駒込の琉球センター・どぅたっちで、太田昌国の世界「テロリズム再考―9・11から10年目を迎えて」と題した氏のトークがあった。『暴力批判論』や『「拉致」異論』など太田氏の著作から受ける印象の通り、内省的で、静かに明確な意を示す方だった。
話の内容は以下のようなものだった。
○この10年間で「反テロ」という言葉が当たり前のものとなり、バスや電車の表示など日常にも浸透した。
○ソダーバーグの映画『チェ』連作を若い人たちに見せると、「チェ・ゲバラって単なるテロリストだったんじゃん」といった感想が多いという。
○いまやメディアや米対外政策(アフガニスタンでもイランでも10万人以上を殺した)を批判的に言うだけではすまない問題が、われわれの社会に横たわっている。
○1960年代には、「ゲリラ」という言葉にはロマンチックなイメージがあった。ベトナム戦争の時代にあって、ナパーム弾や枯葉剤をもって50万人以上を投入して攻めてくる米国に貧しい武器で闘うゲリラ、それは正義や未来への夢を体現しているとも捉えられた。
○もともと「ゲリラ」とは、スペイン語で「小さな戦争」を意味した。19世紀前半、ナポレオン軍に対して抵抗した作戦であり、小隊で臨機応変に敵に挑むものだった。また、毛沢東は抗日戦を「遊撃戦」と呼んだ。大きな国家軍に対する抵抗は、ある種の共感や親しみをもって受け止められた。
○1970年安保闘争の後、別の動きが顕れてくる。セクト間の酷く愚かな行為である内ゲバでは100人くらいは死んでいるはずで(秘密主義ゆえ全体像が見えない)、当事者たちはいまだ自己批判せず人殺しを正当化している。1972年の連合赤軍事件、1974年の三菱重工ビル爆破事件(殺傷が目的ではなかった)があった。いずれも、主観的には革命や解放を目指す若者たちによって担われた。そして、社会は急速に彼らへの共感から引いていった。
○1975年、ベトナム戦争はゲリラ勝利という形で終結した。直後の1977年、ベトナムはポル・ポト政権打倒のためカンボジア侵攻を行った。ベトナム、ラオス、カンボジアは対米の友軍であった筈だった。なぜこのようなことになったのか。
○1979年には中国がかつて支援していたベトナム(中国はソ連からの武器援助ルートでもあった)に侵攻した(中越戦争)。ベトナムの動きが「許すことのできない行い」にうつったための「懲罰」行為だった。現在は海域で領土争いを行っている、その芽生えでもあった。
○エドガー・スノーは『中国の赤い星』において、中国建国前の大長征や抗日戦争や国民党との戦争における八路軍=人民解放軍のモラルの高さを描いた。「農民から針1本たりとも取ってはならない」という規律を守る集団についての胸を打つ報告だった。その後の中国との差が強く印象付けられた。
○抵抗者たちについての別の現実が見えてきた時代でもあった。彼らをロマンティシズムをもって遠くから見ているだけでは済まなくなった。そして、メディアから「ゲリラ」という呼称が消えていった。
○1996年、トゥパク・アマル革命運動によるペルー日本大使公邸占領・人質事件。「テロ」と呼ばれた。彼らのフジモリ政権への要求には充分な根拠があった。フジモリは武力解決ではなく、政治的な解決を見いだせた筈だと思った。しかし、最終的にメンバー全員の殺害に終わった。
○このとき(まだ負傷者を出す前)、テレビ取材があった。これを「テロ」と言うのであれば、危なっかしい弾圧政策を取っているフジモリ政権も「国家テロ」であると同列に論じなければ不当な解釈になってしまうと発言した。テレビはテロ組織と国家を同一のまな板の上で論じることが信じ難いことだったようで、そそくさと帰った(例外は「ニュース23」だった)。テロと呼ぶ暴力とテロと呼ばない暴力について、メディアがはっきりと使い分けはじめた時代だということができる。
○ゲリラ14人が殺害され、日本のメディアでは、「文藝春秋」に書いているような面々により「フジモリ良くやった」「日本人移民二世のフジモリにサムライの姿をみた」などといった言説が満ち溢れた。この後、「危機管理」や「反テロ対策」といった言葉が当たり前のように使われるようになった。確かに1995年の阪神淡路大震災(自然災害)とオウム・サリン事件(人為的犯罪)との対比があり、このような言論がまかり通りやすい風潮があった。
○2001年の「9・11」。勿論、悲劇である。しかし、ブッシュ政権は危機を煽り、一致団結させ、あのような社会ができてしまった。そしてアフガンやイランでの戦争を経て現在に至っている。
○あのとき、米国社会は「悲劇を独り占めにしない」べきだった。確かに米国本土があのような形で攻撃を受けたのははじめてのことであった。しかし、米国以外の地域の人びとにとっては、しょっちゅう受けている「程度」の攻撃だった。そして、その原因は他ならぬ米国にあった。
○米国はベトナム人を何十万人殺しただろう。当時撒いた枯葉剤は、何世代もベトナム人を傷つけている。彼らに悲劇役者ぶる権利があるのか。(坂田雅子『沈黙の春を生きて』が岩波ホールで上映されている。)
○ベトナムだけではない。19世紀末にネイティブアメリカンを殲滅し、米国は海外に出はじめる。それを含め、米国が独立以来、いかに戦争に次ぐ戦争でためらうことなく人びとを殺し、超大国になってきたのか、歴史を振り返ればそれは明らかだ。「9・11」は、米国が世界の至るところでやってきたことの「鏡」でもあった。
○「9・11」のとき、米国はそれまで熱狂して行ってきたことを振り返り、それを教訓として愚かな行いを繰り返さないようにすべきだった。現実は逆だった。ブッシュは「われわれの側につくのか、テロリストの側につくのか」と単純な二分法を周囲に突きつけ、小泉やブレアといった自分の頭では何も考えない政治家連中はブッシュにひれ伏した。
○もし膨大な軍事費を内政問題にまわしていたなら、貧困問題、医療問題、凶悪犯罪問題などが多少なりとも改善され、多少なりとも成熟した社会になっていたかもしれない。
○ダグラス・ラミスは「戦争は帰ってくる」という名言を使った。絶えず戦争と戦争準備をしている国、戦争をしていない時期のほうが短い国、人心はそれに慣れてしまっており、米国の暴力社会は対外的な戦争と不可分のものと化している。
○ベトナムの枯葉剤と福島原発事故とには同じ側面がある。いまの人びとだけが犠牲者なのではなく、これからの世代にも影響を及ぼすものだ。
○例えば反原発デモに対する警察の介入がある。まだ参加者を殺すわけではないが、背景に国家を持った力での押しつぶしであり、「国家テロ」と重なってくる。
○「テロ」と「国家テロ」の両方を無くすための政治的道筋はどのようなものか。
○2011年、「3・11」。日本政府は正確な放射性物質の拡散量を公表せず、また、処理水の海洋投棄についてはロンドン条約に違反しないという詭弁を弄している(陸上からの廃棄ゆえ、という理由)。本来は正確な事態を公表し、近隣国に謝罪すべきであった。現在の日本は「放射能テロ国家」として、世界を脅かしている。
○人間の社会はそう急激には変わらない。だから、考え付くことができることは早く考え付いて、話し合って、練り、10年後でも50年後でも実現しよう。「夢じゃないか、馬鹿」と言われるような夢想も大切なことだ。
○多くの雇用と経済を抱える自衛隊をすぐに解体することはできないだろう。しかし、災害救助の実体となり、軍隊なき国家のモデルケースをつくることができるはずだと思う。日本は敗戦に多くを学ばず、戦後史を展開してきてしまい、別の道があるのだということを示すことができなかった。この66年間がいかに大事な時間であったか。
○もはや国家をすべての背景に物ごとを考えるのは無理であり、経済人にもメディアにも期待できない。別の次元を生きるわれわれがそれを担うべきだ。
○ラテンアメリカの情勢をみるとよい。米国や新自由主義に従わない政権とそれを支える民衆がいて、これまでの国境紛争についても、相互不信に基づくものではない友好的な話し合いがはじまっている。これは米国のやり方が通用しなくなったひとつの形である。
終わったあと、飲み食いをしながら太田氏、残った10人ほどと話をする。太田氏にウカマウ集団の映画上映はないのかと訊いてみると、何とホルヘ・サンヒネスの新作(ボリビアが舞台)が完成し、来年の4-5月ころには旧作を含めて上映したいということだった。2008年のセルバンテス文化センターでの特集上映以来である。これは嬉しい。
●参照
○太田昌国『暴力批判論』
○太田昌国『「拉致」異論』
○『情況』の、「中南米の現在」特集(太田昌国+足立正生)
○ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
○ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
○ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』
●どぅたっち
○森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
○森口豁『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』
○山之口貘のドキュメンタリー
○宮森小学校ジェット機墜落事件のドキュメンタリー