かされてしまう。

開発といえば、実際に、日本のラオスに対する援助額は非常に大きく、国道1号線やワッタイ国際空港の新ビルがこの形で作られたというモニュメントがあった。一方、中国の援助も額は小さくても目立つもので、その対価として、ヴィエンチャンにチャイナタウンが近々できると現地のひとに聞いた。

綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいラオス』(弘文堂、1996年)は、さらに踏み込んで詳しく書かれている。面白いのは、1940年ころの地図と、現在の様子とを見比べても、ヴィエンチャン中心部はほとんど街区の構成が変わっていないように見えることだ。古い地図において荒地であった土地に街が広がったに過ぎなくて、中心部はあくまで古くからある部分なのだ。古い地図の右上に「タート・ルアン」と見えるのは16世紀に建設された黄金塔であり(今回観ることができなかった)、その間の三叉路近辺にある「パトゥーサイ」という凱旋門は、戦没者慰霊塔であるから、当然まだない。


1940年頃のヴィエンチャン中心部(綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいラオス』より)


現在のヴィエンチャン中心部(ホテルでもらった『Tourist & City Map of Vientiane Laos 2007/1』より)

中心部はとにかく狭く、ちょっと歩けばどこにもすぐに着いてしまう。アジアの首都とは思えないほどのんびり、ほのぼのしている。驚くべきことに、タクシーがほとんどいない(空港前にもいない)。その代わり、タイやヴェトナムと同様にトゥクトゥクはいっぱい居るのだが、客引きがまったく熱心でない。道を横断するのも楽勝だ(中国やインドでの横断は命懸けである)。仕事だからゲストハウスには泊まらないが、雰囲気のいいところがたくさんあり、ヨーロッパ人たちがくつろいでいた。独り旅でも家族旅行でも良いところかなあとおもってしまった。

写真集は、太田亨『仏の里・ラオス』(東方出版、1999年)曹洞宗国際ボランティア会『ピーマイ・ラオ ラオスの心を訪ねて』(現代企画室、1996年)を持っている。前者はルアン・プラバンの様子が中心だが、ヴィエンチャンの寺もいくつか含まれており、繰り返し観ても良い写真集だ。やはりカラーリバーサルは眼が悦ぶのだった。

ところで、ヴィエンチャンの西洋人・日本人向けとおもわれるスーパーで、ラオス最南部のボラヴェン高原で栽培しているコーヒー豆を買って帰った。200グラムを3パックで10ドルそこそこだった。フェアトレードを謳っているが、さて、どれ位が農家の手に渡るのかはここのウェブサイト(>> リンク)を読んでも書かれていない。


『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C

2008-10-04 21:56:11 | 東南アジア

1週間ほど、ハノイ(ヴェトナム)とヴィエンチャン(ラオス)に行ってきた。行きの機内で読んだのは、坪井善明『ヴェトナム新時代―――「豊かさ」への模索』(岩波新書、2008年)だ。

東南アジアには、タイに何度か行ったことがあるだけで、ヴェトナムを訪れるのははじめてだ。正直言って、ヴェトナム戦争以外の近現代史についてあまり知らなかったので、とても参考になった。

なかでも興味深い章が、第6章の「ホーチミン再考」。かつては、階級闘争至上主義ではなく「民族の独立」を掲げるホーの思想が傍流とされながらも、やがてヴェトナムにとっては本流となり、独立を達成する。さらに、著者は、ホーの理想はその民族主義的なものにあったのではなく、ほんらい米国とフランスが掲げた精神を継ぐ共和国精神にあったのだと考える。人種や地域によって差を設けるのではない市民により構成される国家というこの理想は、しかし、ヴェトナムでは体現されていないとも示している。そして、実際に、いまだ共産党による支配構造が根強く残っている。

今回、空いた時間に、ハノイの「ホーチミン廟」を訪れたのだが、工事中で閉鎖されており、ホーの遺体を目にすることはできなかった。ただ、紙幣にもあちこちの看板にもホーの姿は描かれているから、別に見ないからといって何ということもない。

戦争の後遺症は南北分割からもきている。鉄鋼や石油精製の産業が育たないのは、適切な立地計画に反して、たとえば、旧「南」の地域をまず富ますわけにはいかない、国全体として均衡の取れた発展をしなければいけない、などといった強い意向が疎外してきた経緯もあるという。ただ、昨年(2007年)のWTO加盟もあり、新たな計画は進んでいるから、数年経てば産業地図も修正されるのだろう。これが良いことかどうかはまた別で、自由貿易が日本の農業に甚大な影響を与えたと同様に、農業にも他の面にも歪みがさらに出てくるに違いない。

ほかにも、党書記長(国内的にはナンバーワン)、国家主席(対外的にはナンバーワン)、首相など要職が並存していることの事情や、枯葉剤の影響の実情などが書かれていて、良書である。

ところで、ベトナム航空の機内誌『HERITAGE』(2008/9-10)を読んでいたら、ハノイの写真家グエン・フー・バオが撮った海辺の生活の写真が掲載されていた。それらはすべて素晴らしい写真だったのだが、それはさておき、扉にカメラの写真があった。よくみると、旧ソ連のメーカーKMZ(クラスノゴルスク機械工場)が製造していた「ゾルキー」である。タイプを帰国して調べると、1958年から製造された「ゾルキー2C」のようだ。

このゾルキーが、実際にグエンが使ったものかどうかは書かれていない。私もしばらく、70年代に製造された「ゾルキー4K」を使っていたことがあるので、滑らかさとか人間工学とか精密さとかいったものからは程遠い使い心地は容易に想像できる。

ヴェトナムといえば、従軍カメラマンが放出したカメラなんかが流通していたのだろう、などと勝手におもっていたが、共産圏というつながりで、旧ソ連のカメラがどの程度使われていたのか気になるところだ。