Sightsong

自縄自縛日記

スマホ版「JAZZRADIO」が素晴らしい

2011-10-15 06:39:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

気が付いたら周囲がみんなスマホユーザーになっていて、自分の携帯も2年の支払い期間が過ぎたこともあって、スマホに切り替えた。iphoneよりは随分画面の大きいタイプで、これでもうipad要らずだと勘違いしている。

いろいろアプリを探索していると、「JAZZRADIO」というインターネットラジオを発見した。

これがなかなか素晴らしい。通勤途中は聴きっぱなしだ。

「ビバップ」、「ハードバップ」、「サクソフォン・ジャズ」などとカテゴリが随分と再分化されていて、なんと「アヴァンギャルド」もある。昨日の1時間ほどで覚えている限りでは、サム・リヴァース(トニー・ウィリアムスと共演)、キース・ジャレット(インパルス時代)、デイヴィッド・マレイ(ヘンリー・スレッギルが入ったオクテット)、ジョー・ヘンダーソン(エルヴィン・ジョーンズと共演)、アンソニー・ブラクストン、エヴァン・パーカー、アブドゥーラ・イブラヒム、それから知らない面々、アヴァンギャルドじゃないだろ!と言いたくなる人もいるが、野暮なことは言わない。まったく飽きないのだ。パソコン版もあって(>> リンク)、いま聴いていたらトマス・チェイピンが登場した。嬉しいなあ。

音質が良く、他の局のように立ち上がりに時間がかかったり途切れたりすることはほとんどない。地下鉄の駅間ではさすがに聴けなくなるが、それでも結構持ちこたえてくれる。ダウンロードも聴くのもすべて無料、おススメ。


渋谷毅+津上研太@ディスクユニオン

2011-10-14 01:04:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

渋谷毅+川端民生『蝶々在中』をディスクユニオンJazz Tokyoで買ったら「インストア・ライヴ」の整理券を貰ったので、うきうきと足を運んだ。川端民生は故人ゆえ、津上研太(アルトサックス、ソプラノサックス)とのデュオである。渋谷さんの口から、川端民生が亡くなったのは12年前だと聞いて、一瞬絶句する。そんなに前でしたっけ。

30分強の演奏で、おそらく津上さんのオリジナル曲の他に、スタンダード曲「Body & Soul」、それから最後に「ブルースをやろう」と言って、セロニアス・モンクの「Ba-lue Bolivar Ba-lues-are」で締めた。

私はちょうど渋谷さんの弾くデジタルピアノの真横に座ることができた。しかし、いかなる魔術が使われているか、私が眼を凝らして見ようと解るわけはない。吃驚するくらいスローモーに、「必然」という言葉が思い浮かぶようにゆったりと、左手が和音を作りだし、右手が伸び縮みする柔軟なメロディを作りだしていく。何なんだろう。

終わった後、渋谷さんの言、「レコード屋でやるのも楽しい。何年ぶり?何十年ぶりということはないけど」。そういえば、十年以上前、やはりディスクユニオンの新宿ジャズ館で、酒井俊とのライヴを聴いた。そのとき、渋谷さんがピアノソロで、浅川マキの愛唱曲「マイ・マン」を弾いて、少なからず驚いた記憶がある。

●参照
渋谷毅+川端民生『蝶々在中』
見上げてごらん夜の星を
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン
渋谷毅のソロピアノ2枚
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』
浅川マキの新旧オフィシャル本
宮澤昭『野百合』


島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』

2011-10-11 23:52:58 | 環境・自然

島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』(講談社文庫、2008年)を読む。

ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』と同様に、国策として科学を置いてけぼりにして進められた「地震予知」の経緯を明快に示してくれる書である。なお蛇足ながら、著者の島村氏は昔からの第一人者であり、例えば環境分野で喧しい「○○のウソ」本と同列に並べてはならない。

本書の主張は以下のような点である。

海溝型地震では長期的予知が可能である。しかし、実質的な予知ではありえない(何年後に起きるか統計的に有意でない)。
内陸直下型地震活断層で起きると言われることが多いが、その活断層というものはたまたま「見えた」ものに過ぎず、そのため、活断層が「ない」ところでも大地震は起きる。活断層だけに注意することは危険である。
○地震発生の確率などまったく当てにならない類のものである。
○地震の「前兆」はことごとく地震後に報告されたものであり、とても予知に利用できるようなものではない。観測器を設置できるのはごく浅いところであり、地震が起きる地殻の状態を代表しているわけではない上、地表近くは雨や地下水など影響要因が多すぎる。
○行政の縦割りによる組織的弊害が極めて大きい。そして生き残りのため、看板の掛け替えなどさまざまな策を弄してきた。
石橋克彦・東大助手(当時)の東海地震説(1976年)の衝撃は大きく、大規模地震対策特別措置法(大震法)が1978年に成立した。これは「地震は予知できる」ことを前提とした、戒厳令的な強い規制を伴う悪法であった。まるで有事立法の露払いであった。
○地震予知を錦の御旗として、政府予算はどんどん増えていった。
○東海地震が「予知」できるとするケースは非常に限られている。場合によっては「不意打ち」になってしまう。
○すぐにでも起きると思われた東海地震は30年間訪れず、これが「長期的予知」の不確かさを示している。逆に、連動型の超巨大地震が起きる可能性は残されている(他の場所と同様に)。
○地震予知のため、米国製のGPSを大量購入した。1996-2001年で総額100億円近くにもなった。これは米国追従に沿ったものになった。
原発建設時の基準として、最大の揺れを600ガルと想定している。しかし、近年の地震観測によれば、重力加速度をゆうに超える数千ガルの強い揺れ(つまり、岩が飛びあがる)が来ることは常識になっている。これは非常に怖ろしいことだ。
○起きた地震をいち早く知らせる「緊急地震速報」では、さほどの備える時間を稼ぐことができない。ここで地デジの2秒遅れはさらに致命的な要因になる。
○大地震からのP波・S波と異なる長周波地震動(酔うような揺れ)は、遠距離まで伝わる。実は高層ビルではこれで被害を受ける事例があり(新潟県中越地震では、六本木ヒルズのエレベーターのワイヤーが切れた)、予想を超えることがある。
○学会は「予知」の学問的なあり方や政治関与のあり方について議論を避けてきた。
○メディアは「大本営」発表を垂れ流すだけであり、批判的機能が働いていない。これが「地震予知」幻想を広める一因ともなった。

要は、地震はどこにでも起こりうるものであり、それを「いつ」「どこで」「どのように」などの予知の対象とすることはできない。ならば、弊害の多い体制を改め、超巨大地震が起きても被害が最小化されるような対策を取らなければならない、ということである。その意味では、原発の想定は非常に危なっかしいものに他ならないということになる。

●参照
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
ジャズ的写真集(1) エルスケン『ジャズ』(島村氏はエルスケン愛用のライカM3を所有されている)


チック・コリア、ジョン・パティトゥッチ、ヴィニー・カリウタ

2011-10-10 09:21:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

チック・コリアが苦手で、それというのも、『リメンバリング・バド』だとか『星影のステラ』だとか、何やら商売狙いの作品を連発されてウンザリしたことによる。数少ない例外は、アコースティック・バンドによるピアノトリオの『Live From The Blue Note Tokyo』(STRETCH、1992年)で、こればかりは愉しくて昔から聴いている。最近何かの雑誌のジャズ特集で、上原ひろみのフェイヴァリットでもあるそうで、わが意を得たりと嬉しくなってしまった(ミーハーか!)。

この録音の目玉は、ドラムスにヴィニー・カリウタが入っていることだ。フランク・ザッパやスティングなどのバンドで叩いていたジャズ畑外のドラマーであり、自分もこのときはじめて存在を知った。彼の野人ぶりと、チック、ジョン・パティトゥッチのテクニシャンぶりとが衝突して、スポーツのようだと言えばスポーツにも音楽にも失礼かもしれないが、まさに聴くたびに心が浮き立つ時空間が出来上がっているのである。

1992年11月、ブルーノート東京開店4周年記念ライヴだそうで、当然移転前、まだわずかに親しみを持てるハコだったころだ。外で待って出演者たちと話すこともできた。パット・マルティーノ、エリック・アレキサンダー(彼に頼んでマルティーノのいる楽屋に入れてもらったのである)、ジャッキー・マクリーン、ケニー・カークランド・・・、もう鬼籍に入った人もいる。残念ながら、学生だった自分には高嶺の花、このときのチック・コリアの演奏は観にきていない。

そんなわけで、昨日新宿でライヴDVDを発見し、一も二もなく確保した。プライヴェート盤であり、よく見ると当時BSで放送された映像である。CDにもDVDにも1992年11月とあるのみ、おそらく何回かの日・ステージから抜粋したものだろう。

CDと同じ演奏は「Humpty Dumpty」、「Tumba」、「New Waltse」の3曲で、その他に「'Round Midnight」、「Miniature No.3」、「Spain」が収録されている。逆にCDの方には「With A Song In My Heart」、「Chasin' The Train」、「Summer Night」、「Autumn Leaves」が入っている。CDに選曲されなかったからといって 何かが劣っているわけではない。

動く姿を観ると、なおさら3人それぞれの凄さを体感できて、文字通り眼も耳も離せない状態になる。全盛期のヴァンダレイ・シウバのように、闘うのが愉しくて仕方ない様子のヴィニー・カリウタは喜悦の表情を浮かべて叩きまくっている。チックとパティトゥッチは、それに対し、まるでヤンチャな子どもを手なずける大人のように余裕の技術と技を繰り出し続ける。何しろ、チックはこのとき、来日後にエレピを突然弾きたくなって急遽取り寄せたのだというから、モチベーションも高いところにあったわけである。フェンダー・ローズとピアノとを玩具のように使い分ける、チックはこんなのがいいね。


ヴィム・ヴェンダース『パレルモ・シューティング』

2011-10-10 01:04:04 | ヨーロッパ

新宿K's Cinemaにて、ヴィム・ヴェンダース『パレルモ・シューティング』(2008年)を観る。傑作『アメリカ、家族のいる風景(Don't Come Knocking)』以来、待望の新作である。

これは世界との関係を見失ってしまった男の放浪の物語である。デュッセルドルフからパレルモへの放浪に加え、夢や白昼夢の放浪、やはりヴェンダースはロード・ムーヴィーの映画人だ。カメラでのスナップショットが好きな者は共感できると思うが、ちょっとした世界との距離がその感覚をずれさせる。主人公も山羊や何やかを撮ろうとして失敗を繰り返す。

主人公はカメラマンであり、映画には多くのカメラが登場する。普段使いはマキナ67(デニス・ホッパーの射る矢で壊されたり、海に沈んだりと散々な目にあう)。コマーシャル撮影ではフジ(またはハッセル)のGX645AFニコンD2X。ニッコールを付けた謎のパノラマカメラ。老婆の持っているライカM6TTL(「40年前」という台詞があるが、背の微妙な高さと電池蓋の存在から、M4などではないことがわかる)。それからノキアのケータイ。そうか、マキナはあんなふうに振ってレンズを出すのか。

デニス・ホッパーとくれば思い出す『アメリカの友人』(1977年)も、世界から振り離されそうな男たち(ブルーノ・ガンツとデニス・ホッパー)が苦悶する物語だった。そして、主人公がカメラを手に座り込んで世界との距離感を保とうとする姿は、『都会のアリス』(1973年)において、リュディガー・フォーグラーがやはりポラロイドSX-70を手に海辺に座り込み、内的な世界を是とする姿と重なる。ヴェンダースは昔も今も同じなのだ。

そして主人公は世界を取り戻す。このナイーヴな描写といったら!!

●参照
ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』、『アメリカ、家族のいる風景』


ジョニー・トー(14) 『アクシデント』

2011-10-09 22:50:51 | 香港

新宿武蔵野館で、ソイ・チェン『アクシデント(意外)』(2009年)を観る。ジョニー・トー製作作品である。入場したらクリアファイルをもらった。うふふ。

ルイス・クー率いる殺し屋集団の物語。『ピタゴラスイッチ』もかくやと思わせるトリッキーかつアクロバティックな殺しは、美学さえも感じさせるものだ。手下にはやはりトー映画常連のラム・シュー、敵とみなされる保険会社の男は『ブレイキング・ニュース』が印象的だったリッチー・レン。殺しの途中で誤算と事件が重なり、クーの中で疑念が増幅していく。

確かに殺しの手口は映画においてしか成り立ちえない見事さであり、それを披露する映画的手法もまた見事。疑念が狂気に昇華していく様は、フランシス・フォード・コッポラ『カンバセーション・・・盗聴・・・』を思わせるもので、どこに世界が転んでいくのか、寸止めのため、なかなか息をつくことができない。

勿論、傑作である。もっとも、「どうかしている」くらいに映画的な仕掛けと倒錯を詰め込むのがジョニー・トーの映画だと断言していいわけであり、ここでは、監督という地位を得ていないためか、そこまでの世界は構築されていない。

今回は、新たなそっくりさんを見出すことはできなかった(笑)。またカメラネタも、昔の安いコンパクト・レンジファインダー機がぶらさがっている中古カメラ店が一瞬登場したのみ。

ところで、来春に『Triangle/鐡三角』(2007年)が日本公開されるようで、これでまた生き延びる甲斐ができたというものだ。

●ジョニー・トー作品
『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(2009)
『文雀』(邦題『スリ』)(2008)
『僕は君のために蝶になる』(2008)
『MAD探偵』(2007)
『エグザイル/絆』(2006)
『エレクション 死の報復』(2006)
『エレクション』(2005)
『ブレイキング・ニュース』(2004)
『柔道龍虎房』(2004)
『PTU』(2003)
『ターンレフト・ターンライト』(2003)
『スー・チー in ミスター・パーフェクト』(2003)※製作
『デッドエンド/暗戦リターンズ』(2001)
『フルタイム・キラー』(2001)
『ザ・ミッション 非情の掟』(1999)


『伊方原発 問われる“安全神話”』

2011-10-09 09:43:10 | 中国・四国

NHKの「ドキュメンタリーWAVE」枠で放送されたドキュメンタリー『伊方原発 問われる“安全神話”』(NHK松山制作、2011/10/1)を観る。

愛媛県の佐田岬に立地する伊方原発は、関西から九州まで360kmにも渡って伸びる断層「中央構造線」から、わずか8kmしか離れていない。岡村眞・高知大教授は、伊方原発が想定するマグニチュード7.8など上回る地震の可能性があると警告している。実際に、地震による揺れの想定は、当初の200ガル→阪神淡路大震災(1995年)を受けての473ガル→新潟県中越沖地震(2007年)を受けての570ガル、と2回の見直しがなされている。こことは関係ない場所での短期間での地震評価を反映させること自体が、地震はどこでも起こりうることの裏返しでもある。しかも、福島では600ガル、浜岡では1000ガルが想定されており、それを下回る。

1972年に設置許可申請がなされた伊方原発に対して、そのわずか半年後、国から許可が出された。その際の『安全審査報告書』には、松田時彦・東大助教授(当時)が中央構造線を活断層だと分析したにも関わらず、中央構造線についての言及は皆無であったのだという。これは偽装に他ならない。
※一方、このドキュメンタリーにも登場する荻野晃也・京大助手(当時)の書いた文章によれば、松田氏は「この中央構造線は心配ない」旨のお墨付きを与えた御用学者であったとのことである。(>> リンク

これらの事業強行に対し、漁民を中心とする住民たちにより、1973年、伊方原発訴訟が起こされる。しかし、1号機、2号機についての裁判は2000年までに住民敗訴という決着をみている。現在では、1994年に運転開始された3号機を加えた3基が運用されているが、その3号機は2011年4月27日に定期検査(定検)に入り、7月の再開前に菅首相(当時)によりストレステスト実施が発表されたため運転を見合わせている。そして8月12日には点検もれが発覚、9月4日には1号機が定検に入った。現時点では、日本全体で54基のうち42基が定検中である。

鎌田慧『日本の原発危険地帯』(青志社)によると、伊方原発の建設に際してオカネで住民と漁協を強引にねじ伏せた過程があった(おそらくは、どこの原発地域とも同じように)。当初は1、2号機だけの予定であり、県知事、町長、電力の三者のあいだで締結された「安全協定」には、以下のようにあるという。

「丙(電力)は、発電所若しくはこれに関連する主要な施設を設置し、若しくは変更し、又はこれらの用に供する土地を取得しようとするときは、当該計画について、あらかじめ、甲(県)および乙(町)に協議し、その了解を得るものとする。この場合において、原子炉総数は、2基(1基の電気出力が56万kW級のもの)を限度とする」

しかしこれは、「協議、了解」を拠りどころとして反故にされる形となった。既に伊方町の予算は、新規事業の交付金をアテにしなければ成り立たない構造になっていた。まさに「毒まんじゅう」である。

著者(鎌田氏)は、福田直吉・伊方町長(当時)に会って将来について訊ねている。

「「いまはメリットを強調されていますが、たとえば20年後、廃炉になったとき、この地域はどうなるのでしょうか」
わたしはそうたずねた。
「3年、5年むこうのことでさえむずかしい。20年、30年あとのことは、あとの町長が考えます」
と彼は答えた。」

●参照(原子力)
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『これでいいのか福島原発事故報道』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
黒木和雄『原子力戦争』
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
今井一『「原発」国民投票』
長島と祝島
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
既視感のある暴力 山口県、上関町
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』


今井正『ひめゆりの塔』

2011-10-09 04:15:08 | 沖縄

今井正『ひめゆりの塔』(1982年)を観る。今井正による自身の過去作品(1953年)のリメイク作である。脚本も水木洋子(市川市に多くの資料が寄贈されている)による同一のものであり、このようなパターンは稀なことに違いない(市川崑『犬神家の一族』もあった)。

舛田利雄『あゝひめゆりの塔』(1968年)に比べれば、雲泥の差と言っていいほど異なる作りだ。ひめゆり学徒の引率教師による体験記、仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』をもとにしているようで、やはり民謡以外が日本語であることの不自然さは仕方がないとしても、沖縄戦の実相をある程度反映したものとなっている。日本軍はガマから民間人を追い出し、怒りのあまり刀で斬りつけたりもする。そしてガマから出ていこうとする女学生を後ろから銃で撃ち殺す(それまで女学生に同情的だった井川比佐志にその役を与えているのが演出の妙か)。


『ひめゆりの塔を・・・』の表紙には映画のスチルが使われている

仲程昌徳『「ひめゆり」の読まれ方 : 映画「ひめゆりの塔」四本をめぐって』(琉球大学学術リポジトリ、2003年)においては、病院壕に置き去りにされる女学生の描かれ方に注目している。今井作品では、次のように、置いていく女学生に対し、教師が次のように食糧と自死のための青酸カリを与えるのである。

「きっと、迎えに来るから.・・・それまで待ってくれ・・・・食糧はかんめんぽうと缶詰が一個ずつ、ここにあるからね、若し、万一、敵がここへ来たら.・・・君も沖縄の女学生らしく・・・・覚悟をして。・・・この薬を・・・・」

この今井作品を含め、仲程論文では、壕置き去りは「「ひめゆり」の悲劇が雪崩を打っていく前兆としての一シーンとでもいえるものでしかなかった」とする。むしろ後の神山征二郎『ひめゆりの塔』(1995年)において描かれたように、実は米軍に救助されて病院に収容されていた女学生の言葉を入れたほうが、より苦い真実を伝え得たのだという解釈である。

「仲宗根は、病院から帰る道々こう思ったと書く。「敵として恨んだ米兵が、かえって教えを説いた先生よりも親切であった。渡嘉敷からしてみれば、壕にほうり捨てて去った先生や学友よりは、救ってくれた米兵のほうがありがたかったにちがいない。現実の結果としては、これが厳然たる事実である」と。」(仲程論文)

仲宗根「渡久地・・・・・・」
渡久地「せんせい・・・・・・」
仲宗根「・・・すまなかった」
渡久地「アメリカーに拾われました」
(神山作品)※名前は変えられている

>> 仲程昌徳『「ひめゆり」の読まれ方 : 映画「ひめゆりの塔」四本をめぐって』

参照
舛田利雄『あゝひめゆりの塔』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
『ひめゆり』 「人」という単位
大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」(上江田千代さん)
沖縄「集団自決」問題(9) 教科書検定意見撤回を求める総決起集会(上江田千代さん)


舛田利雄『あゝひめゆりの塔』

2011-10-08 14:23:46 | 沖縄

舛田利雄『あゝひめゆりの塔』(1968年)を観る。言うまでもなく、沖縄戦でのひめゆり学徒を題材としている。

しかし、この「良心的」な白黒映画で観ることができるのは、責任不在の抽象的な「戦争」に巻き込まれて犠牲となっていく「美しい」姿であるに過ぎない。戦争を体現する醜い存在は、やはりアリバイのように教師や軍人が時に見せる言動だけであり、そのほとんどは心神喪失状態で発せられる。そしてそれは日本軍の権力者と米軍のみに寄せられ、彼らの姿が登場することはほとんどない。

女学生たちが時おり歌う民謡以外は日本語のみが使われ(いかに強制されていたとはいえ)、位牌は日本式である。軍人と民間人たちは思いを寄せあい(すなわち、戦時中という枠内でやむを得ず動く者たち)、民間人が軍人にガマを追い出されることはない。女学生が沖縄島南端で自決をするのは手榴弾によってであり、飛び降りは描かれない。そしてその手榴弾は、軍命(直接的にせよ間接的にせよ)によって渡されたものではなく、軍の忘れ物を食糧だと思って開けたところ「あった」ものだった。

従って、歴史認識の希薄な駄作、ないしは、吉永小百合と浜田光男の一介の青春映画であると見なす。

●参照
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
『ひめゆり』 「人」という単位
大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」(上江田千代さん)
沖縄「集団自決」問題(9) 教科書検定意見撤回を求める総決起集会(上江田千代さん)


ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』

2011-10-08 10:42:45 | 環境・自然

ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』(双葉社、2011年)を読む。

私が90年代前半に地球物理を勉強していたころ、ゲラー氏の授業も受けていた。その頃より、地震予知に批判的なスタンスは有名だった。(とは言え、自分はダメ学生だったので、レポートにもダメ出しをされ、卒業式のときに寿司を食っていて遅れたところ、氏が「あいつらには卒業証書をやるな!」と怒っていたという話で・・・。)

本書での主張は次のような点に集約される。

○しばらく大地震が起きていないところに地震が起きやすいとする「地震空白域説」や、各地域に地震が周期的に繰り返すとする「固有地震説」、大地震の前に前兆現象があるとする「前兆現象説」は、感覚的にわかりやすいが、まったく正しくないうえ非科学的である。
○大地震が起きた後に、実はその予兆があったのだとの主張は毎回ぞろぞろ出てくるが、これも非科学的なものばかりであり、かつ「予知」ではない。
○1977年に石橋克彦氏が「東海地震」の可能性を主張した。氏の原発震災に関する警鐘(>> リンク)は大きな評価に値するが、「東海地震」説は評価できない。
○しかし、御用学者と政府が結託してこれを煽り続け、「東海地震予知」のために多額の国家予算を使ってきた。これは逆に、相対的に地震が起きない地域があるとの間違った考えを生み出してしまった。
○基礎科学にオカネがつかないのに対し、国家プロジェクトであれば毎年何十億円もの予算が投下される。これは一種の麻薬であった。地震予知の成果が出ない一方で、何か大きな地震が起きると体制強化の必要性が謳われ、「焼け太り」が繰り返された。
○1960年代後半に、「研究計画」では百万円単位、「実施計画」を謳えば千万円単位の高額予算配布が可能になるとのアドバイスをしたのは、中曽根康弘(当時、運輸相)であった。そして石橋克彦氏のレポート(1977年)は、もっと協力で刺激の強い劇薬になった。
○マグニチュードが1大きくなればそのエネルギーは30倍、発生確率は10分の1になるわけであり、それを一緒くたにして、時期も地域も曖昧なまま予知を論じるのはナンセンスである。すなわち「地震予知」は不可能である
○むしろ、地震はどこにでも起きるという前提で、起きたときの対策(正確・迅速な報道、地震工学に基づく耐震化)に注力すべきである。
○東日本大震災は人災であった。マグニチュード9クラスの巨大地震が起きうることも、10mを遥かに超える津波が起きうることも、既に指摘されながら顧みられなかったのであり、決して「想定外」などではなかった。

驚いたのは、政・官・学の癒着において、原子力と同様に、中曽根康弘の名前が登場することだ。原子力と地震との両方から現在の間違った方向づけに加担したこの人は、東日本大震災のあと、どの口でか、しらっと風見鶏的な発言を繰り返している。

ところで、『紙の爆弾』2011年10月号(鹿砦社)に、「日本の研究者たちが突かれた地震予知観測の盲点」という記事が掲載されている。もちろん東日本大震災を人災として批判したものではあるが、その論旨は、地震予知体制が「東海・南海大地震」以外手薄だったからだというものである。これでは、なおさら「他の地域も予知体制を強化すべきだ」という理由で次の「焼け太り」を起こすだけではないか。

●参照
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』


前泊博盛『沖縄と米軍基地』

2011-10-06 01:29:12 | 沖縄

前泊博盛『沖縄と米軍基地』(角川書店、2011年)を読む。

本書には、普天間基地移設問題が、米軍のグアム移転や辺野古の高機能な新基地建設のオカネを日本政府が出す仕組に他ならないこと、在沖米軍の扱いが治外法権的であること、沖縄の基地依存経済は意図的に作られたものであることなどが、裏付けとなる情報とともに示されている。仮に沖縄では常識であっても、ヤマトゥでは常識か否かを問う以前に、無関心とエゴイズムが充満している。

いくつか発見があった。

○沖縄の海兵隊の主力部隊が1956年に岐阜県と山梨県から移転してきた理由は、戦略上の理由ではなく、海兵隊の「素行の悪さ」にあった。すなわち、根本的な原因は絶たれることはなく、そのまま犯罪が沖縄に輸出されたということである。
○普天間移設のすべての計画はオスプレイ配備のためである。事故の多いオスプレイを配備するためには、海上ヘリ基地が望ましい。せっかく開発した輸送機を配備するためだ、とは本末転倒である。
○日米両政府は、グアム移転費用の日本政府負担割合を小さく見せるため、架空予算を計上するという共謀を行っている。
○米国は近年明らかに世界戦略を変更し、在沖米軍兵力の削減を進めてきている。それを隠して水増ししたグアム移転費を日本政府が支払うとは、どういうことか。
○現在でも在沖米海兵隊不要論が米国で出ているが、米国は90年にも米海兵隊の全面撤退を検討していた。
○米国は、ペリーが日米条約締結に失敗した場合、琉球を占領する予定だった。
○沖縄国際大学への米ヘリ墜落事件を経て、事故現場への米軍の立ち入りを「事前承認を受ける暇がないとき」に限って認めるとの「改善」がなされた。しかし、米軍に渡してある「本物の合意事項」は、「事前の承認なくして」と密約文書のままであった。国民の眼を欺いてのその場しのぎでは、次に墜落事故が起きても同じような横暴な対応が取られるだろう。
○沖縄の基地依存経済は自然発生的に生まれたのではない。すなわち、生産抑制、米国からの輸入促進、円高政策による産業空洞化など、米軍なしにはやっていけない社会を創り出してしまった。しかし、現在の依存度は低くなり、他の用途で使ったほうが遥かに大きい経済効果が得られるl。
○経済自立化を目指すはずの振興予算を得た市町村では、振興策をこなすために借金をして逆に市債残高が増え、失業率が増大し、法人税の減少による「基地依存度の上昇」を招く結果となっている。
○沖縄に向かう飛行機が本島に近付くと低空飛行するのは、嘉手納などの米軍機に安全な航空路を奪われているせいで、決して「観光客にきれいな海を見せる」サービスではない。
○日米地位協定は圧倒的に日本が不利な取り決めである。ところで、例えばジブチで自衛隊基地の整備が進められているが、それに関するジブチ政府との取り決めは、日米地位協定の米軍の立場に自衛隊を置き変えた形になっている。これまで差別・抑圧されてきた側が加害者の側に立つという形は、まるで『人類館』ではないか。

●参照
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
押しつけられた常識を覆す
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
オスプレイの模型


スリランカの映像(9) 『Scenes of Ceylon』 100年前のセイロン

2011-10-05 06:00:00 | 南アジア

大英帝国の植民地時代のフィルムを収めた「Colonial Film」というサイトがあって、当然、スリランカ(当時セイロン)の映像も含まれている。この中で最も古いのは『Scenes of Ceylon』(1909年)であり、有名なセシル・ヘップワースが製作した8分ほどの短いサイレント映画である。「stay-at-home」、すなわちオリエンタリズムの視線以外を持ちようもない、自宅での観賞という用途である。つまり、動く絵葉書というわけだ。

いきなりキャンディコロンボの街と市場が登場する。さすがに100年前であり、新旧の都といえど、当然、この古さとせせこましさは既にない。キャンディは大きな湖を囲む閑静な街であるし、コロンボは皆が憧れる大都市になった。

それでも、人びとの風貌についてはそうでもない。男は都会の「ズボンをはく人」を除けば腰巻のサロンである(そういえば現地で貰ったが使っていない)。田舎の光景は、漁村、ココやしのエステート、象がうろうろする場所など、さほど変わりはしていないのである。と言っても、私が訪れたのはもう十数年前のことで、幾分かはタカを括っている。

アヌラーダプラで声をかけてきたフェルナンドという男に数日間のガイドを頼み、自動車で移動していると、象使いがいた。象の背中に乗ってみるとわかるが、意外に毛深い生きものである。象を尖った棒で操り、作業させ、川で水浴びさせる様子がそう変わるわけもない。

>> 『Scenes of Ceylon』


スリランカ(1997年) Pentax ME-Super、FA28mmF2.8、Provia100、DP

●参照
スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
スリランカの映像(2) リゾートの島へ
スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』
スリランカの映像(8) レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』


ポール・オースター『幻影の書』

2011-10-03 23:55:09 | 北米

ポール・オースター『幻影の書』(新潮文庫、原著2002年)を読む。ハードカバーを読みそびれていて、文庫化されたらすぐに読もうと思っていたのだ。

家族を事故で失った男は、ふと、サイレント時代のヘクターという喜劇俳優/監督に魅かれ、憑かれたように彼の研究書を出す。自らの解体を必死に回避する行動だった。ところが、既に死んでいるはずのヘクターが生きており、別の人生を生きながら自分たちのためだけの映画を撮り続けていたと知らされる。彼の人生、ヘクターの人生、ヘクターの創り出した映画、それらが絡み合い、物語は新たなカタストロフへと突き進んでいく。

この本自体がもう死んでいるかもしれない男の手記であり、ヘクターの人生はいくつものテキストと映画とで語られる。オースター得意のメタフィクションである。また、男の書いた小説を『写字室のなかの旅』(Travels in the Scriptorium)とすることで、お約束の自己言及を組み込んでいる(自分の作品に必ず登場するヒッチコックのようだ。特にここでは、新聞の痩せ薬広告に登場させた『救命艇』を思わせる・・・・・・要は必然的でない強引さ)。

名翻訳者の柴田元幸が「あとがき」に書いているように、確かに途中で読むのをやめられなくなる面白さだ。しかし、何だか物足りない。もっと後味の悪い物語世界でなければ、オースター作品のインパクトは小さいものになってしまう。ここには決定的な烙印がないのだ。おそらく数ヶ月もしたら、話の内容を半分忘れてしまうだろう。

消えた天才映画人を題材にした小説であれば、セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』の方が数段面白く、忘れ難いものだった。

●参照
ポール・オースター『Sunset Park』(2010年)
ポール・オースター『Invisible』(2009年)
ポール・オースター『Travels in the Scriptorium』(2007年)
ポール・オースター『オラクル・ナイト』(2003年)
ポール・オースター『ティンブクトゥ』(1999年)
ポール・オースター『最後の物たちの国で』(1987年)
ポール・オースター『ガラスの街』新訳(1985年)


渋谷毅+川端民生『蝶々在中』

2011-10-02 10:10:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

渋谷毅+川端民生『蝶々在中』(Carco、1998年録音)を発売日から聴いている。何しろ、故・川端民生とのデュオであり、聴かないわけにはいかない。渋谷毅オーケストラでも浅川マキの歌伴でもいつもいたベーシストであり、独特のアナーキーなエレキベースや、リズムも何もあったものじゃない手拍子が大好きだった。風貌も只者ではなく、新宿ピットインに向かう途中でエレキベースを肩にかけた氏に遭遇し、何だか気圧されてしまった記憶がある。

この録音では、エレキベースでも手拍子(笑)でもなく、ウッドベースを使っている。こうなるとまた個性が違ってくるのが面白い。大胆というのでもなく、過激というのでもなく、もちろん程良いというのでもなく、そこにいて音楽を奏でているという感覚、これが中央線だ。


アケタの店には川端民生の写真が貼ってある

渋谷毅のピアノもいつも通りである。マンネリではなく、いつも違うのだが、いつも同じ。一聴して渋谷毅だとわかる、循環する展開と独特の和音。

「蝶々(てふてふ)」と「が、とまった」というオリジナル曲ではノンシャランとした世界を披露する。「There Will Never Be Another You」では、なぜか即興のメロディが天才アケタこと明田川荘之のものに聴こえて仕方がない(何でかな)。「You Don't Know What Love Is」は2つの演奏を収めており、それぞれアプローチが異なって比較が愉しい。そして手癖の「Lover Man」と「Body And Soul」を経て、「Misterioso」では、正直に攻めたソロピアノ『渋やん』(1982年録音)とは異なり、まるで全盛期のリー・コニッツのように最後まで主メロディを隠す工夫を見せる。

締めくくりの「無題」のみソロピアノであり、浅川マキとのライヴでも、ピアノソロ『Afternoon』(2001年録音)でも、宮澤昭とのデュオ『野百合』(1991年録音)でも、広木光一とのデュオ『So Quiet』(1998年録音)でも、もう限りなく弾いてきたのだろうという曲。なぜか「Beyond The Flames」と題していることもあり、何か意図的に使い分けているのかどうかわからない。やはりいつも通り、沁みてしまうのだった。

●参照
見上げてごらん夜の星を
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン
渋谷毅のソロピアノ2枚
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』
浅川マキの新旧オフィシャル本
宮澤昭『野百合』


太田昌国の世界「テロリズム再考」

2011-10-01 09:09:28 | 北米

駒込の琉球センター・どぅたっちで、太田昌国の世界「テロリズム再考―9・11から10年目を迎えて」と題した氏のトークがあった。『暴力批判論』『「拉致」異論』など太田氏の著作から受ける印象の通り、内省的で、静かに明確な意を示す方だった。

話の内容は以下のようなものだった。

○この10年間で「反テロ」という言葉が当たり前のものとなり、バスや電車の表示など日常にも浸透した。
○ソダーバーグの映画『チェ』連作を若い人たちに見せると、「チェ・ゲバラって単なるテロリストだったんじゃん」といった感想が多いという。
○いまやメディアや米対外政策(アフガニスタンでもイランでも10万人以上を殺した)を批判的に言うだけではすまない問題が、われわれの社会に横たわっている。
○1960年代には、「ゲリラ」という言葉にはロマンチックなイメージがあった。ベトナム戦争の時代にあって、ナパーム弾や枯葉剤をもって50万人以上を投入して攻めてくる米国に貧しい武器で闘うゲリラ、それは正義や未来への夢を体現しているとも捉えられた。
○もともと「ゲリラ」とは、スペイン語で「小さな戦争」を意味した。19世紀前半、ナポレオン軍に対して抵抗した作戦であり、小隊で臨機応変に敵に挑むものだった。また、毛沢東は抗日戦を「遊撃戦」と呼んだ。大きな国家軍に対する抵抗は、ある種の共感や親しみをもって受け止められた。
○1970年安保闘争の後、別の動きが顕れてくる。セクト間の酷く愚かな行為である内ゲバでは100人くらいは死んでいるはずで(秘密主義ゆえ全体像が見えない)、当事者たちはいまだ自己批判せず人殺しを正当化している。1972年の連合赤軍事件、1974年の三菱重工ビル爆破事件(殺傷が目的ではなかった)があった。いずれも、主観的には革命や解放を目指す若者たちによって担われた。そして、社会は急速に彼らへの共感から引いていった。
○1975年、ベトナム戦争はゲリラ勝利という形で終結した。直後の1977年、ベトナムはポル・ポト政権打倒のためカンボジア侵攻を行った。ベトナム、ラオス、カンボジアは対米の友軍であった筈だった。なぜこのようなことになったのか。
○1979年には中国がかつて支援していたベトナム(中国はソ連からの武器援助ルートでもあった)に侵攻した(中越戦争)。ベトナムの動きが「許すことのできない行い」にうつったための「懲罰」行為だった。現在は海域で領土争いを行っている、その芽生えでもあった。
○エドガー・スノーは『中国の赤い星』において、中国建国前の大長征や抗日戦争や国民党との戦争における八路軍=人民解放軍のモラルの高さを描いた。「農民から針1本たりとも取ってはならない」という規律を守る集団についての胸を打つ報告だった。その後の中国との差が強く印象付けられた。
○抵抗者たちについての別の現実が見えてきた時代でもあった。彼らをロマンティシズムをもって遠くから見ているだけでは済まなくなった。そして、メディアから「ゲリラ」という呼称が消えていった。
○1996年、トゥパク・アマル革命運動によるペルー日本大使公邸占領・人質事件。「テロ」と呼ばれた。彼らのフジモリ政権への要求には充分な根拠があった。フジモリは武力解決ではなく、政治的な解決を見いだせた筈だと思った。しかし、最終的にメンバー全員の殺害に終わった。
○このとき(まだ負傷者を出す前)、テレビ取材があった。これを「テロ」と言うのであれば、危なっかしい弾圧政策を取っているフジモリ政権も「国家テロ」であると同列に論じなければ不当な解釈になってしまうと発言した。テレビはテロ組織と国家を同一のまな板の上で論じることが信じ難いことだったようで、そそくさと帰った(例外は「ニュース23」だった)。テロと呼ぶ暴力とテロと呼ばない暴力について、メディアがはっきりと使い分けはじめた時代だということができる。
○ゲリラ14人が殺害され、日本のメディアでは、「文藝春秋」に書いているような面々により「フジモリ良くやった」「日本人移民二世のフジモリにサムライの姿をみた」などといった言説が満ち溢れた。この後、「危機管理」や「反テロ対策」といった言葉が当たり前のように使われるようになった。確かに1995年の阪神淡路大震災(自然災害)とオウム・サリン事件(人為的犯罪)との対比があり、このような言論がまかり通りやすい風潮があった。
○2001年の「9・11」。勿論、悲劇である。しかし、ブッシュ政権は危機を煽り、一致団結させ、あのような社会ができてしまった。そしてアフガンやイランでの戦争を経て現在に至っている。
○あのとき、米国社会は「悲劇を独り占めにしない」べきだった。確かに米国本土があのような形で攻撃を受けたのははじめてのことであった。しかし、米国以外の地域の人びとにとっては、しょっちゅう受けている「程度」の攻撃だった。そして、その原因は他ならぬ米国にあった。
○米国はベトナム人を何十万人殺しただろう。当時撒いた枯葉剤は、何世代もベトナム人を傷つけている。彼らに悲劇役者ぶる権利があるのか。(坂田雅子『沈黙の春を生きて』が岩波ホールで上映されている。)
○ベトナムだけではない。19世紀末にネイティブアメリカンを殲滅し、米国は海外に出はじめる。それを含め、米国が独立以来、いかに戦争に次ぐ戦争でためらうことなく人びとを殺し、超大国になってきたのか、歴史を振り返ればそれは明らかだ。「9・11」は、米国が世界の至るところでやってきたことの「」でもあった。
○「9・11」のとき、米国はそれまで熱狂して行ってきたことを振り返り、それを教訓として愚かな行いを繰り返さないようにすべきだった。現実は逆だった。ブッシュは「われわれの側につくのか、テロリストの側につくのか」と単純な二分法を周囲に突きつけ、小泉やブレアといった自分の頭では何も考えない政治家連中はブッシュにひれ伏した。
○もし膨大な軍事費を内政問題にまわしていたなら、貧困問題、医療問題、凶悪犯罪問題などが多少なりとも改善され、多少なりとも成熟した社会になっていたかもしれない。
ダグラス・ラミスは「戦争は帰ってくる」という名言を使った。絶えず戦争と戦争準備をしている国、戦争をしていない時期のほうが短い国、人心はそれに慣れてしまっており、米国の暴力社会は対外的な戦争と不可分のものと化している。
○ベトナムの枯葉剤と福島原発事故とには同じ側面がある。いまの人びとだけが犠牲者なのではなく、これからの世代にも影響を及ぼすものだ。
○例えば反原発デモに対する警察の介入がある。まだ参加者を殺すわけではないが、背景に国家を持った力での押しつぶしであり、「国家テロ」と重なってくる。
○「テロ」と「国家テロ」の両方を無くすための政治的道筋はどのようなものか。
○2011年、「3・11」。日本政府は正確な放射性物質の拡散量を公表せず、また、処理水の海洋投棄についてはロンドン条約に違反しないという詭弁を弄している(陸上からの廃棄ゆえ、という理由)。本来は正確な事態を公表し、近隣国に謝罪すべきであった。現在の日本は「放射能テロ国家」として、世界を脅かしている。
○人間の社会はそう急激には変わらない。だから、考え付くことができることは早く考え付いて、話し合って、練り、10年後でも50年後でも実現しよう。「夢じゃないか、馬鹿」と言われるような夢想も大切なことだ。
○多くの雇用と経済を抱える自衛隊をすぐに解体することはできないだろう。しかし、災害救助の実体となり、軍隊なき国家のモデルケースをつくることができるはずだと思う。日本は敗戦に多くを学ばず、戦後史を展開してきてしまい、別の道があるのだということを示すことができなかった。この66年間がいかに大事な時間であったか。
○もはや国家をすべての背景に物ごとを考えるのは無理であり、経済人にもメディアにも期待できない。別の次元を生きるわれわれがそれを担うべきだ。
○ラテンアメリカの情勢をみるとよい。米国や新自由主義に従わない政権とそれを支える民衆がいて、これまでの国境紛争についても、相互不信に基づくものではない友好的な話し合いがはじまっている。これは米国のやり方が通用しなくなったひとつの形である。 

終わったあと、飲み食いをしながら太田氏、残った10人ほどと話をする。太田氏にウカマウ集団の映画上映はないのかと訊いてみると、何とホルヘ・サンヒネスの新作(ボリビアが舞台)が完成し、来年の4-5月ころには旧作を含めて上映したいということだった。2008年のセルバンテス文化センターでの特集上映以来である。これは嬉しい。

●参照
太田昌国『暴力批判論』
太田昌国『「拉致」異論』 
『情況』の、「中南米の現在」特集(太田昌国+足立正生)
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』

●どぅたっち
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
森口豁『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』
山之口貘のドキュメンタリー
宮森小学校ジェット機墜落事件のドキュメンタリー