寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

三原市・本郷歩道橋から沼田川を望む

2013年05月30日 | 
本郷橋には若草色の歩道橋下流)が併設されている。私は東詰から中ほど近くまで歩いて先ず南方を眺めた。

本郷橋歩道橋東詰より対岸を望む

本郷橋歩道橋より南方(川面)を望む

沼田川の水量は少なく歩いて渡れそうだ。江戸時代、沼田川は徒歩(かち)渡し(増水時や冬季を除く)であった。旅人は草鞋を脱いで浅瀬をゆっくりと進んだのであろう。私は旧草津川(廃川)の情景を懐かしく思い起こした。

北の景色は非常に絵になる。左が新高山(にいたかやま)、右が高山。JR山陽本線の車窓からは新高山しか望むことができないので、ここまで歩いて来たのだ。三原に浮城が築かれる前は山城が普通の時代であった。

本郷橋歩道橋より新高山(左)と高山(右)を望む

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旧福山港(内港)跡を巡る(その4)

2013年05月30日 | 郷土史
昭和5年(1930)発行の福山市街地図より松浜町周辺を拡大した。赤丸で囲んだ所が「四ツ樋々門」付近で細い水路(汐廻川)が入江とつながっていることがお分かりになるだろう。

松浜町3丁目1の樋門を望む

一方通行の道から広島県道260号を望む

銘板のあった建物の下が松浜ポンプ場(松浜町3丁目1‐52)で南方には橋が架かっている。水路(川)は東川口町・田治米町方面に延びており、中央公園南側を流れる道三川とも少し先で合流する。

松浜ポンプ場

松浜ポンプ場横から広島県道260号を望む

藩政時代、樋門の辺りは深津郡野上村の一部であった。明治31年深安郡野上村となり大正5年(1916)に福山市が誕生する直前は深安郡福山町字野上松ヶ端と呼ばれていた。菅茶山編纂『福山志料』の深津郡野上村の項には詳しい記述がある。

 溝渠
古川 山溜池ヨリ出テ松カ端ニテ海ニ入ル
蕩 多治米村ヨリ出松カ端ニテ海ニ入ル方言ニ汐廻ト云汐廻ニ二ツアリ一ツハ鹽場ニアリ鹽田ノ間々ヘサシクル潮ヲ引メクラスル溝ナリ一ハ塡海所ノ惡水ヲヌキスツルニ潮サシ入トキ蹔閘ヲ閉テ退潮ヲ待ツソノ間ニ滯ル水ヲタクハフル所ナリミナ防海塘ノ内際ニアリコレ蕩ナリ狹長溝ノ如キモノ又池塘ノ如キモノアリ今此字ヲ用ヒテ波塘ニワカツ

これほど町並みが変わっても基礎の部分はしっかり残っている所が福山の面白さだ。自分の足で歩いて地道に確認していくことが正しい歴史認識につながると思う。自虐史観にとらわれた者達(厚顔無恥の団塊に多い)は見るべきものをあえて無視する。そこを平井隆夫さんはサラリと窘めているのである(笑)。私は川口新四国八十八カ所の第八番と第九番の石仏を眺めて広島県道260号との合流点に向かった。

川口新四国八十八カ所・八番・九番石仏

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