Sightsong

自縄自縛日記

高見勝利『憲法改正とは何だろうか』

2017-05-18 23:49:43 | 政治

高見勝利『憲法改正とは何だろうか』(岩波新書、2017年)を読む。

日本国憲法を改正するためには、衆参各院で議員の3分の2、その後に国民投票に持ち込んで過半数の賛成を必要とする(第96条)。政権与党の力が歪に強くなっている今、ここぞとばかりに憲法改正の動きが再燃しているわけだが、このプロセスが高いハードルであることは間違いない。

そう簡単には改正などできないことに関しては長い議論や模索があって、法と主権者との関係や統治のあり方についての考え方によって、憲法の位置づけも変わってきた。日本国憲法の制定においても紆余曲折があった。しかし、立憲主義の憲法は通常の法とは異なり、憲法の自殺行為とも言うべき根本原則の変更には大きな制約が課せられる。

その観点から、著者は、自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年)に強い危惧を抱いている。例えば、第13条の「個人」を「人」に言い換えることを、前近代の社会的圧力により自我が抑圧された時代に戻すものとする。もちろんそれだけではない。根本には、権力分立原理が欠如しており、また、「憲法が権力を縛る」ことも否定する考え方がある。著者は、それを権力の濫用だとみなす。そしてまた、憲法改正自体が自己目的化しているのだと指摘する。

「このような「憲法改正」それ自体を「選ばれし者」のいわば「召命」とする為政者が、いまわが国を支配しているのである。改正内容、改正がもたらす「結果」をなんら顧慮しない危険きわまりない改憲論者である。」

●参照
古関彰一『平和憲法の深層』


ノア・ハワード『Live at Documenta IX』

2017-05-18 00:20:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

ノア・ハワード『Live at Documenta IX』(Megadisc、1992年)を聴く。

Noah Howard (as, ts, vo)
Michael Joseph Smith (p, key)
Jack Gregg (b)
Chris Henderson (ds)

何か褒めようと思っても何も出てこない。サックスの音はときにペラペラだったりするし、フレージングはワンパターンだし、新鮮な展開なんてまるでないし。すごくダサいところも多いし。敢えて言えば、それゆえの哀切な切迫感とか悲壮感とか。

それでも今日も今後もわたしはノア・ハワードを聴くのだ。

●ノア・ハワード
ノア・ハワード『Live at the Swing Club』
(1974年)


山崎比呂志 4 Spirits@新宿ピットイン

2017-05-16 00:29:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ピットインにて、山崎比呂志 4 Spirits(2017/5/15)。前々から楽しみにしていたし、このグループでテナーを吹くレイモンド・マクモーリンからも来るのかとのメッセージ、仕事でへろへろに疲れていたが駆けつけないわけにはいかぬ。

Hiroshi Yamazaki 山崎比呂志 (ds)
Raymond McMorrin (ts)
Naoki Kosaka 小坂直輝 (p)
Yutaka Kaido カイドーユタカ (b)

ファーストセット。まずはテナーのイントロから全員の音空間を探るように「I Hear a Rhapsody」。決して時空間を塗りつぶそうとはせず、むしろ、隙間が多いサウンドが新鮮である。「All Blues」、マイルス・デイヴィスのスマートな演奏とは異なり臭いブルースが良い。派手なテナーのカデンツァ、「The Shadow of Your Smile」も思わせたが全員のテーマに入ると「Body and Soul」であるとわかる。そして走る「Take the Coltrane」、小坂さんのピアノが見事。

セカンドセット。「All the Things You Are」では、テナーのイントロにピアノが丁寧に合わせてゆく。「In a Sentimental Mood」を経て、レイのオリジナル「Spiritual Journey」、ここにきて山崎さんがエンジンをふかしまくる。アンコールに応えて「Mr. P.C.」。

山崎さんのドラムスの音数は決して多くない。剛腕でも超高速でもない。音響系なんぞでもない。しかし、実に味があるのだ。シンバルの音なんて七色である。かつて大下剛史は、先発から外され不遇のときを過ごしていたジャイアンツの桑田真澄のことを、言わざるを得ないように、味のあるピッチャーだ、勿体ない、と繰り返した。

●レイモンド・マクモーリン
レイモンド・マクモーリン@Body & Soul(JazzTokyo)(2016年)
レイモンド・マクモーリン@h.s.trash(2015年)
レイモンド・マクモーリン『RayMack』、ジョシュ・エヴァンス『Portrait』(2011、12年)

●カイドーユタカ
本多滋世@阿佐ヶ谷天(2016年)
AAS@なってるハウス(2016年)
旧橋壮カルテット@新宿ピットイン(2014年)


徳永将豪+中村ゆい+浦裕幸@Ftarri

2017-05-15 07:39:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

水道橋のFtarri(2017/5/14)。

徳永将豪 (as)
中村ゆい (voice)
浦裕幸 (recording, composition)

ファーストセット、中村ゆいソロ。真っ暗にした空間で声が生起する。じっと目を凝らしていると姿がおぼろげに視えてくる。聴覚も同様に、センサーを集中させることによって知覚することがわかる。

セカンドセット、徳永将豪ソロ。アルトによって十秒くらいの音が発せられ、待機し、また発せられる。出されてしまった音と、出している音とのせめぎ合い。周波数を収斂させ、持続させ、複数のそれによりうなりを生成させる、その欲望と抑制。増幅過程の可聴化。

サードセット、デュオ。ふたりの手元には数十葉のA5用紙が重ねてあり、それらの真ん中には何かのワードが書かれている。それを順番にめくっては、ワードを視て、即興を行う。そのような作曲であるようだった。これもまた過程の意味を問い直すものに思えた。

さらに終了後、徳永さんの15分か20分くらいの録音を2本。音の選択と増幅を体感すると、当方の脳のどこか特定部分が反応するようだった。


ジョージ川口『Plays Herbie Hancock』

2017-05-14 10:04:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョージ川口『Plays Herbie Hancock』(King Record、1987年)を聴く。

George Kawaguchi ジョージ川口 (ds)
Terence Blanchard (tp)
Donald Harrison (as, ts, bs)
Hideo Ichikawa 市川秀男 (p)
Cyrus Chestnut (p)
Takashi Mizuhashi 水橋孝 (b)

何も和ジャズでレアグルーヴでといった代物ではなく、80年代ジャズの匂いがぷんぷんするサウンド。特にアメリカの3人は出てきて勢いがあった頃であり、かれらを日本のヴェテランが起用する面白さを狙った作品ということである。うわなんじゃこれという目新しさや鮮烈さは無い。

とは言っても、なかなか聴き所があって面白いのだ。ジョージ川口はいかにもジョージ、遮二無二、どうだとばかり叩きまくり、特に「The Eye of the Hurricane」なんて押されまくる。昔のプロ野球の映像を観ているような感覚。

テレンス・ブランチャードも巧くて良いのだが、やはり個人的にはドナルド・ハリソン。特に「Watermelon Man」や「Maiden Voyage」でのソロなんて、じんわりと味が滲みだして大好きである。これは昔も今も変わらないキャラに違いない。ふたたびテレンス・ブランチャードのように大舞台に戻ってきてほしいが、かれのようにトレンド的にウケることなんてしないんだろうな。

●テレンス・ブランチャード
テレンス・ブランチャード『Breathless』(2015年)
テレンス・ブランチャード『Magnetic』(2013年)

●サイラス・チェスナット
サイラス・チェスナット『Earth Stories』、最近の演奏(1996年-)

●水橋孝
ジョージ大塚『Sea Breeze』(1971年)

●市川秀男
ジョージ大塚『Sea Breeze』(1971年)
菊地雅章『POO-SUN』(1970年)


キャサリン・シコラ『Jersey』

2017-05-14 08:40:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

キャサリン・シコラ『Jersey』(Relative Pitch、-2016年)を聴く。

Catherine Sikora (ts)

ずいぶんとシャギーでエアを横漏れさせるテナーである。ゆったりとして繰り出される倍音の数々も気持ちがよい。

独白的なソロというのか、抒情的でありながら切迫感がなく、この脱力加減はロル・コクスヒルを思わせる。


スコット・アメンドラ@Cotton Club

2017-05-13 23:59:01 | アヴァンギャルド・ジャズ

丸の内のCotton Clubに足を運び、スコット・アメンドラ(2017/5/13)。

以前このあたりで働いていたときにはTOKIAまで行くのが億劫だったが、いまは大手町からKITTEを通り抜けて地下で行くことができて、とても便利になっている。

Scott Amendola (ds)
Nels Cline (g)
Jeff Parker (g)
Jenny Scheinman (vln)
Chris Lightcap (b)

スコット・アメンドラのドラムスは、冷たくシャープに研ぎ澄まされていながらも暖かくもあり、この一騎当千のメンバーを笑顔で統率していた。

強力ツインギターがネルス・クラインとジェフ・パーカー。クラインはシームレスなソロと、大気に蜃気楼をつくり出すようなアンビエント感あふれるサウンド。一方のクラインは重心がもっと土地に近く、抑制気味ながら、クールなソロを繰り出した。そしてジェニー・シェインマンのヴァイオリンは人間くさく、ときに指で弾いてギターふたりを挑発した。

今回、実はクリス・ライトキャップが目当てだったのだ。かれのベースは、やはりCDで聴いた印象の通り、変に周辺にぶつかり火花を散らすようなものではなく、柔らかで気持ちいいものだった。

バンド全体のサウンドは、現代ジャズでもあり、古いロックやカントリーやフォークのテイストもあった。それは各メンバーの音がクリームのように溶け合っていたからなのだが、ライトキャップの柔らかさが溶媒の役割を果たしていたのかもしれない。

●クリス・ライトキャップ
クレイグ・テイボーン『Daylight Ghosts』(2016年)
『Plymouth』(2014年)
クリス・ライトキャップ『Epicenter』(2013年)

●ジェフ・パーカー
イルテット『Gain』(2014年)
ジョシュア・エイブラムス『Represencing』、『Natural Information』(2008-13年)


東陽一『沖縄列島』、『やさしいにっぽん人』

2017-05-13 22:38:38 | 沖縄

早稲田松竹において、「沖縄返還から45年、映画のなかの沖縄」と銘打って、4本の映画を上映している。そのうち、東陽一の2本を観るために、朝から張り切って足を運んだ。なお他の2本は、大島渚『夏の妹』と高嶺剛『ウンタマギルー』。どちらも傑作ゆえ時間があれば再見したいところ。

東監督は、のちの2004年には『風音』を撮り、ふたたび沖縄を舞台としている。いずれも決して先鋭的とは言えないのだが、職人的で熱い想いは伝わってくる。この2本も見どころは少なくなかった。

『沖縄列島』(1969年)

施政権返還前の沖縄をとらえたドキュメンタリーである。敢えてストーリーを意識しないつくりになっている。

コザでは、米兵におカネをもらえず激怒する売春婦。嘉手納空軍基地からは、ベトナムに向けてB52が爆音とともに離陸している。ダイバー3人は、原潜からの放射性物質を含んだ排水を浴びて体調を崩した。西原村(現・西原町)では、自民党の立てた候補をやぶり、革新系の村長が当選。

勝連半島の先にある平安座島には働き口がない。干潮のときに、砂糖黍の搬送のため本島との間でトラックが行き来するが、海水で1年でダメになる。ここと、隣の宮城島に、米国ガルフ・オイル社(のちにシェブロンに合併)が石油備蓄基地(CTS)を作る計画が出てきた。宮城島の人口は4,000人、だがCTSで雇用するという約束は300人、150人、100人とだんだん減ってゆく。関係者は、それでは受け入れられないと話す。(なお、CTS工事は翌年着工された。)

石垣島のパイン工場では、台湾の女工が多く働く。それは台湾よりも沖縄に働き口を求めてのことだが、それでも、給料は沖縄人よりも安い。そして伊江島では、阿波根昌鴻さんが登場する。

もちろん半世紀近く前のことゆえ現象も状況も異なるのだが、根っこの社会構造は変わっていない。驚きはない。

映画が終わった後に、東陽一監督が登壇し、あれこれとこの映画のことを話した。東さんは、基地問題や社会問題を形として描くのではなく、ひとりひとりを個人として見たかった。石垣のパイン工場における台湾女工を撮るとき、ニュース映像と何が違うのかと自問自答し、しゃがんでみた。そこには、女工が疲れて足をくの字にしている姿があった。のちに自主上映したとき、観客から、このシーンについて「もののあはれ」だと指摘され、仰天したのだという。

『やさしいにっぽん人』(1971年)

前作と異なり劇映画である。

主人公(河原崎長一郎)は、記憶にはないものの、幼少時に渡嘉敷島においていわゆる「集団自決」を体験している。そのせいなのか、沖縄出身ゆえの他の理由があるからなのか、あるいは社会運動家にして神戸で狂死した謝花昇と同じ苗字を持つことが影響しているのか、「謝花」ではなく読み間違われがちな「シャカ」と名乗っている。かれは屈折し、警察官に理不尽に殴られようと、はっきりした態度をとることができない。それを見抜くような、恋人(緑魔子)。

ストーリーはあってなきがごとしだが、いわゆる「集団自決」については、その本質が強制集団死であることをしっかりと描いている。沖縄タイムスが『鉄の暴風』を発刊したのが1950年のことであり、その内容はすでに「本土」にも伝わっていたということか。

それにしても緑魔子が魅力的。トークショーでは、東監督は驚くべきことを明かした。女優を決めておらず、新宿の街場で見つけようと思い、ずっと観察していた。そして目の前でまさに相応しい人が通り過ぎたため、後をつけて(あぶない人)、彼女が入っていった劇場の事務所を訪ね、シナリオを渡してきた。それが緑魔子であり、後日、本人が電話をかけてきて「わたし、この映画に出ます」と断言したのだとか。

ところで、河原崎長一郎は、浦山桐郎『太陽の子』(1980年)にも主演している。やはり沖縄を主題にした映画だが、何か本人の中で連続するものはあったのかどうか。


山内桂+マーティン・ヴォウンスン『Spanien』

2017-05-13 01:18:42 | アヴァンギャルド・ジャズ

山内桂+マーティン・ヴォウンスン『Spanien』(Jvtlandt、2010年)を聴く。

Katsura Yamauchi 山内桂 (as)
Martin Vognsen (dobro)

ここで聴くことができるサックスは、管を吹き共鳴させるものではない。息遣い、タンポの叩く音、ちょっとしたことでそこかしこから発せられる微かな音、それらが増幅されている。 いや物理的にはそれも共鳴ではある。通常であれば吹く音によってかき消されてしまう音のみが、表現として浮上する。

当然、大きなものをさらに増幅する音と、微かなものを過剰に増幅する音とは大きく異なる。聴いていると、リアルタイムの音ではなく、過去の音がどこかで乱反射して幽霊のように現れたようだ。そのように時間を忘却させられる音が、リアルタイムのギターの弦により擾乱せられ、まるで覚醒するかのような印象を持つ。


ドリス・レッシング『なんといったって猫』

2017-05-12 07:34:44 | ヨーロッパ

ドリス・レッシング『なんといったって猫』(晶文社、原著1967年)を読む。

軽い気持ちで古本屋で手に取ったのだが、中身はそうライトではない。もちろん愛玩される猫がいれば、汚い猫、憎まれる猫、顧みられない猫もいる。著者の幼少時の記憶は、怖ろしいことに、猫の処分(というより、殺戮)に直接結びついている。

それでも著者は猫を飼っている。いや飼っているというよりは同居している。そして可愛がると同時に憎み、対話し、闘っている。特に、話の中心となる灰色猫と黒猫のアイデンティティや生存競争についての仔細な観察を読んでいると、怖ろしくもあり、愉快でもあり、不快でもあり。

ジャック・デリダは、単数形の記号として扱われる<動物>というものの姿を書いてみせたが(『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』)、ここでのレッシングの心根は、それとはまったく正反対のものだった。


『浅川マキを観る vol.3』@国分寺giee

2017-05-12 00:32:42 | アヴァンギャルド・ジャズ

国分寺gieeにはじめて足を運び、山崎幹夫監督による浅川マキの映像上映会(2017/5/11)。池袋の文芸座ル・ピリエにおける1988年2月の1か月間連続ライヴの記録である(正確には、2/15のみ休演)。

この日の上映は、2/1(本多俊之)、2/6(日野皓正)2/7(泉谷しげる)、2/17(坂田明、渋谷毅、セシル・モンロー)。

山崎さんによれば、この時期は、マキさんが目を病んで声も出なくなっていた頃であり、よく1か月間もそんなときにやったものだ、と。山崎さんはマキさんに請われ、昼間の仕事を終えたあとにヴィデオカメラを持って、文芸座ル・ピリエに何度も通ったというのだった。当時のヴィデオカメラは20分撮りのテープであり、演奏の途中で終わってしまうことがしばしばだったという。

やはりマキさんが登場すると、存在感に息を呑む。若さに勢いをまかせたような本多俊之のアルトサックスを横目に、「あの男がピアノを弾いた」を呟くように歌う。そして「ネオン輝く日々」。6日のセッションでは、いかにものヒノテルやりたい放題をバックに、「暗い目をした女優」、「あなたに~You Don't Know What Love Is」、それから「La Valse - 女たちのボレロ」か。

ところで「暗い目をした女優」の歌詞には、ミシェール・モルガンという女優の名前が出てくる。どうやらマキさんは石川県の郷里でなんどもモルガンの出る映画を観ていたらしい。山崎さんはモルガンについて調べ、50年代の映画に出ていたのだと知った。当時の映画雑誌を持ってこられたのだが、確かに、さほど「暗い目」ではない。マキさんの記憶にはそのように刷り込まれていたのかもしれない。

2/7のセッションでは、泉谷しげるとの異色なデュオ。泉谷さんはギャラを受け取ることを断固として拒否したという。2/17の映像では、セシル・モンローとのデュオで、マキさんが「夜が明けたら」を歌う。私がマキさんのライヴを観始めた95、6年ころには、すでに、ライヴのはじまりはそのデュオであった。懐かしくて身動きが出来なくなる。そして坂田明が入り「あの男がピアノを弾いた」、「貧乏な暮らし」、さらに渋谷毅が入り「マイ・マン」。

今回もまたとない上映会だった。また、はじめての国分寺gieeで、あの人やあの人やあの人とお話ができて、とても嬉しい時間だった。

●参照
浅川マキ『Maki Asakawa』
浅川マキの新旧オフィシャル本
『浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンド -bootlegg- 』
『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』
浅川マキが亡くなった(2010年)
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演、2002年)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』(1998年)
『山崎幹夫撮影による浅川マキ文芸座ル・ピリエ大晦日ライヴ映像セレクション』(1987-92年)
浅川マキ『アメリカの夜』(1986年)
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』(1985年)
浅川マキ『幻の男たち』 1984年の映像
浅川マキ『スキャンダル京大西部講堂1982』(1982年)
浅川マキ『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏家たちのOKをもらった』(1980年)
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』、1980年)
浅川マキ『灯ともし頃』(1975年)
『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ(1973年)
宮澤昭『野百合』(浅川マキのゼロアワー・シリーズ)
トリスタン・ホンジンガー『From the Broken World』(浅川マキのゼロアワー・シリーズ)


サルガヴォ@本八幡cooljojo

2017-05-11 07:24:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

本八幡cooljojo、サルガヴォ(2017/5/10)。

Salle Gaveau:
Natsuki Kido 鬼怒無月 (g)
Yoshiaki Sato 佐藤芳明 (accordion)
Keisuke Torigoe 鳥越啓介 (b)
Masaki Hayashi 林正樹 (p) 

各メンバーのオリジナルと、「La Cumparsita」、ピアソラの「Escualo」「Libertango」といったタンゴ。

鬼怒無月・林正樹の透明感ある音に、佐藤芳明の濁ったアコーディオンと鳥越啓介のベースが重なる。切なくもあり、動悸動悸するほどの疾走感もある。

それにしても観客の女性比率が半端なく高い。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4


ウィントン・ケリー+ウェス・モンゴメリー『Smokin' in Seattle』

2017-05-10 00:02:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

ウィントン・ケリー+ウェス・モンゴメリー『Smokin' in Seattle』(Resonance Records、1966年)を聴く。何しろ話題の発掘盤、LPで入手した。

Wes Montgomery (g)
Wynton Kelly (p)
Ron McClure (b)
Jimmy Cobb (ds)

有名な『Smokin' at the Half Note』が1965年6月、本盤が翌1966年4月。ベースはポール・チェンバースからロン・マクルーアに変わっている。

同じ曲といえば、「What's New」、しかし本盤ではこれだけ妙なエフェクトがかけられていていまひとつ。それから「If You Could See Me Now」は、ハーフノートのライヴと違い、本盤ではピアノトリオであり、リズムも少し違う。しかしこれはこれで良い。ポール・チェンバースのベースは安定感があったのだな、と、居なくなって実感。

「West Coast Blues」はハーフノートではなく『The Incredible Jazz Guitar of Wes Montgomery』で演奏していて、ノリのケリーと、上品に跳ねるトミー・フラナガンとのピアノの違いが面白い。本盤のB面最後の曲は「Oleo」であり、これもまた気持ちいいグルーヴがあるのだが、残念ながら、急に終わってしまう。

ともかく、ハーフノートと比較してどうだろうと思ったのだが、さすがにウィントン・ケリーにウェス・モンゴメリー、悪いわけがない。間違いようのないウェスの太くあたたかいギターも大好きなのだ。録音も良いし、ノリノリである。

●ウェス・モンゴメリー
パット・マルティーノのウェス・モンゴメリー集(2006年)
ウェス・モンゴメリーの1965年の映像
(1965年)


ムハール・リチャード・エイブラムス feat. マラカイ・フェイヴァース『Sightsong』

2017-05-09 21:18:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

ムハール・リチャード・エイブラムス feat. マラカイ・フェイヴァース『Sightsong』(Black Saint、1975年)。昔からCDを愛聴しており、本ブログの名前も拝借したほど好きである(名前の駄洒落でもあるのだが)。最近、LPのオリジナル盤を見つけ、わがものにした。

Muhal Richard Abrams (p)
Malachi Favors (b) 

こうして改めて聴いてみると、やはりヴァイナルは良い。音楽史を凝縮し、その放出に際してきらめくようなムハールのピアノも、柔らかくたまらない魅力を放つマラカイのベースも、本当に素晴らしい。

これが名盤たりえているのは、ともすれば自由へと向かって発散してしまうふたりのプレイに対し、短い曲という制約を課したことも理由かもしれない。わたしにとっての白眉は、チコ・フリーマンやグレッグ・オズビーもカバーした「Two over One」。

●ムハール・リチャード・エイブラムス
「JazzTokyo」のNY特集(2017/2/1)
ジャック・デジョネット『Made in Chicago』(2013年)
ムハール・リチャード・エイブラムスの最近の作品(1998、2005年)
『Interpretations of Monk』(1981年)
ハミエット・ブリューイット+ムハール・リチャード・エイブラムス『Saying Something for All』(1977、79年)
ヘンリー・スレッギル(3) デビュー、エイブラムス(1962-77年)

●マラカイ・フェイヴァース
マラカイ・フェイヴァース『Live at Last』 (2003年)
カヒル・エルザバー(リチュアル・トリオ)『Alika Rising!』(1989年)
ドン・モイエ+アリ・ブラウン『live at the progressive arts center』(1981年)
マラカイ・フェイヴァースのソロ・アルバム(1977年)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『Null Sonne No Point』(1997年)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『カミング・ホーム・ジャマイカ』(1995-96年)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『LUGANO 1993』(1993年)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『苦悩の人々』(1969年) 


北井一夫『写真家の記憶の抽斗』

2017-05-09 07:36:48 | 写真

北井一夫『写真家の記憶の抽斗』(日本カメラ社、2017年)を読む。

本書は、『週刊読書人』における連載(2014-16年)をまとめたものであり、210編の短い文章と写真の組み合わせから成っている。写真は北井さんが若い頃からごく最近のものまで。

こうして通しで読むと、北井さんの衒いのない文章から、人柄や気骨が滲み出てくることが実感できる。驚いてしまうような発言もある。

なぜ25mmレンズを使ったのか。なぜ政治への従属を避けたのか。荒木経惟と東松照明への批判。『村へ』をやめたのはなぜか。中平卓馬と中上健次からの批判。その後の模索と意味。木村伊兵衛。団地。浦安。大阪。中国。道。

●北井一夫
北井一夫『写真家の記憶の抽斗』
『COLOR いつか見た風景』
『いつか見た風景』
北井一夫×HMT『過激派 AGITATORS』(2015年?)
『道』(2014年)
『Walking with Leica 3』(2012年)
『Walking with Leica 2』(2010年)
『Walking with Leica』(2009年)
『北京―1990年代―』(1990年代)
『80年代フナバシストーリー』(1989年/2006年)
『フナバシストーリー』(1989年)
『英雄伝説アントニオ猪木』(1982年)
『新世界物語』(1981年)
『ドイツ表現派1920年代の旅』(1979年)
『境川の人々』(1978年)
『西班牙の夜』(1978年)
『ロザムンデ』(1978年)
『遍路宿』(1976年)
『1973 中国』(1973年)
『流れ雲旅』(1971年)
『津軽 下北』(1970-73年)
『湯治場』(1970年代)
『村へ』(1970年代)
『過激派』(1965-68年)
『神戸港湾労働者』(1965年)
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)(北井一夫出演)
粟生田弓『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』