4月の涙
2009年/フィンランド
同性愛の勧め
総合
80点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
1918年に起こったフィンランド内戦はドイツやスウェーデンの支援を受けた資産家階級の人々が組織した白衛軍と、ソビエト・ロシアの支援を受けた労働者側の人々が組織した赤衛軍の争いになり、白衛軍の兵士たちに捕らえられた後、逃亡兵としての射殺を免れた、赤衛軍の女性兵士のリーダーだったミーナが公平な裁判を受けるために白衛軍の准士官であるアーロに連れられてエーミル判事のいる裁判所へ連れていかれる。
物語はミーナを有罪にするか無罪にするかを巡るアーロとエーミル判事の駆け引きが描かれるのであるが、元々精神病院だったその裁判所のエーミル判事もかなり精神を病んでおり、形式的に裁判を行なうだけで、次々に人々を銃殺刑に処していた。エーミル判事の著書を読んでいたアーロは、実際に会ったエーミル判事に違和感を感じるのであるが、自身の本を読んでくれていたことを知ったエーミル判事はアーロに好意を抱く。
エーミル判事は部屋に閉じ込めているミーナを密かに開けていた穴から監視している。最初は‘覗き’だと思われるその行為は、やがてアーロが彼女を抱いたのかどうかという‘フェティッシュ’として楽しんでいることが明らかになる。さらに確かめるためにエーミル判事は妻のベーアを裁判所まで呼び出す。その夜、3人で宴を催して洗面所へ行ったベーアの後をアーロが追いかけていき、2人きりになる。ベーアとアーロは関係を持つのであるが、慌ててドアを開けて気分悪そうに出てきたアーロを見たエーミル判事はアーロも自分と同じ同性愛者であると誤解することになる。
飽くまでも自分の意志を貫くミーナを救うために、自分が同性愛者の振りをすることでアーロはエーミル判事と一夜を共にして、ミーナの処分を任されることになるが、土壇場になってアーロが所属していた白衛軍が裁判所までやって来る。ミーナを斬殺しようとする仲間をアーロは銃で撃ち、ミーナを逃すのであるが、アーロも他の仲間に銃殺されてしまう。
最後に助かる女性のミーナと子供のエイノのほのぼのとしたシーンは、結局、争っているのはいい年をした大人の男同士であり、大人の男たちに虐げられる女性と子供は迷惑この上ないことを印象付けるが、同国人同士の諍いを収めるためには、普通の愛は機能せず、‘同性愛’という究極の愛こそが解決の唯一の手段であるという非常に実現困難なメッセージが隠されていると思う。
不適切発言の前局長、沖縄で謝罪へ…一川防衛相(読売新聞) - goo ニュース
防衛省の田中聡前沖縄防衛局長の不適切発言問題に関して、2011年12月7日の
毎日新聞に掲載されていた佐藤優の寄稿を一部引用しておきたい。「オフレコにもさまざま
な形態がある。ほんとうに機微に触れる話をするときに、官僚は1対1のオフレコで懇談を
する。田中氏が行ったような約10社が参加するような懇談は、冒頭で『完オフ(完全
オフレコ)です』と言っても、実際はオフレコに参加した記者がその内容をメモにして、会社
に報告することを前提にしている。業界常識においては、縛りの緩いオフレコ懇談だ。
しかも、そのメモが政治家に流出することもよくある。官僚はそれを織り込んだ上で、この
種の完オフ懇談を通じて、政治家にメッセージを流すことがよくある。官僚がオフレコ懇談
を行なうのは、メディアに対する純然たるサービスではなく、省益にとってこのような形態で
情報伝達が役に立つからである。/マスメディアの仕事は、国民の知る権利に奉仕する
ことだ。オフレコ懇談の内容を報道することによって、情報源(並びに情報源が所属する
組織)との信頼関係が崩れ不利益を被るリスクと国民の知る権利への貢献を比較考慮し、
後者の方が圧倒的に重ければ、真実を報道することがマスメディアの職業的良心だ。/
しかも、琉球新報は、不意打ちで報道したのではない。懇談終了後、沖縄防衛局に
オフレコ懇談の内容を報道すると通告した。それに対し、<沖縄防衛局報道室は「(懇談は)
オフレコだ。発言は否定せざるを得ない」とした上で、「(公表すれば)琉球新報を出入り
禁止することになる」と警告してきた>(11月30日琉球新報)。オフレコなので否定すると
いう沖縄防衛局の対応は、誤りだ。オフレコ発言が報じられても事実ならば否定しなければ
ならない。あくまでノーコメントで通すのが筋だ。官僚は、うそをついてはならない。」つまり
“うそをついてはならない”官僚は琉球新報の出入りの禁止を解いてはいけないのである。