ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』(双葉社、2011年)を読む。
私が90年代前半に地球物理を勉強していたころ、ゲラー氏の授業も受けていた。その頃より、地震予知に批判的なスタンスは有名だった。(とは言え、自分はダメ学生だったので、レポートにもダメ出しをされ、卒業式のときに寿司を食っていて遅れたところ、氏が「あいつらには卒業証書をやるな!」と怒っていたという話で・・・。)
本書での主張は次のような点に集約される。
○しばらく大地震が起きていないところに地震が起きやすいとする「地震空白域説」や、各地域に地震が周期的に繰り返すとする「固有地震説」、大地震の前に前兆現象があるとする「前兆現象説」は、感覚的にわかりやすいが、まったく正しくないうえ非科学的である。
○大地震が起きた後に、実はその予兆があったのだとの主張は毎回ぞろぞろ出てくるが、これも非科学的なものばかりであり、かつ「予知」ではない。
○1977年に石橋克彦氏が「東海地震」の可能性を主張した。氏の原発震災に関する警鐘(>> リンク)は大きな評価に値するが、「東海地震」説は評価できない。
○しかし、御用学者と政府が結託してこれを煽り続け、「東海地震予知」のために多額の国家予算を使ってきた。これは逆に、相対的に地震が起きない地域があるとの間違った考えを生み出してしまった。
○基礎科学にオカネがつかないのに対し、国家プロジェクトであれば毎年何十億円もの予算が投下される。これは一種の麻薬であった。地震予知の成果が出ない一方で、何か大きな地震が起きると体制強化の必要性が謳われ、「焼け太り」が繰り返された。
○1960年代後半に、「研究計画」では百万円単位、「実施計画」を謳えば千万円単位の高額予算配布が可能になるとのアドバイスをしたのは、中曽根康弘(当時、運輸相)であった。そして石橋克彦氏のレポート(1977年)は、もっと協力で刺激の強い劇薬になった。
○マグニチュードが1大きくなればそのエネルギーは30倍、発生確率は10分の1になるわけであり、それを一緒くたにして、時期も地域も曖昧なまま予知を論じるのはナンセンスである。すなわち「地震予知」は不可能である。
○むしろ、地震はどこにでも起きるという前提で、起きたときの対策(正確・迅速な報道、地震工学に基づく耐震化)に注力すべきである。
○東日本大震災は人災であった。マグニチュード9クラスの巨大地震が起きうることも、10mを遥かに超える津波が起きうることも、既に指摘されながら顧みられなかったのであり、決して「想定外」などではなかった。
驚いたのは、政・官・学の癒着において、原子力と同様に、中曽根康弘の名前が登場することだ。原子力と地震との両方から現在の間違った方向づけに加担したこの人は、東日本大震災のあと、どの口でか、しらっと風見鶏的な発言を繰り返している。
ところで、『紙の爆弾』2011年10月号(鹿砦社)に、「日本の研究者たちが突かれた地震予知観測の盲点」という記事が掲載されている。もちろん東日本大震災を人災として批判したものではあるが、その論旨は、地震予知体制が「東海・南海大地震」以外手薄だったからだというものである。これでは、なおさら「他の地域も予知体制を強化すべきだ」という理由で次の「焼け太り」を起こすだけではないか。
●参照
○石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』