隅谷三喜男『賀川豊彦』(岩波現代文庫、原著1966年)を読む。賀川豊彦は実践をもって自らのアイデンティティを確立したキリスト者であり、オビにあるように、労働運動、農民運動、生協運動、平和運動をリードした人物である。彼の功績は米国で認められ、米国側の推薦により、ノーベル平和賞、ノーベル文学賞の候補にもなっている。ちょうど興味を持っていたところ、評伝が岩波現代文庫から再発された。
著者の故・隅谷三喜男は、賀川の思想のあやしい側面も充分に認めつつ、賀川の画期的な業績を評価している。それは、賀川が運動を先導してきただけではなく、自らの身体に鞭打ちながら、神戸の「貧民窟」に敢えて住み、全国津々浦々でキリスト教の伝導を続けたという「実践の人」であったからに他ならない。それに比べれば、「宇宙悪」のような壮大なヴィジョンも、無手勝流の理解に基づく科学の利用も、戦後の天皇制の支持も、業績を覆すほどの話ではない、というわけである。
賀川が貧民問題に頭を悩ませていたころ、大逆事件が起きた(1910年)。著者によれば、連座を免れたアナーキスト大杉栄と賀川とはその方向性が真逆であったという。大杉が直接行動での権力への対抗を是としたのに対し、賀川にとっては、それは短期的な闘争であって、心からの世界の変革ではなかった。従って、「極左」が入ってくる労働運動や農民運動には馴染めなかったのも当然だということができる。
「暴力や、武力や、金力で築き上げた、外面的な仮想的な権威の下に出来上った社会組織はすぐ潰れて了ふ。そんなものゝ上に我等は新社会を築きたくは無い。理想主義を捨てた時に労働組合は社会改造の動機としての使命を喪失して了ふのである。」
彼の説く主観経済学も、経済学などではなく、心の哲学であった。賀川にとっては、「労働者は単に商品ではない」ではなく、「労働者は商品ではない」が正しい考えであった。これではいくらなんでも経済の理解ができるわけはない。しかし、彼は生協運動をおし進めた。経済社会の理解と実践とは斯様にすり合わないものだ。
魂の救済は賀川にとっては抽象的なものではなく、生活と密着すべきものであった。その思想はあまりにもイノセントな、ヴァルネラブルな思想である。確かにおかしな面は多々あるのだろうが、資本主義経済がいびつな姿を見せ続けているいま、賀川の友愛の信念はすくいあげる重要なことを孕んでいるに違いない。とはいっても、鳩山首相が「友愛の政治」を改めて持ち出したときの社会の嘲笑をみると(これが内容や強度を伴うものであったかどうかは別として)、賀川の思想は永遠に異端のままであり続けるのかもしれない。