Sightsong

自縄自縛日記

スラヴォイ・ジジェク『2011 危うく夢見た一年』

2013-08-13 09:03:58 | 政治

スラヴォイ・ジジェク『2011 危うく夢見た一年』(航思社、原著2012年)を読む。

「ウォール街を占拠せよ」、アラブの春、大衆蜂起。2011年にはさまざまなことがあった。

ジジェクは、それらを「ネタ」として、得意の映画を引用しつつ、饒舌な弁論を展開する。話はあっちに行ったと思えばこっちに行く。ああ言えばこう言う。それでいて、コアは大したことがなくて、おいおい、結局それが言いたかったのかいと脱力してしまうような、妙にピュアなものだったりする。オッサン、オッサン、そんなに無駄な言説を弄んで楽しいのか。

もちろん、なるほどと思わされる話もなくはない。

たとえば。

ポピュリズムや新自由主義といった脅威に抗して、国家や社会のヴィジョンを主張する方法では、失敗が見えている。それは観念論だからだ。資本主義は個別の動きなのであって、全体を包含するものではなく、ヴィジョンなどではない(意味から全体性を奪い取った社会)。

原因は、「うまくいかない」ものにしかない。

経済にも全体性はない。政治とは、経済のそれ自身からの隔たりを指す名称である。

現代の社会においては、既に社会主義が成立している。そこに含まれる階級は、ひと握りの富裕層や政治家たちである。

ヴィジョンの闘争と階級闘争とは根本的に異なる。

国家は、国民だけでなく、国家それ自身をも代表する。それがあからさまに認められてしまえば、誰が国家権力を抑制するのか。

現代においては、「最良の者たちがことごとく信念を見失い、最悪の者たちが並々ならぬ情念に満ち溢れている」。

ヴィジョン間の闘争ではなく、複数の相異なるヴィジョンの共存・混淆を前提とした闘争を行うべきだ。「他者に安易に敬意を払ってはならない。他者に共同闘争を提起せねばならない。なぜなら、今日、われわれにとってもっとも緊急な課題はわれわれが共通して直面している課題だからである。」

といったところだ。ひとつひとつは、まあ、わからなくもないが、アフォリズム集と何が違うのか。どちらかといえば阿呆リズム集だ。

ジジェクは、「不満があっても馴染み深いことを続ける」のではなく、エジプトでの蜂起のように、特異点を見出そうと続けるべきであると主張する。具体的には、システムとしての民主主義を内部から解体し、新たな形を発案すること。そして、未来は、客観的な見通しとしてはありえず、その特異点にどっぷりとつかった者にしか見えないのだ、と。ジジェク得意の「信じることを信じよ」である。何、それ?

ジジェクはこうも言う。イラン革命(1979年)において、テヘランの交差点で、警察官が一人のデモ参加者に止まれと叫んだが、彼は拒否した。警察官は退散した。数時間のうち、テヘラン全体がこの出来事を知ることになった。その後、誰もが何となくゲームが終わったことを知ることになった。イランでの不正選挙(2009年)により、ムサビがアフマディネジャドに敗北した後でも、このようなことが起きた。

「信じることを信じよ」は置いておいても、モード・チェンジはあってもよさそうなものだ。「あってもよさそうなものだ」という第三者的な関与からは、それは起こらないこともわかる。いまの政治システムや社会システムが矛盾だらけであることは誰の目にも明らかであり、敵の姿や戦略は既に見えている。

だとすれば、ジジェクが例示している新旧のイランのように、ある時期に「ゲーム・セット」が起き、その後振り返ってみれば、それが如何に馬鹿げたシステムであったのかがさらに明らかに見えるということだって、希望のひとつとして掲げてもよい。つまり、モード・チェンジ後への予兆を捉えていけば、それらは、馬鹿げたシステムを一秒でも長く維持しようとする者たちにとって、脅威たりうるということだ。

●参照
スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』
スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東』


デイヴ・ホランド+ペペ・ハビチュエラ『Hands』

2013-08-12 20:41:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

このところ、頻繁に、デイヴ・ホランド+ペペ・ハビチュエラ『Hands』(Dare2 Records、2010年)を聴いている。

Dave Holland (b)
Pepe Habichuela (g)
Josemi Carmona (g)
Carlos Carmona (g)
Israel Porrina (Pirana) (cajon and percussion)
Juan Carmona (cajon and percussion)

ペペ・ハビチュエラはフラメンコ・ギターの大家。すなわち、ジャズ・ミーツ・フラメンコである。

重厚にして同時に軽やかなダンスを、大きなベースで繰り広げるような、デイヴ・ホランド。彼のプレイの魅力に気付かされたのはかなり最近のことで、いったい自分は20年以上も何を聴いていたのだろうと思う。

それはともかく、そのようなホランドの踊るベースは、フラメンコの世界と驚くほど相性が良いことにも、気付かされるのだった。ハビチュエラのギターだけではない。独特のリズムを持つパーカッション、拍手、掛け声。もっとも、ホランドは、ライナーノートにおいて、フラメンコに関して「It was a new world to me.」と大きな字で書いているのではあるが。

食わず嫌いはよくない。推薦。

●参照
デイヴ・ホランドの映像『Jazzbaltica 2003』
カール・ベルガー+デイヴ・ホランド+エド・ブラックウェル『Crystal Fire』
ゲイリー・トーマス『While the Gate is Open』(デイヴ・ホランド参加)
ジョン・サーマン『Unissued Sessions 1969』(デイヴ・ホランド参加)


ジョン・ブッチャー@横浜エアジン

2013-08-12 08:29:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョン・ブッチャーを聴くため、横浜エアジンに足を運んだ(2013/8/11)。

John Butcher (ts, ss)

昼過ぎに大雨と落雷があった。そのため京王線は何時間も止まってしまい、共演する筈のパール・アレクサンダー(ベース)が来ることができず、急遽ソロとなった。(本人のtwitterでは、苛立ちや怒りが書かれており、はらはらした。)

ブッチャーのサックスの音色は、実に幅広く、それゆえに不定形であるともいうことができる。さまざまな周波数の倍音があり、音なき音が異次元との間を行き来し、サックスの管体が聴いたことのないあり方で共鳴する。タンポを使った破裂音、マウスピースのごく先端のみをくわえた吹き方、マウスピースをはずしての音の増幅、時には風の音。

演奏中、目と耳は釘づけである。しかも、どんな技術なのか想像できない。前回聴いたのは、3年前、マドリッドにおける大友良英とのデュオだったが、そのときよりもさらに演奏が柔軟になっているように思えたのだがどうだろう。

終わったあと、ブッチャーと少し話をして、楽器もみせてもらった。テナーのマウスピースはメタルだが、ソプラノのマウスピースはエボナイト(数十年前の米国製だという)。リードは4番、黒くプラスチックのコーティングが施してある。固いなあと驚くと、オーバートーンを出すためにはこれがいいのだと語った。そして、雑談をしながら、途中まで彼を含め数人で一緒に帰った。


『SCRUTABLES』にサインを頂いた。写真は日本の温泉で出された料理だとか。

●参照
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』
ジョン・ブッチャー『THE GEOMETRY OF SENTIMENT』


三上智恵『標的の村』映画版

2013-08-12 01:11:34 | 沖縄

沖縄県東村高江では、2007年から、ヘリパッド建設に反対する座り込みが続けられている。1996年の日米間のSACO合意以降、日本政府は沖縄の基地負担軽減を謳いながら、実は住民を騙す形で、基地機能強化を図り続けている。座り込みは、如何に声をあげようと聞き入れられない状況において、なされている。

この事実を描いたドキュメンタリー『標的の村 ~国に訴えられた東村・高江の住民たち~』(2012年、琉球朝日放送、三上智恵ディレクター)(>> リンク)は、さまざまな賞を受けた。しかし、それでも、全国放送にはつながらない。状況打開のために、三上ディレクターは、映画という配給手法を用いた。時間も、テレビ版の46分から91分へとほぼ倍になっている。

公開初日(2013/8/10)のポレポレ東中野では、入りきれない人が続出したという。そんなわけで、2日目も早めに行かないとダメだなと思って30分前に着いたところ、既に整理番号ぎりぎりだった。やはり、外には入れない人たち。久しぶりに、大木晴子さん(>> リンク)にもお会いすることができた。

映画の内容は、ほぼテレビ版(>> リンク)と同じだ。しかし、時間が長くなっている分、さまざまなエピソードや説明を盛り込み、さらにわかりやすく充実したものとなっていた。もっとも、知っているとはいえ、腸が煮えくりかえるような話ばかりだが・・・。

この、国家のむきだしの暴力に対し、人権を侵害された住民は、如何に抗していくべきか。辺野古でも、映画で描かれる高江でも、オスプレイ搬入を阻止するために住民が蜂起した普天間でも、結果だけをみれば、国家の暴力的な企図を無化するところにまで至らず、むしろ、事態はその方向に進んでしまっている。

しかし、辺野古も高江も、真っ当な抵抗があったからこそ、最悪の結果に行きつかないでいるということができる。また、上映後に壇上に立った三上さんによれば、普天間包囲も、いざとなれば実力で阻止できるという住民の意思表明だと捉えるべきだという。

多くの人に、ぜひ観てほしい。これが、テレビでは覆い隠されて報道されない、日本の実状だ。

●参照
テレビ版『標的の村』
2010年8月、高江
高江・辺野古訪問記(1) 高江(2007年)
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会
ヘリパッドいらない東京集会
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
「やんばるの森を守ろう!米軍ヘリパッド建設を止めよう!!」集会  
東村高江のことを考えていよう(2007年7月、枯葉剤報道)
『米軍は沖縄で枯れ葉剤を使用した!?』
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』
高野孟『沖縄に海兵隊はいらない!』
宮城康博・屋良朝博『普天間を封鎖した4日間』
10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会(オスプレイ阻止)
オスプレイの危険性(2)
オスプレイの危険性
6.15沖縄意見広告運動報告集会
オスプレイの模型


『ガタロさんが描く町~清掃員画家のヒロシマ~』

2013-08-11 07:57:32 | 中国・四国

NHK・ETV特集で放送された『ガタロさんが描く町~清掃員画家のヒロシマ~』を観る(2013/8/10)。(>> リンク

広島市営の「基町アパート」。戦後の復興事業として建設された「小さなまち」であり、その中には、商店街がある。

ガタロさんの名前は自分で付けた渾名。川が好きな彼は、川に棲むという「河太郎」こと「ガタロ」を自分になぞらえた。

もう30年もの間、ガタロさんは、ひとりで商店街の清掃を請け負っている。月給15万円、仕事はきつい。ごみが捨てられ、ガムがこびりついている通路。それだけでなく、いくつも設置されているトイレ。ガタロさんは、猛スピードで、しかも丁寧に、綺麗にしていく。真冬でも素手でこなし、しかも、手を抜いてもいいような便器の金属パイプまでひとつひとつ磨く。文字通り、真似できない仕事ぶりである。

この仕事に就いた当初、長くは続かないだろうと思ったという。しかし、ガタロさんを支えたのは、商店街の人びととの触れ合いであり、仕事のあとに描く絵であった。

商店街の一角にあつらえた「アトリエ」において、ガタロさんは、掃除用具の絵を描いていく。掃除と同様にスピーディーな手業で、拾ってきた画材をつかって、掃除用具をいとおしむように。ガタロさんにとって、掃除用具は人生の大事な伴侶なのである。決して借り物ではない芸術の世界がそこにある。

この6月に、記者のDさんに、この基町アパートを案内していただいた。シャッターを下ろした店が多いものの、思い返してみれば、確かに手が行きとどいている「人間のまち」だった。その、人間の手こそが、ガタロさんの手でもあったとは。

番組では、商店街の上につくられた歩道が紹介されている。団地や商店街を見渡せるように設計されたものであったという。わたしが歩いたときにも、お年寄りがおしゃべりをしていたり、背伸びをしたい若者が集まっていたりした。設計思想は、いまも生きているということか。

Dさんご夫妻と一緒に入った「華ぶさ」で食べたオコゼは、旨かった。また行きたくなってくる。

ところで、そのDさんが昨日教えてくれた。NHKで8月24日(土)23時から、『ドキュメンタリードラマ・基町アパート』が放送される(>> リンク)。アパートの成り立ちや特徴を生かしたドラマのようで、これは見逃せない。

●参照
旨い広島


『メッシュマップ東京』

2013-08-11 00:21:00 | 関東

NHKのドキュメンタリー『メッシュマップ東京』(1974年)を観る。「日本映画専門チャンネル」の工藤敏樹特集で放送された作品であり、ディレクター・相田洋さん、プロデューサー・工藤敏樹さんというスタッフで撮られたものだという。(当時の撮影助手を務められた高野英二さんにご教示いただいた。)

東京を1kmごとや500mごとなどのメッシュに区切り、土地利用、人口密度、夜間人口、高齢者人口など、さまざまなデータを集約した「メッシュマップ」が、多数存在する。このドキュメンタリーでは、それらをしげしげと凝視するところからはじまる。

夜間人口が多いメッシュは、すなわち、通勤のためのベッドタウンを意味する。いきなり、カメラは、東京発・高尾山行の中央線の最終電車を追う。泥酔して、終点でも正気に戻らない勤め人たち。そのため、高尾山駅の休憩所は朝まで開いている。もっとも、今はそこまで寛大ではないだろう。

海のメッシュに目を向けると、夢の島。ごみの最終処分場として、1960年前後には埋め立てが開始され、立派な橋もできた。そこで働く人々は、ほとんどが東北地方出身の出稼ぎであったという。カメラは、1年の3分の2を出稼ぎで暮らす青森県出身の男をとらえる。(ところで、1971年の『帰ってきたウルトラマン』には、燃やさないままのごみで埋め尽くされた夢の島が出てきた記憶がある。)

水田があるメッシュはどこか。井の頭線の富士見ヶ丘に行っても、もうそれは20年前のことだと笑われる。もうひとつは、足立区の北部、個人所有のものだけ残っていた。

人口密度が多いメッシュはどこか。たとえば日雇いの山谷。当然ドヤ街だからだ(言うまでもないが、「ドヤ」=「宿」である)。それから、振興住宅地の高島平。カメラは団地の中に入り、都市に暮らす若夫婦の悩みや高齢者の存在を見出す。この時代、既に高島平の自殺率は、東京平均の4倍にのぼっていたという。

逆に、人口密度が少ないメッシュは、赤坂から六本木一丁目あたりにあった。映像を観て驚いたことに、木造住宅だらけである。いまでも雑踏の匂いを残す界隈ではあるが、このようであったのか。しかも、その多くは空き家であり、デベロッパーがすべて買い上げ続けている。すなわちそれは、森ビルによるアークヒルズのもとの開発地域なのだった(つい先日も、界隈を歩きながら、このあたりは森さんの家でしたっけ、などと軽口を叩いていた)。こう見ると、都市の地霊があるといってもまったくおかしくはない。 

そういえば、赤坂サカスの前、マクドナルドの真横には、いまでも一軒の木造住宅が残っている。地上げに抗し続けた結果なのだと聞いたことがあるが、今後も残るのだろうか。

番組は、さらに、建設現場の事故死資料をメッシュに落としていく。その結果見えてきた分布は、見事に、高速道路や地下鉄と重なっていた。東京は、多くの出稼ぎの人びとが亡くなった上に出来あがっていることが、如実にわかるのである。

それにしても、メッシュ地図や資料を丹念にあさり、凝視するところから、東京史を浮かび上がらせるなど、並の手腕ではない。いったい、どのような企画書を書いたのだろう。いまの街歩き番組など、足許にも及ばない。

●参照
工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』(1967年)


里国隆のドキュメンタリー『白い大道』

2013-08-10 19:41:29 | 沖縄

2005年にNHKで放送されたドキュメンタリー、『白い大道~伝説の唄者・里国隆を探して』を再見した。

奄美出身の流浪の唄者・里国隆の足跡を追った、2時間半の作品である。ちょうど、宮里千里さんが開いたばかりの古書店「宮里小書店」を訪ねたばかりで、想い出したのだ。宮里さんは、1983年に、晩年の里が那覇の平和通りに座りこんで唄っている様子を、オープンリールテープで録音している。

里の演奏と唄は、おそらく誰にも似ていない。確かに、コードは沖縄民謡のそれではなく、悲壮感が漂う奄美民謡のものに近いように感じる。激しく弦にアタックすることがあることも、そうだ。しかし、自作の13弦の竪琴や割れるような声は、異質の、たいへんな迫力を持っている。番組に登場する知名定男は、「決して美声ではない」としながら「驚愕した」と想い出し、奄美の唄者・築地俊造は、奄美独特の裏声を使わずに琴を駆使した技術に魅せられたと振り返っている。

1918年、奄美大島生まれ。幼少時の熱病で視力を失う。1936年、樟脳売りの老人に付き従って奄美を出る。唄や琴は彼に学びつつ、サバニに乗って、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島、そして嵐で流されて、1940年、沖縄本島・国頭村の楚洲に漂着。同村の安波では、里の唄が流行して誰もが唄っていたとか。

以来、琉球弧を流浪し、樟脳を並べて唄う人生であった。敗戦直前には、特攻隊が米軍攻撃に備え、住民が日本軍によって「集団自決」を迫られている喜界島に居た。戦後は、平安座島、石川、屋慶名、金武、那覇、コザなど、本島を流浪することが多かったという。キャンプ・シュワブが建設されはじめた1957年からしばらくは、辺野古でも演奏している。

女好きでもあったらしい。同郷の人の証言によると、風俗店では「one time」と「all night」とがあり、里は「one time」の料金だけしか払っていないにも関わらず、そのまま居座ろうとしたこともあった。そして、1985年に請われて沖縄ジャンジャンで演奏した際には、相方を務めた松山美枝子に対し、調子が悪いから同じ部屋に泊まってくれと頼んだという話もある。ただそれは、本当に身体の不調を懸念してのことであったのかもしれない。数日後、友人が経営する老人ホームに寝泊まりしていた里は、体調を悪化させ急死する。享年66歳。

里をめぐる様々な人物が登場する力作である。できれば再放送してほしい(VHSで録画したものしかないのだ)。

わたしの棚にある里国隆のCDは、『あがれゆぬはる加那』『黒声』の2枚。またじっくり聴いてみようと思っている。


山田洋次『馬鹿まるだし』

2013-08-10 14:23:00 | 中国・四国

山田洋次『馬鹿まるだし』(1964年)を観る。

瀬戸内の漁村。シベリアから引き揚げてきた男は、偶然が重なり、寺に住まわせてもらうことになる。男は、生死の判明しない夫を待つ寺の長女の妻に一目惚れ。やがて周囲に親分とおだてられ、侠客のふりをしたり、労働組合の英雄になったり、人助けをしたり。時代は変わり、男のようなはみ出した人間は生きづらくなり、落ちぶれていく。そして最後に訪れた人助けの機会。

山田洋次は「愚か者をしっかり愚か者として描けば、観客は笑ってくれるものだ」と語っているという。まったく大した手腕であり、ハナ肇、犬塚弘、長門勇、花沢徳衛、植木等など芸達者な役者たちを使って、笑いあり涙ありの傑作人情劇に仕立て上げている。ハクモクレンの花が登場人物たちを見守るつくりも巧い。山田洋次、これでまだ30代そこそこ。

明らかに、惚れた女から自ら身を引く愚かな男という、『男はつらいよ』シリーズの原点になっている。ただ、初期の寅さんは「かわいい愚か者」ではなく「凶悪な愚か者」でもあり、観ていて辛くなる。自分はこちらのほうが好きだ。


澤地久枝『もうひとつの満洲』 楊靖宇という人の足跡

2013-08-09 08:18:19 | 中国・台湾

東南アジアへの行き帰りの機内で、澤地久枝『もうひとつの満洲』(文春文庫、原著1982年)を読む。

作家・澤地久枝は、50歳のとき、自身の故郷である旧満洲(満州)の吉林省に旅に出る。その目的は、反満抗日ゲリラのリーダー・楊靖宇(ようせいう)の足跡を辿ることであった。

はじめて聞く名前だ。おそらく、日本でもほとんど知られた存在ではない。しかし、本書には、中国東北の人が「東北の民衆は誰でも知っている」と答える場面がある。そして、わたしも吉林省出身の同僚に訊いてみたところ、やはり、「吉林省では誰もが知っている」という。亡くなったとき、ほとんど餓死寸前だったことも。

それは、「草根木皮」と表現される。日本の討伐隊に射殺されたあと、解剖された楊の胃の中には、草の根や木の皮しかなかった。それほど飢えながら、匪賊と呼ばれながら、偽・満州国に抗し、日本の支配と戦っていたのである。

旅の途中、平頂山事件(1932年、関東軍による住民虐殺)の跡地を訪ねたりもしながら、作家は、次第に、楊の姿を描き出していく。

本名・馬尚徳。1905年、河南省の農家に生まれる。やがて政治的な青年となり、共産党に入党。この時点で馬尚徳の首には賞金がかけられ、地下に潜伏。1929年、東北で活動すべく山海関を越える。反満抗日活動の末、1940年、討伐軍に射殺される。楊の死を事実として示すため、首は、衆目にさらされた。

この凄絶な生涯を追うため、作家は、さまざまな証人の話を訊いて歩く。飢餓。日本軍による暴力と収奪。強制労働。満州移民の差別的な言動。三光作戦の実状。確実に、現在よりも、中国人が日本人に向ける視線は記憶に基づく厳しいものであっただろう。その中で、作家は、「日本人としての位置」を自覚しつつも、敢えて「懺悔めいたこと、贖罪めいた表現」を排し、「身をいやしくし、相手に媚びる形」では相手に接することをしない。

勿論、居直っているのではない。証言性を確実なものとするためである。大変な覚悟であったというべきだ。それに比べ、実状を直視しない者たちへの視線は熾烈である。

「「満洲時代がなつかしい」となんの悪意も言える日本人は数多くいる。(略)
 なつかしい土地、なつかしく忘れがたい日々の思い出が残る土地であるのも事実なら、敢然とたたかった中国人の意志と生命を蹂躙した日本人の辛い暦が刻まれているのも事実なのである。」

さまざまな矛盾を裡に抱えながらの個人史=民衆史の創出。読む者にも緊張と内省を強いる本である。

ところで、この本は、那覇の栄町市場に最近できたばかりの「宮里小書店」で購入した。宮里千里さんが開いた古本屋である。残念ながら、店主は、その日「熱を出した」とかでご不在だった。

●参照
澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』
小林英夫『<満洲>の歴史』
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
四方田犬彦・晏妮編『ポスト満洲映画論』
平頂山事件とは何だったのか
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』(本書でも言及、平頂山事件)
鎌田慧『六ヶ所村の記録』(満洲で土地を奪った人びとが日本で開拓した土地を奪われるという反転)
江成常夫『昭和史のかたち』、『霊魂を撮る眼~写真家・江成常夫の戦跡巡礼~』(偽満洲国の記録)
林真理子『RURIKO』
『開拓者たち』


ユーラシアンエコーズ第2章

2013-08-09 00:11:42 | アヴァンギャルド・ジャズ

齋藤徹さんが中心となって、かつての「ユーラシアンエコーズ」の続編として、「ユーラシアンエコーズ第2章」と題したコンサートを開いた(2013/8/8、四谷区民ホール)。

巨人・金石出はもはや鬼籍に入っている。そして、このコンサートは、金石出に捧げられたものにもなっている。韓国からも何人もの音楽家が参加した。

会場は文字通り満席。ジャズファンも、ダンスファンも、邦楽ファンも、韓国音楽のファンもいたに違いない。

元一(ウォン・イル)(ピリ・打楽器)
姜垠一(カン・ウニル)(ヘーグム)
許胤晶(ホ・ユンジョン)(アジェン・コムンゴ)
沢井一恵(17弦箏)
螺鈿隊(箏4重奏、市川慎、梶ヶ野亜生、小林真由子、山野安珠美)
姜泰煥(カン・テファン)(サックス)
喜多直毅(ヴァイオリン)
齋藤徹(コントラバス)
南貞鎬(ナム・ジョンホ)(ダンス)
ジャン・サスポータス(ダンス)

多くの弦楽器がそれぞれの個性を発露しながら、会場全体がぴんと張った弦のような緊張感をもって、演奏がはじまった。

姜垠一のヘーグムは空間を大きな断ち鋏で切り裂いていくようだ。元一のヴァイタリティ。沢井一恵の17弦箏、許胤晶のコムンゴはアグレッシブ。喜多直毅のヴァイオリンは全体を収斂させる。そして、齋藤徹の大きな音楽。姜泰煥の清濁混淆したサックスの流れ。

やがて音楽全体が、緊張感を保ちつつも、祝祭的になってゆく。観客は、みな、動揺しながら、興奮しながら、この展開に身を任せていたのではないか。

本当に素晴らしかった。


齋藤徹


姜垠一


喜多直毅、沢井一恵、螺鈿隊


許胤晶、姜泰煥


元一


元一


姜垠一


沢井一恵


姜泰煥


姜泰煥


姜泰煥


姜泰煥、元一


元一


齋藤徹、ジャン・サスポータス


ジャン・サスポータス


南貞鎬

●参照
ユーラシアン・エコーズ、金石出
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』、バール・フィリップス+今井和雄『プレイエム・アズ・ゼイ・フォール』
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」
齋藤徹、2009年5月、東中野
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm
『人はなぜ歌い、人はなぜ奏でるのか』 金石出に出会う旅
金石出『East Wind』、『Final Say』
姜泰煥+サインホ・ナムチラック『Live』
姜泰煥・高橋悠治・田中泯
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)


シンガポールのクレイポットとバンコクのカニ

2013-08-07 22:34:33 | 東南アジア

所用ではじめて足を運んだシンガポール。評判が良いという「Uncle Sam's Claypot」という店で、チキンのクレイポットを注文した。

クレイポット、つまり素焼きの鍋が熱々になっており、そこにご飯と具材が盛られている。石焼ビビンパ以外にこのようなものがあったとは、知らなかった。当然、慌ててかき混ぜなければならない。写真を撮っていたら、少し焦げてしまった。

それにしても、「アメリカ人の素焼き鍋」とは何という名前か。

そのままバンコクへ移動。この街では、いつも、「Somboon」に行くことにしている。バンコクで仕事をする日本人は、ほとんどこの店を知っているといっても過言ではない。(ボッタクリの偽の店があるので要注意。)

目玉料理は、カニのカレー炒めである。ただ、カレー味はさほど感じない。カニ肉とふわふわの卵の組み合わせが、実に旨いのだ。


ブライアン・ヘルゲランド『42』

2013-08-07 22:00:00 | スポーツ

バンコクからの帰国便で、ブライアン・ヘルゲランド『42』(2013年)を観る。

1947年に黒人選手としてはじめてメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンと、彼を受け入れて契約したブランチ・リッキーの物語。

ローザ・パークスによる「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」が1955年。キング牧師による「I have a dream」の演説が1963年。それよりもはるかに前の時期において、確かに、「白人のスポーツ」たるメジャーリーグに黒人が参加することへの拒否反応は、大変なものだっただろう。

映画では、ジャッキーは、守旧的な白人至上主義者たちから、言葉に言い表せないほどの差別や脅迫を受ける。いや「主義者」だけではない。彼らは一般市民であり、また、チームメイトたちの中にも、一緒にプレイすることに不快感を示す者たちがいた。もちろん、このような愚か者はどの時代にもいるものであり、本質的には現代日本も同じようなものだ。(言うまでもなく、あなたも私も無縁ではありえない。)

映画としてはさほど優れた作品とは言いがたいが、それでも、このような物語には弱い。どうしても感情移入して、涙腺がゆるんでしまう。

ジャッキーがメジャーに昇格したドジャースは、当時、ブルックリンにあった(それゆえに、ポール・オースターがしばしばジャッキーのエピソードを書いている)。確か、狭い路地で子どもたちが自動車をよけたりしていたために、「ドッジ」する人たち、すなわち「ドジャース」と命名されたのだったと記憶しているが、どうだったか。

バーニー・ウィリアムス『Rhythms of the Game - The link between musical and athletic performance』(>> リンク)によると、カウント・ベイシーが彼に捧げた「Did you see Jackie Robinson hit that ball?」という曲があるそうで、ぜひ聴いてみたいところ。


ロン・ハワード『フロスト×ニクソン』

2013-08-07 09:31:52 | 北米

シンガポール行きの機内で、ロン・ハワード『フロスト×ニクソン』(2008年)を観た。

軽薄なテレビ司会者フロストが、ウォーターゲート事件で失脚したばかりのニクソン元大統領への単独インタビューを行う。とにかくニクソンを追いつめた「絵」を撮るべく、フロストは多額の私財を投じ、研究者たちによるチームを結成する。一方、ニクソンは老獪、逆に政界復帰にもつながりかねないインタビュー結果となる始末。しかし、ウォーターゲート事件にあてられた最後のインタビューにおいて、フロストは、ニクソンの感情を暴走させることに成功する。

当時の反ニクソンの雰囲気が感じられ、またニクソンにも感情移入できるつくりの映画。まあ、バランスよく盛り上げていこうとするのはよくわかるが、ただのバランスが取れた映画にとどまっている。

ところで、機内では、『オブリビオン』も観たが、無視。いまはバンコク・スワンナプーム空港のラウンジ、さあ帰りは何を観よう。


『人を動かす絵 田中泯・画家ベーコンを踊る』

2013-08-04 07:06:51 | アート・映画

NHK・ETV特集で放送された『人を動かす絵 田中泯・画家ベーコンを踊る』を観る(2013/8/3)。


向こうに佇む田中泯(2008年) Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ

フランシス・ベーコン展(国立近代美術館) http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=4817454

田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』(Incus、1993年)http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=2559305

姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2008年) http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=1512349

なるほど、田中泯は土方巽にベーコンの絵を示されていた。

田中泯曰く、踊っているときには、さまざまな思考がもの凄い速度で往来する。

『イレイザーヘッド』のインスピレーションの源はベーコンだったのか。

池田20世紀美術館のフランシス・ベーコン、『肉への慈悲』  自分も暗黒舞踏を想起していた。

J.G.バラードは、ベーコンを戦後世界でもっとも重要な画家だと位置づけていた。http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=3695406

田中泯は、絵につけられた値段でその価値を判断する者を批判する。が、そんな者はベーコンに接しても何ということもないのだから、あえて言うこともない。

田中泯がミルフォード・グレイヴスと共演したとき、ほぼ全裸になった(正確には局部を隠すものをつけていた)。グレイヴスが呵々と笑いながら叩き続けていたのが強く記憶に残っている。


田中泯(2008年) Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


田中泯(2008年) Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


泊港、Intermission

2013-08-03 18:20:50 | 沖縄

今回、那覇では泊港近くの沖縄船員会館に宿泊した。

安いと聞いたというだけの理由なのだが、シングル1泊3500円。ちょっと上乗せして国際通りの近くにした方が便利だったに違いないし、以前は1500円くらいのドミトリーも結構使ったし、要は、値段だけを見れば、敢えてここに泊まる理由もないのかもしれない。しかし、シングルとは言え何故かベッドが3つもあり(笑)、部屋はそれなりに綺麗でしっかりしている。それに、炎天下でも、自分は歩くのがさほど苦にならない。

何しろ、港なのだ。


とまりんアネックスの向こうに沖縄船員会館がある


船に乗って離島へ行きたい


「肉の日」のステーキセット

船員会館の1階に、「いかり屋」という食堂が入っている。OAM(沖縄オルタナティブメディア)の西脇さんと再会し、ここで「ステーキセット」を食べた。29日、つまり「肉の日」ということもあって、値段が7掛けの700円だった。沖縄では毎月の29日に、半額になる焼肉屋も多いという。はじめて知った。

久しぶりということもあって話し足りず、とまりんのローソンで缶ビールを買って、部屋で話を続けた。参院選のこと、OAMのこと、崎山多美や中上健次のこと、沖縄の映画館事情、くだらぬゴシップ。

ものぐさな自分は、不義理にもいまだOAMに入会していない。今入ると宣言したにも関わらず、缶ビールと愉快な話のせいで一瞬で忘れてしまった。

また沖縄に来なければと思った。