Sightsong

自縄自縛日記

トニー・マラビー『Paloma Recio』

2014-07-17 07:36:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

トニー・マラビー『Paloma Recio』(New World Records、2008年)

Tony Malaby (ts)
Ben Monder (g)
Envind Opsvik (b)
Nasheet Waits (ds)

なにしろマラビーの音色がとても良い。かすれていて、ノイズを含めてさまざまな周波数が同時に発せられており、しかも太い。繊細に小さい音で吹く箇所もある。ぜひいちど、生で観てみたい。

ギターのベン・モンダーは、ビル・フリゼールやウォルフガング・ムーシュピールのように、サウンド全体を包み込むような演奏。

●参照
ビル・マッケンリー+アンドリュー・シリル@Village Vanguard(ベン・モンダー参加)
ビル・マッケンリー『Ghosts of the Sun』(ベン・モンダー参加)

 


ビリー・バング+サン・ラ『A Tribute to Stuff Smith』

2014-07-15 07:48:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

ビリー・バングサン・ラをフィーチャーした作品『A Tribute to Stuff Smith』(Soul Note、1992年)をときどき聴いている。

Billy Bang (vn)
Sun Ra (p, syn)
John Ore (b)
Andrew Cyrille (ds)

題名の通り、バングが偉大なヴァイオリン奏者のスタッフ・スミスに捧げたアルバムであり、曲も、スミスのオリジナルの他に、「Satin Doll」、「April in Paris」、「Lover Man」、「yesterdays」といったスタンダード。なぜサン・ラなのかといえば、かれがスミスと共演したことがあるからだという。バングも、一時期、サン・ラ・アーケストラに加入したことがあったらしい。

もちろん、サン・ラという名前がサイドマンとして書かれていることに驚き、また期待もするわけだが、それはすれ違いという結果に終わる。サン・ラ(英語ではRaと書かれているが、日本語で「ラーは」と書くのは妙だ)は、確かに斜め上の装飾音をやたらと入れたりして面白くはあるものの、総じて、普通のブルース・ピアニストであるように聞こえる。もっとも、奇抜なことをやってほしいという期待がこちらに勝手にあるわけだ。

スマートで切れ味が異常に鋭い武術の達人を想像しながら、アンドリュー・シリルのドラミングを聴くのは、また違う愉しみ。

●参照
サン・ラの映像『Sun Ra: A Joyful Noise』
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(バング出演)
ビル・マッケンリー+アンドリュー・シリル@Village Vanguard
アンドリュー・シリル『Duology』

 


ジョージ・ロイ・ヒル『ガープの世界』

2014-07-13 21:34:43 | 北米

ジョージ・ロイ・ヒル『ガープの世界』(1982年)。いやあ懐かしい。ジョン・アーヴィングの長い小説を、新潮文庫の2分冊で読んだのが高校生のとき。友人の家に泊まりに行って新聞のテレビ欄を開いたら、夜中に放送することがわかって、ひとりだけ起きて、カットだらけの吹き替え版を観たのが大学生のとき。

レンタルヴィデオ店はあっても、なかなか観たいものは置いていなかった。そのため、何軒もの会員になっていた(なかでも、音羽にあった文芸坐経営の店がすばらしかった)。それが、今では、DVDもネット配信も溢れている。これだって中古盤で500円。簡単すぎて哀しい。

看護婦の母は、第二次世界大戦中、ろくに言葉を発せなくなっていた死に行く兵士と強引に交わり、ガープを産んだ。ガープは成長し、レスリングに没頭し、恋に落ちる。母は男性を悪とみなす運動のリーダーとなり、過激なオピニオン本がベストセラーになる。ガープも作家になる。やがて、夫婦の間には亀裂が走り、悲劇が訪れる。

アーヴィングの小説はおとぎ話のようだったが、この映画も、ドライに明るい画面、断片化したさまざまな物語、ロビン・ウィリアムスの個性などによって(高校生役を演じるロビンにはムリがあるのだが・・・)、やはり現実から微妙に遊離した物語になっている。世界をファンタジックに描くという点で傑作。

ところで、最大の悲劇は、ガープの妻が浮気をする車に、ガープの車が追突してしまうときに起きる。要は、その衝撃で、浮気相手の大事な部分が無くなってしまう。高校生のとき、そのくだりを読んで、マサカコンナコトガと慄然としたものだった。映画ではさすがに直接的には描けず登場人物が説明するだけだが、それにしても、いまだに慄然とする。

●参照
ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向かって撃て!』 


アンディ・ウォーホル『Empire』、『Mario Banana』、『Vinyl』

2014-07-13 11:20:13 | 小型映画

ニューヨークのブルックリンでは週末ごとに蚤の市が開かれている。曜日によっていくつかあるようで、先日、ウィリアムスバーグでの市に行ってきた。

会場には奇妙なものも楽しいものもあったのだが、足が止まったのはDVD屋。明らかに正規盤でないジャズの映像とか、バービー人形を使ったカーペンターズの映画『Superstar』(汚いVHSしか持っていないし、買えばよかった)とか、いろいろあった。その中に、アンディ・ウォーホルのDVDを2枚見つけて入手。すべて一律15ドルだった。

記念写真を撮っていると、店のオヤジがわざわざヘンな顔(笑)

■ 『Empire』(1964年)

もっとも有名なウォーホルの映画だろう。オリジナルは8時間5分もあるが、これは1時間の短縮版。とは言っても本質的には一緒であり、無音で、エンパイア・ステートビルの上部をずっと撮影しているだけの映像である。ウォーホルと、ジョナス・メカスが撮影したらしい。

じっと凝視していても寝落ちするだけなので、さっき、トニー・マラビーの音楽を聴きながら(現在のニューヨークなのでいいだろう)、1時間の苦行に耐えた。あほらしい、とか言ってまた観てしまったりして。

■ 『Mario Banana』(1964年)

3分ほどの2種類の映像があり、モノクロ版とカラー版。女装したマリオ・モンテスが、カメラに妖しい視線をよこしながら、バナナを舐めたり食ったりするだけの映像である。あほらしいとかエロいとかいう以前にヤバい。どうでもいい。

■ 『Vinyl』(1965年)

『時計じかけのオレンジ』をゆるく原作とした1時間映画。これにはセリフが入っているが、あえて棒読みにしたようで、どうでもいいことばかり叫んでいる。

主人公(?)のジェラルド・マランガは、突然、仲間うちから拷問を受ける。当時のファッション・アイコンであったイーディ・セジウィックは、横でぼんやりして、タバコを吸ったり、踊ったり。別に残酷なものでもないのだが、まあ、これもどうでもいいね。

撮影された「ファクトリー」は、いまでは公園になっているジョナス・メカスにも、跡地を訪ねて懐かしがる『ファクトリーの時代』という作品があった。

●参照
アンディ・ウォーホルのファクトリー跡
ジョナス・メカス(8) 『ファクトリーの時代』


丸木美術館の宮良瑛子展

2014-07-13 07:16:47 | 沖縄

埼玉県東松山市の丸木美術館まで足を運び、宮良瑛子展を観る。最終日になんとか間に合った。

宮良瑛子さんは福岡生まれだが、施政権返還直前の沖縄に移住し、沖縄を描きはじめる。その後、韓国の慰安婦や光州事件、アメリカに攻撃される中東など、沖縄以外の抑圧される人びとも、おそらくは想像によって、絵の対象としている。

わたしにとっては、ドキュメンタリー『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』(1985年)において紹介された作品「わが島の土となりしアイヌ兵士に捧ぐ」を目にしただけだが、強い印象が残っており、他の作品も観たいと思っていた。

2階の展示作品は、絵本の原画だった。ひとつは、戦時中、日本軍によって強制的に西表島に疎開させられ、マラリア地獄、その後のソテツ地獄に苦しんだ人びとの物語。もうひとつは、対馬丸事件の8か月前に、対馬丸同様に疎開に向かう民間人多数を乗せた湖南丸が、やはり米軍に撃沈された事件を描いている。しかし、このことは、日本軍によって伏せられ、数十年間も表に出てこなかったという。

1階には、油彩画がまとめて展示されている。沖縄の女性たちは、ことごとく、がっしりした体格、らんらんとした眼を特徴として描かれている。しかも、苦しみ生きている人びとの姿である。日射が強く、まぶしい。光だけでなく、容赦のない自然のエネルギーにより、人びとの皮膚からは水分や有機物が発散し、草木もにおいを発散し、そういった生物の証と、土壌と、自然エネルギーとが強烈な世界を形成している。生きることは苦しむことだと言わんばかりなのだ。

画家にとって、この世界は唯一無二のものであるだろう。その意味で、これらの作品のもつ特性は、「いま、ここに」でしかあり得ない。そして、描かれる対象の脈動は、画家の脈動とシンクロしている。こればかりは、印刷物では体感できない。行ってよかった。

作品のなかには、辺野古の鉄条網(既に撤去)を描いたものや、怒りの声をあげる元慰安婦の人びとを描いたものもある。概念が先走っているのかもしれない。しかし説明画ではない。高良勉さんは、宮良瑛子さんの絵について、古臭さを指摘しつながらも、あらためて時代の証言として発見される厚みと、さらなる抽象への飛翔を観察している(高良勉『魂振り』)。厚いのだ。

ところで、丸木美術館が収蔵する目玉は、丸木夫妻による「原爆の図」である。「水俣の図」、「南京大虐殺の図」、「アウシュビッツの図」も展示されている。人間の形を保っていても、保っていなくても、人間の地獄を描いた作品群である。「入魂」ということばは、これらの作品にこそふさわしいのではないかと思えてくる。また、丸木位里の母・丸木スマ、妹・大道あやの作品も観ることができる。

外に出ると、丸木美術館の横には、「痛恨の碑」がある。関東大震災のあと、官憲と一般市民とが、朝鮮人、中国人、社会主義者たちを虐殺した。上からのデマも、野獣のような故なき憎悪もあった。現在のヘイトスピーチにも重なるこのおぞましい行為は、東京から避難する者たちとともに、埼玉や千葉や栃木といった関東圏に拡がっていった。

碑の裏側には、こう刻まれている。「1923年関東大震災の時 東京から逃れて来た 韓国朝鮮の人々を 前々から住みつき暮していた人々を 虐殺したのであります 埼玉県で約240名 尊い命が失われました このことを忘れないように ここに痛恨の碑をたてました 丸木美術館」

加藤直樹『九月、東京の路上で』によれば、埼玉県も「不逞鮮人」に備えよという通牒を発し、デマにお墨付きを与えたという。同書では、埼玉県内で殺された朝鮮人の数を、200人を超えるとしている。

●参照
『沖縄・43年目のクラス会』、『OKINAWA 1948-49』、『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』
平和祈念資料館、「原爆と戦争展」、宜野湾市立博物館、佐喜真美術館、壺屋焼物博物館、ゆいレール展示館
『魯迅』、丸木位里・丸木俊二人展
過剰が嬉しい 『けとばし山のおてんば画家 大道あや展』
佐喜眞道夫『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』
高良勉『魂振り』
加藤直樹『九月、東京の路上で』


ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向かって撃て!』

2014-07-13 06:25:33 | 北米

ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向かって撃て!』(1969年)を観る。アメリカン・ニューシネマの名作だが、わたしにとってはリアルタイムの映画ではない。とは言っても、1990年くらいにレンタルヴィデオで観て以来。

ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロス、それぞれのキャラクター作りがハマっていて、みんなが好きになってしまう。

ブッチ・キャシディ=ニューマンは、頭脳明晰で、いつも余裕たっぷりに冗談を口にする。しかし、実は、「人を撃ったことがない」。サンダンス・キッド=レッドフォードは豪放で弱いところは見せない。しかし、保安官たちに追いつめられて崖から川に飛び込まざるを得ないとき、実にバツの悪い顔をして、「俺は泳げない」。エッタ=ロスは、自立していて、可愛くて、セクシー。

時代は19世紀末、米西戦争のとき。旧時代の権力であるスペインは、アメリカに敗れ、カリブ海やフィリピンでの支配権を失うことになる。ブッチやサンダンスも、自らを旧世代の消えゆく存在だと認めつつ、それに抗って個性を振りまいている。ちょうど、サッカーのワールドカップにおいて、古いシステムでの強さを妄信したブラジルチームに重ねあわせてしまったりして。


宮城鷹夫『時代の風音 笑い流しの「落穂拾い」』

2014-07-12 18:47:20 | 沖縄

丸木美術館への行き帰りに、宮城鷹夫『時代の風音 笑い流しの「落穂拾い」』(ボーダーインク、2014年)を読む。

著者は沖縄生まれのジャーナリスト。台湾で皇民化教育を受け、戦後沖縄に引き揚げてきて、民政府の広報係を経て沖縄タイムス記者になった人である。現在、90余歳。

本書は、さまざまな体験や思い出話を、まるでそのあたりで軽く雑談をするように披露したエッセイ集である。思いつくまま、話題はあっちこっちへと飛ぶ。それぞれの話が面白く、もし直接に聴いていたなら、えっそれはどういうことですか、と訊ねていたに違いない。

かつての男女の遊興の場である「毛遊び(モーアシビー)」なんて、当事者ならえらく興奮していたんだろうな。闘牛の前には、「ウマウィー」という馬勝負があったらしい。など、など、興味津々。


デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』

2014-07-12 08:45:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(Headless Hawk、2008年)を聴く。

David Murray (ts, bcl)
Lafayette Gilchrist (p)
Jaribu Shahid (b)
Hamid Drake (ds)

スコットランドでのライヴのFM放送音源であるようで、音質は臨場感もあって良い。演奏には、特筆すべき点はない。というと貶しているようだが、そうではなく、いつもの好調のマレイを聴くことができるという意味である。これも、作品化を前提としない、いつもの延長の「Black Saint Quartet」なのだろう。

マレイは、相変わらず、ちょっとコードから外れたような音で、上滑りのソロを繰り広げる。フラジオを多用して高音を展開し、そこから下まで戻ってくるところなんて、マレイの手癖そのもので、聴いていて実に嬉しくなる。そして、サイドメンも絶好調。

本当に、また新宿ピットインに来てほしい。確実に、あの空間が狂乱の渦に巻き込まれる。

●参照
デイヴィッド・マレイ『Be My Monster Love』、『Rendezvous Suite』
デイヴィッド・マレイ・ビッグ・バンド featuring メイシー・グレイ@ブルーノート東京
デイヴィッド・マレイ『Live in Berlin』
デイヴィッド・マレイ『Saxophone Man』
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』
マッコイ・タイナーのサックス・カルテット
デイヴィッド・マレイのグレイトフル・デッド集
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』


佐喜眞道夫『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』

2014-07-11 23:04:25 | 沖縄

佐喜眞道夫『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』(岩波ブックレット、2014年)を読む。

沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館は、普天間飛行場の一部を返還してもらって建てられている。そのこと自体に非常に大きな価値と意義があるのだが、本書には、その経緯が書かれている。読んでみて驚いた。ここは、佐喜眞さんご自身が地主の土地なのであり、米軍に勝手に占拠された先祖の土地を、個人としての交渉によって取り戻したのだった。その際の敵は、米国ではなく、日本にあったのだという。むべなるかなという印象である。

佐喜眞美術館は素晴らしい場所だ。ジョルジュ・ルオーやケーテ・コルヴィッツのコレクションもさることながら、最大の目玉は、丸木位里・俊夫妻による「沖縄戦の図」である。この巨大な闇のような絵には、いわゆる「集団自決」によって、多くの者が肉親を殺す地獄が描かれている。これを前にした者は息を呑み、凝視を余儀なくされる。そして、美術館自体が、この絵を展示するためにつくられたようなものでもあったのだ。

薄いブックレットではあるが、他では聞けない話と意志とが詰まっている。


佐喜眞美術館の屋上から見る普天間(2007年) Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●参照
佐喜眞美術館の屋上からまた普天間基地を視る
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
平和祈念資料館、「原爆と戦争展」、宜野湾市立博物館、佐喜真美術館、壺屋焼物博物館、ゆいレール展示館
藤井省三『魯迅』(コルヴィッツと魯迅)
基地景と「まーみなー」
<フェンス>という風景
『けーし風』 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館


中島岳志『中村屋のボース』

2014-07-10 23:38:16 | 南アジア

中島岳志『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社、原著2005年)を読む。

ラス・ビハリ・ボース。イギリス支配に抵抗してインド独立運動を展開し、本国に居ることができなくなり、第一次世界大戦直後の日本に亡命した人物である。官憲から逃れ、中村屋にかくまってもらったことが、この店における「インドカリー」誕生のきっかけにもなった。

本書は、ボースの生涯を詳細に検証する。インド独立に向けたかれの熱い思いと、矛盾に満ちた言動の変遷を追っていくと、まさに、近代日本が掲げたアジア解放が欺瞞そのものであり、アジア侵略に他ならなかったことがよくわかる。

ボースの敵はイギリスであった。そして、日本は、列強に抗して急速に権力を獲得していきつつある国であった。ボースが夢見て自分のヴィジョンを重ね合わせたのは、インド独立そのものにではなく、日本に、であったのだ。

頭山満大川周明ら当時のアジア主義者たちに加え、孫文とも接触していたボースは、やがて、日本の軍部や軍事政権の動きを是とし、日本の侵略活動をインド独立の手段として利用するようになっていく。しかし、それは、根本的な矛盾を孕んだものであり、また、帝国主義の日本の傀儡として受けとめられるようにもなる。(なお、A.W.ナイルも、ボースと同様に、日本の満州侵略を肯定する。)

今から冷徹に見れば痛々しいほどの誤ちだったが、このことは、日本におけるアジア主義が、理想的なものから、思想を欠いた侵略者のものまで幅広く、未成熟な運動であったことを如実に示すものに他ならないだろう。その点で、著者は、頭山満らの玄洋社・黒龍会の運動を、思想ではなく、心情に立脚したものであったと手厳しい評価をくだしている。

アジアを視る目にも、いろいろあったのである。そのことは現在でも本質的には変わらない。

●参照
中島岳志『インドの時代』
水野仁輔『銀座ナイルレストラン物語』
尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』(ボースと山中峯太郎) 


アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』

2014-07-10 06:22:50 | アヴァンギャルド・ジャズ

アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(eremite、2000年)という、豪華な面々による録音を見つけた。

Marchall Allen (as)
Hamid Drake (ds)
Kidd Jordan (ts)
William Parker (b)
Alan Silva (b)

この場に居合わせたなら、1時間以上、興奮してしまうのかもしれない。

フリーキーな音色で叫んだりやめたりするマーシャル・アレンのアルトも、木質の肌触りのような質感を感じるキッド・ジョーダンのテナーも悪くはない。ただ、ある即興演奏のセッションの断面である。もちろん、プロセスの記録が「作品化」より悪いわけではないが、どうしても、垂れ流しで聴くだけになってしまうのは、缶詰音楽だからか。

ベースふたりのうち、芯が太くて中心に居座るのはウィリアム・パーカーだろうね。いつもながら、音楽全体の駆動力を感じる。

●参照
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』
ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』
ダニエル・カーター『The Dream』、ウィリアム・パーカー『Fractured Dimensions』
ウィリアム・パーカー、オルイェミ・トーマス、ジョー・マクフィーら『Spiritworld』
ウィリアム・パーカー『Luc's Lantern』
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色
ジョー・ヘンダーソン+KANKAWA『JAZZ TIME II』、ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』
アンダース・ガーノルド『Live at Glenn Miller Cafe』
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(キッド・ジョーダン)
サン・ラの映像『Sun Ra: A Joyful Noise』(マーシャル・アレン)


チャーリー・パーカーが住んだ家

2014-07-09 05:56:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

ニューヨークのイースト・ヴィレッジに、チャーリー・パーカーが1950年暮れから1954年10月まで住んだ家がある。住所は「151 Avenue B」。

近くの「Whitmans」でハンバーガーを食べて、ついでに場所を訊ねた。(本人は知らなかったが)すぐにネットで調べ、2ブロック先を左折して1ブロックのところだと教えてくれた。トンプキンス・スクエア・パークを抜けたところの通りは、「CHARLIE PARKER PLACE」と命名されている。

教わった場所の角にある果物店の男に訊いてみると、ああそこだよと目の前のビルを指差す。何だかおかしいと思いつつ観察して、Wi-fiが使える場所に戻って調べてみたところ、やっぱり違う。適当なこと言うなよ!

気を取り直し、駅からあらためて戻った。実際には、その2つとなりにあった。

バードが、妻のチャンと暮らしたのは、「ground floor」、この建物でいえば半地下(正面玄関があるのは「first floor」)。1994年には、アメリカ内務省によって「歴史的な場所」として登録されており、建物にも2つの銘板が貼られている。いまは誰も住んでいないようだった。

北側から家の方に向かう

すべて、ライカM4、Zeiss Biogon 35mm F2.0、Fuji 400H

●参照
THE CHARLIE PARKER RESIDENCE