淀姫神社参拝を終え側方に回り瀬戸内海を望む。眩しい位に海が青く輝き美しい。対岸の道越町からてくてく歩いて来た甲斐があった。
かつて漁師町だった平地区のダンゴ祭り(毎年8月第1週の土日に開催)が激しいことで有名なのは個人のブログを通して知っていたが、実際に見たことはない。夏の真っ盛りにまたこの地を訪れたいと思う。
淀姫神社と平の祭り
この社には、明治四年に新調されたといわれる父祖四代に亘る古神輿が本殿脇の神輿庫に永らく収まっていた。
併し、うち二体は昭和四十四年八月七日(その年の祭礼日)に福山城の宝物館に奉納され、あとの一体は同じ年に新調した唐破風作りの神輿と共に百年以上の齢を誇るかのように鎮まっている。
そのような事績を持つ神輿は、明治の初期より五十年を経過した大正の頃、平町の祭礼が最とも旺んであったと云われるころに活躍したものである。それは平漁業が打瀬網の興隆期で、一二〇隻の漁船と四〇〇人あまりの乗り子を擁していたので、年に一度の祭礼も漁業者中心の神輿祭りとなり、沖の潮風で鍛えた赤銅色の肌を持つ若者たちは半裸の姿となり、ねぢ鉢巻も、威勢のよい掛け声と共に舁ぎ廻わる神輿の三体廻わし‥‥それは、平独特の祭り風景でもあった。
新調より五十年を経過した神輿は、威勢の良い若者たちが勢い余って他の組の神輿に接触し、よく地面に投げ出した。元が頑丈な作りであった為か?本体はゆるがない。破損の修理も祭礼の直前に大工によって完全に手直していたので、若連中が毎年惜し気もなく投げ出していた。だから「平の投げ神輿」とまで他町から言われたものである。
この祭礼は旧暦七月六日、七日の七夕(タナバタ)祭りと同じ日に二日に亘って行われたので、全たく夏の暑い最中であった。この日、五五〇戸(現在では六五〇戸)の平町全戸では、平独特のだんごを作り町外の縁類にも配った。また七日の午前中には井戸がえ(井戸の掃除)を実施し、そのあと心おきなく、お仮屋に止めた神輿を前日同様に舁ぎ廻わりながら元の神社に還幸するのであった。
(註) 大正年代の一二〇隻の打瀬船は、昭和後期の今日ではその二〇%にも達しない。内海の魚類の減少により大部分が鉄工業に転向を余儀なくされたからである。従って神輿を昔のように喜こんで奉舁する若者は次第に減少している。これも時代の流れと言えよう。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
かつて漁師町だった平地区のダンゴ祭り(毎年8月第1週の土日に開催)が激しいことで有名なのは個人のブログを通して知っていたが、実際に見たことはない。夏の真っ盛りにまたこの地を訪れたいと思う。
淀姫神社と平の祭り
この社には、明治四年に新調されたといわれる父祖四代に亘る古神輿が本殿脇の神輿庫に永らく収まっていた。
併し、うち二体は昭和四十四年八月七日(その年の祭礼日)に福山城の宝物館に奉納され、あとの一体は同じ年に新調した唐破風作りの神輿と共に百年以上の齢を誇るかのように鎮まっている。
そのような事績を持つ神輿は、明治の初期より五十年を経過した大正の頃、平町の祭礼が最とも旺んであったと云われるころに活躍したものである。それは平漁業が打瀬網の興隆期で、一二〇隻の漁船と四〇〇人あまりの乗り子を擁していたので、年に一度の祭礼も漁業者中心の神輿祭りとなり、沖の潮風で鍛えた赤銅色の肌を持つ若者たちは半裸の姿となり、ねぢ鉢巻も、威勢のよい掛け声と共に舁ぎ廻わる神輿の三体廻わし‥‥それは、平独特の祭り風景でもあった。
新調より五十年を経過した神輿は、威勢の良い若者たちが勢い余って他の組の神輿に接触し、よく地面に投げ出した。元が頑丈な作りであった為か?本体はゆるがない。破損の修理も祭礼の直前に大工によって完全に手直していたので、若連中が毎年惜し気もなく投げ出していた。だから「平の投げ神輿」とまで他町から言われたものである。
この祭礼は旧暦七月六日、七日の七夕(タナバタ)祭りと同じ日に二日に亘って行われたので、全たく夏の暑い最中であった。この日、五五〇戸(現在では六五〇戸)の平町全戸では、平独特のだんごを作り町外の縁類にも配った。また七日の午前中には井戸がえ(井戸の掃除)を実施し、そのあと心おきなく、お仮屋に止めた神輿を前日同様に舁ぎ廻わりながら元の神社に還幸するのであった。
(註) 大正年代の一二〇隻の打瀬船は、昭和後期の今日ではその二〇%にも達しない。内海の魚類の減少により大部分が鉄工業に転向を余儀なくされたからである。従って神輿を昔のように喜こんで奉舁する若者は次第に減少している。これも時代の流れと言えよう。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
福山市鞆町の沼名前神社(祇園社)があまりにも有名なため、淀姫神社は陰に隠れた感じだ。しかし、日本神話を読み解く上でこの神社の由緒は重要である。
淀姫神社の鳥居の先には大きな注連柱があり、裏面に大正三年七月の銘が入っている。私は比較的新しいことを疑問に思いながら更に石段を上って行った。
淀姫神社と平の祭り
平の明神山に造営されている淀姫神社の祭神は、鞆にゆかりの深い神功皇后の妹君に当る淀姫(別名は虚空津媛命こくつひめのみこと)といわれる。
そもそも、この社の起源は別章で記述した神功皇后の事績……関の浜の渡守神社に高鞆を奉賽され、その祭主として淀姫を当分の間この地に止め置かれたことから発したものである。すなわち淀姫は、後世に大明神という地名の生まれた場所に住居され、毎日従者二人(一説には今日江之浦に住む平之内、武内両家の先祖)を従えて、関町の渡札の辻に祀る神社に通われた ……と、平村代々の口碑(口づたえ)として伝えられている。
この平町の古い歴史をたずねると、源平時代、屋島の戦に敗れた平家の一門が、その水軍の根拠地であった千年村の能登原、敷名沖で、源氏の水軍を撃破して劣勢を一挙に挽回させようとしたのであったが、そこでも亦源氏方に夜襲をかけられ、陸に多くの傷兵を残したまま西国に落ちのびていった。その残留兵が能登原坂を越えて無人の土地を開拓し、平村を興こしたと伝えられている。その説に真をおくとすれば、平村のおこりはせいぜい七八〇年の古さに過ぎない。
また一説には、三六〇年ほどの昔に、芸備の太守福島正則が家老の大崎玄蕃に命じて古城趾に鞆城を構築しようとしたとき、その周囲に住居する者を、武家屋敷を設ける理由から、多くの人々に立ち退きを命じた。それら人々の転居先が平村地域であったともいわれている。
従ってこれらの二つの流れを先祖とする平の住人たちは、何時の頃から創めたものか?。その昔、淀姫が平の地に住居されたという故事を縁起して、のちに明神山と名付けられた小山(現在地)に淀姫大明神を祀った模様である。
明治の末期まで小さな祠に過ぎなかったという淀姫大明神は、平全体の合力により、大正二年に神社の風格を備える社として造営され今日に至っている。
(註) 淀姫大明神を祀って以来、明神山と名付けられたという海抜二〇米余りの小山は、もと陸地を離れた浅瀬づたいの小島であったと古老は伝えている。底辺の周囲は約一五〇米余りで、三方は尚海に囲まれているが陸続きとなった年代は、大可島の浅瀬を埋立て、道越町が出来上った時代(一六一五年頃)より少しおくれたころと思われる。それは大可島の瀬と平の瀬の潮流が同じ方向であったから、道越の埋立が完成後には平の小島の瀬の潮は止まり、浅瀬が何時の間にか浮き上ったのであろう。すれば淀姫を祀った明神山の生れは推定一六五〇~一七〇〇年頃であろうか?。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
淀姫神社の鳥居の先には大きな注連柱があり、裏面に大正三年七月の銘が入っている。私は比較的新しいことを疑問に思いながら更に石段を上って行った。
淀姫神社と平の祭り
平の明神山に造営されている淀姫神社の祭神は、鞆にゆかりの深い神功皇后の妹君に当る淀姫(別名は虚空津媛命こくつひめのみこと)といわれる。
そもそも、この社の起源は別章で記述した神功皇后の事績……関の浜の渡守神社に高鞆を奉賽され、その祭主として淀姫を当分の間この地に止め置かれたことから発したものである。すなわち淀姫は、後世に大明神という地名の生まれた場所に住居され、毎日従者二人(一説には今日江之浦に住む平之内、武内両家の先祖)を従えて、関町の渡札の辻に祀る神社に通われた ……と、平村代々の口碑(口づたえ)として伝えられている。
この平町の古い歴史をたずねると、源平時代、屋島の戦に敗れた平家の一門が、その水軍の根拠地であった千年村の能登原、敷名沖で、源氏の水軍を撃破して劣勢を一挙に挽回させようとしたのであったが、そこでも亦源氏方に夜襲をかけられ、陸に多くの傷兵を残したまま西国に落ちのびていった。その残留兵が能登原坂を越えて無人の土地を開拓し、平村を興こしたと伝えられている。その説に真をおくとすれば、平村のおこりはせいぜい七八〇年の古さに過ぎない。
また一説には、三六〇年ほどの昔に、芸備の太守福島正則が家老の大崎玄蕃に命じて古城趾に鞆城を構築しようとしたとき、その周囲に住居する者を、武家屋敷を設ける理由から、多くの人々に立ち退きを命じた。それら人々の転居先が平村地域であったともいわれている。
従ってこれらの二つの流れを先祖とする平の住人たちは、何時の頃から創めたものか?。その昔、淀姫が平の地に住居されたという故事を縁起して、のちに明神山と名付けられた小山(現在地)に淀姫大明神を祀った模様である。
明治の末期まで小さな祠に過ぎなかったという淀姫大明神は、平全体の合力により、大正二年に神社の風格を備える社として造営され今日に至っている。
(註) 淀姫大明神を祀って以来、明神山と名付けられたという海抜二〇米余りの小山は、もと陸地を離れた浅瀬づたいの小島であったと古老は伝えている。底辺の周囲は約一五〇米余りで、三方は尚海に囲まれているが陸続きとなった年代は、大可島の浅瀬を埋立て、道越町が出来上った時代(一六一五年頃)より少しおくれたころと思われる。それは大可島の瀬と平の瀬の潮流が同じ方向であったから、道越の埋立が完成後には平の小島の瀬の潮は止まり、浅瀬が何時の間にか浮き上ったのであろう。すれば淀姫を祀った明神山の生れは推定一六五〇~一七〇〇年頃であろうか?。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
少年時代鞆へ農作業のてごをしに行く(≒手伝いに行く)のが楽しみだった。福山城下町にはない二つ目信号が見られたし、言葉や文化が全然違っているのが面白かったのである。
下町育ちの私は平(ひら)の男の会話を聞いて「なんであの人らは喧嘩しよーん?」と大人に尋ねたものだった。「喧嘩はしょーらん。普通にしゃべっとんじゃ」との地元のおっさんの説明に周囲はニヤニヤするばかり、決して怒られることはなかった。
言葉は確かに荒いが、根は優しい(実はシャイな)住民が多かったと記憶する。戦前から戦後の数年間は漁業で栄えた土地柄のため(鉄鋼団地で働く)元漁師は魚の味にはとりわけうるさく幼い私に多大な影響を及ぼした。私が料理に目覚めた原点は鞆だと言ってもよいかもしれない。
下町育ちの私は平(ひら)の男の会話を聞いて「なんであの人らは喧嘩しよーん?」と大人に尋ねたものだった。「喧嘩はしょーらん。普通にしゃべっとんじゃ」との地元のおっさんの説明に周囲はニヤニヤするばかり、決して怒られることはなかった。
言葉は確かに荒いが、根は優しい(実はシャイな)住民が多かったと記憶する。戦前から戦後の数年間は漁業で栄えた土地柄のため(鉄鋼団地で働く)元漁師は魚の味にはとりわけうるさく幼い私に多大な影響を及ぼした。私が料理に目覚めた原点は鞆だと言ってもよいかもしれない。
淀姫神社バス停横に建つ「鞆の津ふれあいサロン」。旧平(ひら)保育所である。昔は児童がたくさん通っていた。
平という名称がこの辺りに残っているのは、沼隈郡時代、平と呼ばれ1丁目から3丁目まであったためである(現在の住所表記は鞆町後地)。平地区が平家と関係があるのかどうかは知らぬが、近場では沼隈町の中山南(なかさんな)が落人集落としては有名だ。
〔平〕
元平村にして平一丁目より三丁目に至る、一筋町を爲し、漁家多く町はづれには農家多し。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』
平町
昔の平村分の大半であって,合併後,平組と呼ばれたが,大正二年(1913)一ケ年程大正町と呼ばれ,以後平町という。昔は江の浦の南方中山の麓にわずかばかりの民家あり,それより少し高く平らかなる地であるので平の浦といったのが,平とのみ称えて此のあたりの名になったと古書にある。平家の子孫住んだ故との伝説もあると沼隈郡誌にあり。これはいぶかし。
『鞆の地名あれこれ』
平という名称がこの辺りに残っているのは、沼隈郡時代、平と呼ばれ1丁目から3丁目まであったためである(現在の住所表記は鞆町後地)。平地区が平家と関係があるのかどうかは知らぬが、近場では沼隈町の中山南(なかさんな)が落人集落としては有名だ。
〔平〕
元平村にして平一丁目より三丁目に至る、一筋町を爲し、漁家多く町はづれには農家多し。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』
平町
昔の平村分の大半であって,合併後,平組と呼ばれたが,大正二年(1913)一ケ年程大正町と呼ばれ,以後平町という。昔は江の浦の南方中山の麓にわずかばかりの民家あり,それより少し高く平らかなる地であるので平の浦といったのが,平とのみ称えて此のあたりの名になったと古書にある。平家の子孫住んだ故との伝説もあると沼隈郡誌にあり。これはいぶかし。
『鞆の地名あれこれ』