Sightsong

自縄自縛日記

沖縄の渡口万年筆店

2013-08-03 11:05:44 | 沖縄

那覇にユニークな万年筆店があるというので、足を運んだ。ゆいレール美栄橋駅から北西に歩いて行くと、上に「渡口万年ビル」と書いてあるビルがあった。1階の入口には、「渡口万年筆店」の看板。

ご主人はとても柔和で気さくな方。早速、いろいろと珍しいものを見せてくださった。

渡口万年筆店は1931年創立で、復帰前の1960年代までは「本土」の工場で万年筆を作っていた。お店に置いてあるもっとも古い万年筆は1960年製のもので、ペン軸には「TOGUCHI OKINAWA」の文字が彫ってあり、ペン先には渡口の「ト」印の刻印がある(その後、刻印は「T」になった)。14Kである。

もう少し後の時代の製品は、クリップがパーカーの矢の形になっている。

製造していた当時、本店が嘉手納にあり、支店が県庁前と名護にあった。店の広告が掲載された、昭和13年4月2日の「沖縄日報」を見せていただいた。確かに「ト」印時代であり、宣伝がまたふるっている。「”春の”万年筆大奉仕!」、「インキの出具合ペンの走り・・・・・・最も理想的に美しい文字がすらすらと書かれる」、「進入学の御祝にこれが一等 御買時は今!」といった具合に。


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この新聞には、「”戦はん哉、時到る”/雪の大進軍/敵殲滅の激戦記」などと、戦争を翼賛する記事がある。ご主人の話は、沖縄戦の体験に移った。

米軍が上陸してきた1945年、6歳だった。名護の羽地に住んでおり、慌てて山に登った。直後に、麓は火の海になった。しばらく森の中に潜んでいたが、やがて米軍に発見され、捕虜になった―――と。ご主人は、自分のような生き証人がだんだん少なくなり、戦争の実状を知らないおかしな政治家が跋扈していることを懸念している、と語った。

沖縄で遺骨収集を続けておられる「ガマフヤー」という団体がある(>> リンク)。ご主人が見せてくださった別の記事(「琉球新報」2009年9月24日)は、ガマフヤーが見つけた遺骨の胸付近に、渡口万年筆製の万年筆があったというものだった。これも嘉手納本店時代らしい。


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もう万年筆は製造しておらず、販売のみを手掛けている。しかし、お店には若干のデッドストックがあり、希望する人に売っているという。せっかくの機会なので、1本分けていただいた。

何本か書き心地を試していると、ご主人が、「あっ、こんな珍しいものがあった、これにしなさい」。何と、「0.85ドル」の値札がまだ付いている。箱も中袋もひたすら貴重だ。ペン先には「T」印の刻印がある。

インクの注入はスポイトで行う方式であり、ペンの尻がくるくると回って中に刺さっている棒が取り出せるものの、ただのインク押さえ。昔はねじの部分に固いポマードなんかを塗ってインク漏れを防いでいたという。現実的にいま使おうとすると、付けペンでしかありえない。もちろん、それでもいいのだ。

ついでにサービスだよ、と、別のタイプの万年筆をオマケにつけてくださった。独特のペン先の形で、キャップには「WHITE PEARL BRAND」とある。OEM製品だったということだ。

インクは中のビニールパイプを押してポンプのように注入する方式であり、驚いたことに、水で試してみると、まだ生きていた。「RIBBED BAR / TO FILL PRESS / FIRMLY 4 TIMES」と書いてある。しかし、この通りに使う度胸はわたしにはない。

さらに、別のオマケとして、2013年版の渡口万年筆の手帳。中には琉歌なんかが書いてある。もうひとつ、ちょっと古いパーカーのインク瓶。

お店には、極めて珍しい、ペン軸に名前を彫るための器械が置いてあった。何と現役。一方に手書きの文字を置き、それを手でなぞっていくと、縮小されてペン軸が削られていく方式である。最近使ったようで、紙には「那覇」と書いてある。米海兵隊員がやってきて、樺細工の万年筆を買い求め、首軸に「那覇」と書いてくれと頼んだのだということだった。

自分も彫ってほしかったが、生憎、手持ちの万年筆を宿に置いている。次の機会に、ぜひご主人お薦めの日本製万年筆を買い、名前を彫ってもらおうと思った。


領収書も立派

沖縄を去ってからほどなくして、ご主人からの暑中見舞が届いた。この古い万年筆を使って、返事を書かなければ・・・。

●参照
万年筆のペンクリニック
万年筆のペンクリニック(2)
万年筆のペンクリニック(3)
行定勲『クローズド・ノート』(万年筆映画)
鉄ペン


『けーし風』読者の集い(21) 沖縄に生きる<権利>

2013-08-03 08:25:23 | 沖縄

『けーし風』第79号(2013.6、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2013/7/27、四番町集会室)。参加者は7人。

本号の特集は「沖縄に生きる権利―基本的人権・主権・自己決定権」と題されている。

沖縄は、明らかに日本と米国の二重の植民地主義に害され続けている。サブタイトルにある基本的人権が侵害されているわけであり、その再獲得のために何をすべきか。

阿部浩己氏(神奈川大学)による講演録は、特定の集団にとって、内的自決権(自分たちが政策の意思決定に参加することを保障される)、外的自決権(植民地的支配をされている・あるいは内的自決権を否定されている集団が国から分離独立することを主張できる)という、自決権・自己決定権が国際的な流れとなってきていることを示している。国連の植民地独立付与宣言(1960年)、国際人権規約(1966年)などを背景として、国際人権法が力を持つようになってきている。日本は、明らかにその潮流に乗ることができないでいる。

この会でも、国際法の流れの中に沖縄の権利回復を位置づけていくことが重要だという指摘があった。

1962年に琉球立法院が決議した「施政権返還に関する要請決議」(2.1決議)においては、米国による沖縄の支配に反対し、日本への施政権返還を要請している。これは実現を見たが、本来求めていた植民地主義の撤廃はなされず、支配の形が変わっただけだということが、如実に示されているわけである。

「1960年12月第15回国連総会において「あらゆる形の植民地主義を速かに、かつ、無条件に終止させることの必要を厳かに宣言」する旨の「植民地諸国、諸人民に対する独立許容に関する宣言」が採択された今日、日本領土内で住民の意志に反して不当な支配がなされていることに対し、・・・」
「施政権返還に関する要請決議」(2.1決議)より

ところで、沖縄を「軍事的植民地」だと日本ではじめて評したのは矢内原忠雄だったという。

その他、会での話題。

山城博治氏(社民党)の参院選落選の背景。
○沖縄における右翼的な勢力の伸長。それと祖国復帰運動との関連。
○沖縄には戦中まで軍隊がなかったが、そのことの歴史認識は浅い。徴兵はなされており、それに反対して蜂起した民衆が平定された「本部騒動」があった。

【本部騒動】 明治末期に本部村(町)で起こった徴兵忌避をめぐる騒動。1898年(明治31)の「徴兵令」実施以来、本部村は県内でもっとも徴兵忌避者が多かった。1910年5月18日の徴兵検査のさい、徴兵忌避の疑いがある青年にたいし、徴兵官が麻酔をかけるなど警引な検査を実施した。そのようすを見ていた村民がいきり立って、検査場に乱入、器物を壊したり、係官に殴りかかった。徴兵官は抜刀して切りつけ、村民を場外に退けた。夜になって、数百人が検査場の本部尋常小学校校庭に結集、渡久地署の警官だけではなすすべがなく、翌19日、那覇からの応援を得て微兵検査を終えた。その後、23人が<騒擾罪>で起訴され、そのうち2人は無罪、残りは懲役5年から罰金5円の刑が言い渡された。この事件は、一般民衆の徴兵嫌悪を象徴する代表的な事例である。(『沖縄大百科事典』沖縄タイムス)

高江のスラップ裁判(政府が民衆を威圧するために使う報復的な民事訴訟)。本誌でも、岡本由希子氏が、米国にスラップ訴訟を退ける法律があることに言及しており、さらに、会でも、欧米にも反スラップ法があるはずだとの指摘。高江の件は違憲裁判になりうるのではないか。なお、高裁の不当判決を受けて、高江の伊佐氏は既に上告したとのこと(参加者が本人に携帯で確認した)。
○現政権が自民党配備を狙っている与那国において、8/11に町長選がある。
○4月28日の沖縄での政府式典(沖縄主権回復の日)において、首相たちが突然「万歳三唱」をした件。勿論、戦後、沖縄を米国に引き渡した「天皇メッセージ」が想起されるが、今回も、「沖縄は日本にとって関係ない」とのメッセージであったのだとの指摘。
○2014年に、スコットランドにおいて、英国からの独立に関する住民投票が実施される。沖縄独立論についても、また関連して議論がなされるだろう。
○金武湾の石油備蓄基地(CTC)建設反対を訴えた情報誌としてスタートした『琉球弧の住民運動』(1977-84, 86-90)。なんとか復刻にこぎつけたとのこと。わたしも編集委員に名を連ねていただいている。まだ予約受付中。ぜひ。

●けーし風
『けーし風』読者の集い(20) 島々の未来に軍事的緊張はいらない
『けーし風』読者の集い(19) 新しい地平をひらく―「復帰40年」の沖縄から
『けーし風』読者の集い(18) 抑圧とたたかう ― ジェンダーの視点から
『けーし風』読者の集い(17) 歴史の書き換えに抗する
けーし風』読者の集い(16) 新自由主義と軍事主義に抗する視点
『けーし風』2011.12 新自由主義と軍事主義に抗する視点
『けーし風』読者の集い(15) 上江田千代さん講演会
『けーし風』読者の集い(14) 放射能汚染時代に向き合う
『けーし風』読者の集い(13) 東アジアをむすぶ・つなぐ
『けーし風』読者の集い(12) 県知事選挙をふりかえる
『けーし風』2010.9 元海兵隊員の言葉から考える
『けーし風』読者の集い(11) 国連勧告をめぐって
『けーし風』読者の集い(10) 名護市民の選択、県民大会
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄


崎山多美『ムイアニ由来記』、『コトバの生まれる場所』

2013-08-03 00:25:03 | 沖縄

沖縄への行き帰りに、崎山多美の小説『ムイアニ由来記』とエッセイ集『コトバの生まれる場所』を読む。

『ムイアニ由来記』(1999年、砂子屋書房)には、2編の作品が収録されている。

「ムイアニ由来記」においては、ひとり暮らしの女が、異次元からの声に呼ばれ、封建的なイエへと連れて行かれる。お前はかつて子を産んだのだ、それゆえイエを継がなければならぬ。記憶にないことだが、女は、わけのわからない力に衝き動かされ、運命のクレバスに自ら転がり落ちてゆく。この物語に見え隠れするなにものかの意思は、きっと、女性という存在の理不尽さと関連付けられている。

「オキナワンイナグングァヌ・パナス」は、奇妙な少女、その母、少女と心を通わせるオバアの物語。一方、日常生活はしらじらと流れていく。寂しいのはあなただけではない、と言われているようだ。

現在出回っている崎山多美の小説は、最新の『月や、あらん』くらいであり、amazonでも、他には上の『ムイアニ由来記』しか新刊で入手できない。編集者のHさんから置いてあったと聞き、期待して足を運んだ那覇のジュンク堂では、『コトバの生まれる場所』(2004年、砂子屋書房)を発見することができた。

収録されたエッセイを読み進めるうちに、『月や、あらん』や『ムイアニ由来記』において薄々と感じていた印象が明らかになってきた。

この人が不信のまなざしを向け続ける対象は、常に言葉である。まったく自律的ではなく、出鱈目で、しばしばそれを使う者も向けられた者も裏切る、言葉というもの。しかし、その一方で、この人自身の存在が依って立つ足がかりが、言葉でしかないのである。極めて危うい時空間において、それでも、小説家は言葉を発し、漂流する言葉を糊でつなぎ、破く。小説の登場人物たちが、言葉の波動で形成されているように感じられるのも道理であった。

ラテンアメリカ文学へのシンパシイも嬉しい側面だ。「ムイアニ由来記」では、新潮文庫版のマリオ・バルガス=リョサ『緑の家』(復刊された岩波文庫の2分冊版ではない)を冒頭に登場させ、このエッセイでは、オクタビオ・パスやフリオ・コルタサルにも言及している。しかし、崎山作品の印象は、これらのラテンアメリカ文学の代名詞のように使われた「魔術的リアリズム」とは異なる。崎山作品においては、血も汗も、重力も感じられないのである。むしろ、重力を失わしめる北斗琉拳の作りだす時空間のような・・・。

●参照
崎山多美『月や、あらん』


ひさびさのインタリュード

2013-08-02 07:33:27 | アヴァンギャルド・ジャズ

月曜日。久しぶりに、那覇のインタリュードに立ち寄った。大好きなジャズ歌手・与世山澄子さんのお店である。

午後3時頃。炎天下を歩いていてもう嫌になり、ああ辿り着いたとドアを引くと、閉っている。がっかりして後ろを向くと、買い物袋を持った与世山さんが歩いてきた。

以前も同じようなことがあった。閉っていて、仕方なく2階のライヴハウスに通じる階段に腰掛けていたところ、やはり、与世山さんが買い物袋を持って現れたのだった。そのときには、中江祐司『恋しくて』に出演するのだと言って、熱心にシナリオを覚えておられた。2005年のこと。

インタリュードを訪れるのは、たぶん2009年にライヴを観て以来だから4年ぶり。1階の喫茶はいつ以来だろう。2007年頃だろうか。はにかむようにして話す与世山さんの姿も、大きなジュークボックスも、前と同じである。ただ、もう「安里そば」は大変だからと言って出していない。ジュークボックスの横にあった大きなゴジラ人形(確かゴミ捨て場から拾ってきたとか)は、奥の方に移動していた。

内緒の話もあるがここでは書けない。期待して待つとだけ。

6月に東京に来たばかり。今度は11月に青山のボディ&ソウルでライヴをやるそうだ。ピアノは山本剛さんだそうで、何とか駆け付けたいところ。

●参照
いーやーぐゎー、さがり花、インタリュード(2009年)
与世山澄子ファンにとっての「恋しくて」(2007年)
城間ヨシさん、インタリュード、栄町市場(2007年)
35mmのビオゴンとカラースコパーで撮る「インタリュード」(2006、2007年)
2006年10月、与世山澄子+鈴木良雄
与世山さんの「Poor Butterfly」(2005年)


鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』

2013-08-01 00:06:33 | 東北・中部

佐喜眞美術館では、鄭周河(チョン・ジュハ)という韓国の写真家による写真展『奪われた野にも春は来るか』を観た。

写真家が撮った対象は、被災地・福島である。

人の姿が視えぬ広大な農地の上で、鳥が舞う。誰かが住んでいるのかどうかわからない一軒家がある。農地の中に、ぽつんと神社が建っている。誰もいない学校のグラウンドがある。津波におかされた老人ホームの壁と、動いているのかどうかわからない掛け時計がある。テトラポットや、決壊した堤防がある。

デジタルで大きく引き延ばされた写真群を凝視していると、本来は懐かしさを感じる筈の里山の風景が、まるで静かに復讐しようとでも考えているかのようななにものかをもって、迫ってくる。静かに叫びそうになる。

里山には、カタストロフ前と同様に、家や、道路や、雑木林や、植林された林がある。それらの変わらなさを観ていると、自然はやわなものではないという考えが湧いてくる。しかし、それは違う。

観客は自分ひとりだったが、まもなく、女性数人がおしゃべりをしながら入ってきた。その中のひとりが、写真を前にして考えを述べていた。―――「春は来るか」、それは戻ってくる、森も戻ってくる。だけど、それは元の森ではないんだよ。だから、基地だって災厄がある前に入れさせないんだよ―――と。握手をしたくなるほどの正論であり、その通りである。しかし、その十分に練られた考えを基にした語りが、まるでドグマのように感じられたのも正直なところだ。

これらの写真を通じて観るカタストロフには、おそらく、物語への回収を断固として拒否するものがある。