MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

残らない“理想”の遺伝子

2012-04-20 00:03:30 | Weblog

橋下市長「理想の上司?市の職員に聞いたら…」(読売新聞) - goo ニュース

 確かにここで言う「理想の上司」という“理想”が曖昧になっているような気がする。私は

とても橋下徹の元で働く気にはなれないが、他の組織に“理想の上司”として橋下徹を

送り込んで、橋下にこき使われている様子を見るのは面白いとは思うから、ここでの

“理想”はあくまでも“他人事”という前提があってこそだろう。それよりも私が残念に

思うことは理想の女性上司1位になった天海祐希がまだ独身でいることで、44歳だから

もう“理想”の遺伝子を残す事も出来ないだろうし、赤の他人ながら勿体無いと思ってしまう。


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『上意討ち -拝領妻始末-』 100点

2012-04-19 23:57:01 | goo映画レビュー

上意討ち -拝領妻始末-

1967年/日本

ネタバレ

武家社会の中の女性について

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 小林正樹監督が『怪談』(1965年)の次に取り組んだ『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)のテーマは『切腹』(1962年)で扱ったテーマをさらに掘り下げるものだった。
 主人公の笹原伊三郎は武芸の達人であったが、時代は享保、天下泰平の中、彼の武術は名刀の試し切りに甘んじ、会津松平藩の馬廻りに勤しんでおり、その上、笹原家に婿養子として入っていたために妻のすがのご機嫌をうかがうような毎日を送っていた。この時点で既に『切腹』には見られなかった‘女性’の立場が描かれているのであるが、伊三郎の息子である与五郎の嫁のおいちを巡ってさらに‘女性’の微妙な立場が描かれることになる。
 後継ぎを作る道具としか見られない女性のおいちは、婚約者と別れさせられて藩命で主君松平正容の側室にされ、菊千代を生んだにも関わらず、その強気が嫌われて与五郎に託されたのであるが、正容の嫡子である正甫が急死した結果、菊千代が世継ぎとなったために藩主の母となったおいちを再び側室に返上するように命じられるのである。
 この理不尽さに我慢できなくなった笹原伊三郎は与五郎と共に謀反を試みるのであるが、最初に命を投げ出したのは武士ではなく、おいち本人だった。戦から遠ざかっていたために藩側も伊三郎側もお互いになかなか手を出せないまま、側室か与五郎かの選択を迫られたおいちはそばにいた武士の槍の刃で自死したのである。武士よりも武士らしいおいちの最期を見た周りにいた侍たちの動揺ぶりはそうとう酷く、ようやく戦い始めるのであるが、戦の経験が無い与五郎は呆気なく斬殺されてしまい、剣の達人である伊三郎が一人で敵方を始末してしまう。
 与五郎とおいちの娘であるとみを連れて伊三郎は藩の非道を訴えるために江戸に向かうのであるが、親友の浅野帯刀が待っていた。しかし帯刀は簡単に伊三郎に斬られてしまう。いくら武芸に長けていても天下泰平の中で強い人間は大義名分が立てられる者なのであるが、所詮多勢に無勢で、伊三郎は銃殺されてしまい、後に生き残ったのは娘のとみと乳母のきくの‘女性’たちである。そもそも女性が存在しなければ侍は存在しないのであるが、笹原伊三郎というよりも、自らのプロダクションの製作で彼を演じている三船敏郎がちゃんばらを生き生きと披露すればするほど、武芸の形骸化が強調されるのである。


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切腹という“本物”の特番

2012-04-19 17:23:50 | Weblog

紳助さん TV出られる人に戻りたい(日刊スポーツ) - goo ニュース

 2011年10月1日から東京都でも暴力団排除条例が施行されたことがきっかけで

それまで“黒い交際”が噂された芸能人の中でも「密接交際者」の洗い出しが行われた結果

まず最初に島田紳助が“追放”となり、その後も続々と、特に演歌歌手などが芸能界を去る

ような噂だけはあったのであるが、結局は島田紳助のみが芸能界から追われる身となった

理由は、島田紳助にはそれまでも女性や後輩に対する実際の暴力行為があったためで、

会見で「ウソを言っていたら、腹を切ります」と言って存在を否定した暴力団幹部との

ツーショット写真に関して「写真の件だけは僕のミスです。ホンマに記憶になかった」という

釈明は、腹を切ると言い放っておきながら写真を撮られた“記憶が無い”などと言える事は、

やはり政治家になるつもりなのかと疑われても仕方が無く、正確に言い換えるならば

写真が流出するとは思わなかったというだけだろうから、特番でテレビに出演するならば

その時はやはり約束通りに腹を切ってもらいたいと切に願うのである。


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『十一人の侍』 100点

2012-04-18 23:20:39 | goo映画レビュー

十一人の侍

1967年/日本

ネタバレ

仙石隼人の‘見通し’の甘さ

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 館林藩主である松平斉厚が狩りの最中に自身が乗っている馬の前にいた農民を殺してしまうのであるが、そこは館林藩領内ではなく、忍藩領内であったためにたまたまその様子を目撃していた藩主の阿部正由が注意したところ斉厚が矢を射り、その矢が正由の右目に刺さり、まもなくして藩主は絶命する。
 主君の仇を討つために仙石隼人を中心に暗殺部隊が結成されて、松平斉厚の命を狙うのであるが、何故かこの仙石隼人の‘見通し’が甘いのである。例えば、隼人の義理の弟である伊奈喬之助が詳しい事情も知らずに脱藩した隼人を詰り、遊郭にいた斉厚を単独で襲い、返り討ちにあってしまう。当然のことながら喬之助の‘暴走’を隼人は見通していなければならないと思うのであるが、事後に自分の認識の甘さを恥じるだけである。同様に、隼人の妻である仙石織江が、弟の不祥事の責任をとって自害することも隼人は見通せずに事前に止めることが出来ず、さらには水野越前守との話し合いで忍藩の存続が決まったことによる榊原帯刀の、斉厚の暗殺計画の中止の要請を隼人は最終的に受け入れてしまう見通しの甘さを露呈してしまう。
 もちろん見通しが甘いのは仙石隼人だけではなく、微細に隼人たちの行動を敏感に察知しており、嫌がる斉厚を早馬に乗せて館林に向かっておきながら、最後になって豪雨のためであるとはいえ房川で焚火をして休憩をとってしまった、館林藩家老の秋吉刑部にも見通しの甘さはあり、斉厚を仕留める時には刀で突くように部下に言っておきながら、いざラストで自分自身が斉厚と対面した時には、斉厚を切り殺し、まだ生き残っていた刑部に対してはお互いに刀で突くことによる相討ちで、皮肉にもこの見通しの甘かった2人が死んでしまう。彼らの見通しの甘さが個人的な資質によるものなのか、あるいは天下泰平の享保という時代によるものなのかは分からないが、グループに属さない浪人の井戸大十郎だけが生き残り斉厚の首を持って帰るというイメージはグループをまとめるリーダーが(本作が制作された1960年代後半には?)機能しなくなりつつある証明となるであろう。


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緊急情報システムの違い

2012-04-18 00:11:50 | Weblog

北ミサイル発射 公表遅れ検証 藤村・田中両氏が混乱原因(産経新聞) - goo ニュース

 今回の北朝鮮のミサイル発射は、13日の午前7時40分に、防衛省がミサイル発射の

熱源をとらえた米軍の早期警戒衛星情報(SEW)を受信し、7時50分に、統合幕僚長が

田中直紀防衛相に「米軍が飛翔(ひしょう)体を探知したが、ロスト(失探)」と報告し、8時

0分には再び統幕副長が「7時40分、何らかの飛翔体が発射。洋上に落下したもよう」と

報告していたようだが、正式報告後の8時3分に内閣官房の緊急情報システム・エムネット

が「我が国は発射を確認していない」と関係自治体や報道機関に速報していた。不思議な

ことに緊急地震速報はかなり予想をはずしておきながら、結構テレビを通して何度も

流して国民を大騒ぎさせているのに、何故今回のたった一度のミサイル発射の有無に

これほど逡巡したあげく、とりあえずの避難を呼びかけることもないまま、ほとんど意味の

ない事後報告と化してしまったのか 国防の自信の無さを世界に証明してしまった。


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『ドライヴ』 70点

2012-04-17 23:52:13 | goo映画レビュー

ドライヴ

2011年/アメリカ

ネタバレ

クールと狂気の狭間

総合★★★☆☆ 70

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 小さな自動車修理工場で働いている主人公は、天才的なドライビングテクニックを持つが故に、昼は映画のカースタントマンとして、夜は強盗の逃走を請け負う運転手としても働いていた。ライアン・ゴズリングが演じるそのドライバーの寡黙さは、彼が住むアパートの同じ階に住むアイリーンの夫のスタンダードの借金の返済を助けるために襲った質屋から逃げ出してきたスタンダードが撃たれる銃声が轟くまで、この物語の静寂を保つ。
 何の疑いもなくギャングのクックの言う通りに質屋を襲撃したり、無意味にマスクをかぶってニノを溺死させたりする有様はその寡黙さと相まって知性の低さ故の狂気を感じさせるのではあるが、作品冒頭のそつが無い強盗手段の、そのあまりの手際の良さと‘狂気’がマッチしにくく、彼をただの‘クルマオタク’にさせないために却って作品の殺伐とした雰囲気を薄めてしまっているように感じる。


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北朝鮮の客観性のレベル

2012-04-17 00:08:57 | Weblog

北朝鮮のミサイル担当幹部3人 発射失敗後も健在(聯合ニュース) - goo ニュース

 北朝鮮はようやく学んだようだ。ミサイル発射に何度も失敗している理由は、失敗する

たびに開発担当者を粛清してしまい、また最初からミサイル開発をやり直さなければ

ならないからであって、今回北朝鮮の“ミサイル3人組”が健在でいられたという事実は

トップが自国を客観的に見ることができる余裕を持っているという可能性を感じさせる

のではあるが、そのトップである金正恩の、平壌で軍事パレードの際の、ひな壇での

はしゃぎっぷりを見ると、まだ20代の青年であるから仕方がないとしても、父親の

金正日と比較するならば、他国のことながら世界に見られているという、自身を客観的に

見る自覚があまりにも足りないのではないのかと不安を覚えてしまう。


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『マンイーター』 50点

2012-04-16 23:54:02 | goo映画レビュー

マンイーター

2006年/アメリカ=オーストラリア

ネタバレ

興行の‘妙’について

総合★★☆☆☆ 50

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 オーストラリアの国立公園でユネスコの世界遺産に登録されているカカドゥ国立公園を舞台にした本作は、まるで観光のPRヴィデオのように美しい大自然が映し出されるのであるが、それを裏切るかのようなストーリー展開はギャグとして悪くはないとしても、懐かしささえ感じさせるような7メートルの巨大ワニ退治の素朴な物語と画面をいまさら観る価値があるのかどうかは、もちろん個人に委ねられるものであるとしても、寧ろ私には『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督 2010年)と『トロール・ハンター』(アンドレ・オブレダル監督 2010年)を合わせたような2007年公開の本作を今頃密かに上映しているTOHOシネマズの‘魂胆’に興味が向かってしまう。日劇の大スクリーンで上映されるから観るに堪えられるのであり、DVDの鑑賞ならば全く面白くないであろう。
 挿入歌としてThe Paulette Sistersの「Never Smile at a Crocodile」が使われている意味は誰でも分かるのであるが、「Clock」を、類似の発音を有する「Croc(ワニ)」と捉えて、「Rock Around the Croc(ワニに囲まれた‘岩礁’)」として観光客たちの悲劇を暗示させるビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツ(Bill Haley and His Comets)の「Rock Around the Clock」の使い方は絶妙に上手いと思う。


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安易に“買って”しまう民主党

2012-04-16 19:00:05 | Weblog

橋下氏、民主打倒を表明…輿石氏「受けて立つ」(読売新聞) - goo ニュース

 民主党は“買う”のが好きなのかどうか分からないが、4月11日の党首討論においては

自民党の谷垣総裁の「工程表は平成21年衆院選のマニフェストにも付いておりました。

でもマニフェストの主要部分がガタガタになっているわけでしょう。問題点をしっかり反省し、

撤回して、けじめをつけなければ、私は嘘の片棒をかついで増税に賛成するわけには

いかないということは明確に申し上げておきます」という“売り言葉”を、野田首相は

「嘘の片棒を担いで税の話は賛成できないというのは、おかしいんじゃありませんか

民主党の約束がうんぬん、どうのじゃなくて、そういう問題は御党だってあったはずじゃない

ですか。郵政民営化でバラ色になるといってそうなったんでしょうか。そんなことをお互いに

言い合っても政治は前進しませんよ」と“買って”しまい、橋下徹大阪市長の「国民に重要な

情報を隠したまま決断する政治は追放しなくてはならない。維新は民主党と連携しない方針

を固めた」という“売り言葉”を、今度は民主党の輿石幹事長が、「維新の会は政権を打倒

すると明言したわけだから、受けて立つ。政権与党として、エネルギー政策にしても大都市

構想にしても、明確な政策を打ち出して国民に選択していただく」と“買って”しまった。

このようにして敵ばかり作っていって自民党が下野したことを民主党は学んでいないのか。


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『特集:グル・ダットの全貌』 100点

2012-04-15 19:07:04 | goo映画レビュー

特集:グル・ダットの全貌

-年/-

ネタバレ

‘ボリウッド’を超えて

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ムンバイの旧称「ボンベイ」の頭文字である「ボ」と、「ハリウッド」の合成語である‘ボリウッド’と呼ばれる、世界一制作本数が多いはずのインド映画をほとんど観たことはなく、唯一比較的容易にDVDで観ることが出来るインド映画であるサタジット・レイ監督作品が、‘ボリウッド’作品と言ってしまっていいのかどうかは微妙であり、あくまでも大衆娯楽作品として撮られたはずのグル・ダット監督作品を正確に評価する十分な手立てを個人的には持ち合わせていないのであるが、とりあえず感想だけでも書き記しておきたい。
 必ず主人公たちが歌って踊るミュージカルシーンが‘ボリウッド’作品の特徴であり、もちろんグル・ダット監督作品にも挿入されており、実際、グル・ダット監督自らが主演で歌ったり踊ったりしてもいるのであるが、グル・ダット監督作品には様々な要素が取り入れられており、例えば『鷹』(1953年)の登場人物たちの顔へのアプローチや、『55年夫妻』(1955年)の新聞の輪転印刷機とアニータの顔の、あるいは『渇き』(1957年)のヴィジャイの詩集の輪転印刷機とグラーブの顔のオーバーラップや、『紙の花』(1959年)のスレーシュとシャーンティの‘幽体離脱’やグラスの‘ロンド’のシーンなどはロシアフォルマリズムやシュルレアリスムを彷彿とさせる演出であり、風による紙片や布の翻り、タバコの煙や霧、‘スポットライト’と共にミュージカルシーンはそのような多数の演出テクニックの、あくまでも一部でしかないように見え、同じフレーズが繰り返されるその歌詞でさえも歌の‘詞’というよりも‘詩’のように感じられ、例えば、デビュー作の『賭け』(1951年)では本人の気持ちを自ら歌っていただけだったが、『55年夫妻』あたりになると自ら歌う他に、本人のそばにいる、クラブやストリートのミュージシャンに代わりに歌わせたり、‘心内’で歌わせたりと、表現のバリエーションが増えている。
 グル・ダットはジョークを飛ばすことも忘れていない。主人公が、相手の女性が落としたハンカチを拾わされることはしょっちゅうだし、例えば、『55年夫妻』のラストで、主人公のプリーダムの後を追いかけるために飛行場に向かう際に、アニータと友人2人がタクシーに乗るのであるが、フロントガラスの正面の少し斜めから撮られているために、ブルーバックが使用されている背景がズレており明らかに運転している振りをしているだけだとわかるタクシーの運転手に何度も「急いで!」と言って急かせる場面などに破顔してしまう。白黒作品ではあってもアニータが‘青い瞳’の持ち主だとはどうしても見えない。
 グル・ダットは演出だけが傑出しているわけではない。『55年夫妻』では主人公のアニータの、鋭い眼鏡の叔母の、インド社会の実情を反映していない、西洋から学んだだけの‘ウーマンリブ’に対する強烈なアンチテーゼが描かれており〔『55年夫妻』を観た後では、『十四夜の月』(M・サディーク監督 1960年)はイスラム圏の女性の服装である‘ブルカ批判’のようにも見える〕、『渇き』では才能があるのに売れないために誰にも相手にされなかった詩人の主人公のヴィジャイの詩集が、売れた途端に周囲の態度が一変してしまう有様が皮肉を込めて描かれている。最後まで味方をしてくれた母親が突然亡くなり、詩人のヴィジャイの言葉は、最初はインドに対して嘆き、やがては世界に向かい、ついには社会のシステムそのものに及ぶ。ラストでは二束三文で兄たちに売り払われていた自分の詩集のファイルを最初に買ってくれたグラーブを連れてヴィジャイは見知らぬ土地に旅立つのであるが、そのような‘逃げ場’さえ見つからない、才能を失った映画監督が『紙の花』の主人公になる。『渇き』で扱われた‘構造主義’に『紙の花』において映画の撮影カメラそのものを映し出すことで‘ポストモダン’が取って代わる。
 『渇き』の冒頭で主人公の分身のように描かれていた蜜蜂が通りすがりの男によって踏み潰されてしまう。蜜という‘才能’を抱えすぎた詩人が社会の無理解に押しつぶされてしまうというその比喩は、『紙の花』のラストで、社会の‘苦汁’を舐めるくらいならばということで蜜蜂に‘紙の花の庭園’に向かわせ、追いかけてくるシャーンティを置き去りにして、ディレクターズチェアーに着席した後の映画監督のスレーシュの絶命にまで至ると同時にグル・ダット自身が監督業から撤退してしまう。
 デビュー作において「不運を幸運に変えなさい」と主人公のマダンに向かってレエナに歌わせた、映像作家としてのグル・ダットの‘賭け’が本人の予想を超えて困難なものだったことは、マダンの妹の主治医であるラジャニの父親が療養施設を営んでいる裕福な弁護士であり、同時にマダンの雇い主でもあるギャングのボスということで既に‘袋小路’であることが仄めかされているのであるが、「In Search of Guru Dutt」、「A Thirsty for Love」、「Lost of Love」という三部構成の『グル・ダットを探して』(ナスリーン・ムンニー・カビール監督 1989年)の関係者たちの証言からも理解できる。


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