(時の止まった駅@電鉄魚津)
岩峅寺から今回の宿泊地である魚津へ移動。ホテルにチェックインして暫しウダウダとしたものの、このホテル魚津駅の隣に立ってるもんだから窓からホームは丸見え放送は丸聞こえとお鉄には落ち着かない環境(笑)。荷物を放り込みベッドに転んで一息付いた後、飯食いがてら夜撮に出る事に。夕飯はまつ氏チョイスのラーメン屋になったのだが、魚津らしくめっさ魚のダシが効いたラーメンを美味しくいただきました。魚ダシだと仕上げのネコマンマがまた美味いよね。なんか池袋にも支店があるみたいなんで今度行ってみようかな(笑)。
夜の電鉄魚津駅。
位置としては電鉄魚津は新魚津の一つ富山寄りの駅になりますね。
「電鉄魚津ステーションデパート」と銘打たれたこの駅、昭和の時代に魚津市の連続立体交差事業に伴い高架化されて華々しいデビューを飾った駅でもありますが、今やバブルは遠い昔、周辺市街の活気は失われ、テナントは全て撤退と「現在のダメな地方都市の縮図」みたいになってます。もともとこの辺りは魚津市の旧市街のようなのですが、駅前にある商店街の雰囲気も土曜の夜にしては…と。まあ最近の地方都市ってどこもそうなんですがね。魚津市とか黒部市ってのは立山連峰に国策として作られたダムによる電力が豊富だったもんで、工業都市として古くから発展していたんですよね。特に黒部と魚津はYKKのお膝元だし、高岡には三協立山アルミとかあってアルミサッシの製造って確か今でも富山が日本一だったんじゃないかなあ。アルミの製錬って電炉で溶かさなきゃいけないからむちゃくちゃ電気を使いまくるんでねえ。この魚津の街も日本カーバイド工業なんて上場会社もあったりする工業都市、その表玄関として地鉄頑張っちゃいました!と言う往時の意気込みはすごくよく分かる物件なのですが、いかんせん過疎には逆らえないのはどこも変わらないようで。
よく「シャッター通り」な~んて言いますが、ここは「シャッター駅」とでも申しましょうか。なんせテナント全撤退ですからねえ。かろうじて一階にあるタクシーの待合室の明かりに救われる。それこそシャッターも主要製品の一つであるYKKとか三協立山のお膝元がシャッターだらけとは皮肉この上ないのですが、果たして往事は何の店が入っていてどんな賑わいだったのか、それを偲ぶヒントすらシャッターに閉ざされたこの駅にはないのです。シャッター駅をシャッターで切り取る非情とな。
電鉄魚津駅改札口をホーム側から。
改札横のベンチにはフラフラしてる不審なオッサンが座っていたが、こんなシチュエーションで相まみえるとあっちもこっちを不審者だと思ってるんだろうなあ…まあ失礼を承知で言わせて貰えば、夜のこの駅に来る事自体不審者扱いされても仕方ないくらいの雰囲気はあるんだけど(笑)。
暗がりのホーム。
並走する北陸線には駅はなく、配線自体も棒線一本の簡素なもの。
北陸線の475やらパーイチ貨物やらが爆走する横で、この駅は静止しております。
かぼちゃ色おけいはんの宇奈月温泉行き。
どこからともなく現れたオッサン一名を乗客に電鉄魚津を発車。こんな時間にはそもそも乗車も降車もないのは珍しい事ではないらしく、かぼちゃと新魚津で交換の急行電鉄富山行きは電鉄魚津をタッチアンドゴー。せっかくダイコンだったのにまともに撮れずじまいですわ。
日本興業銀行富山支店っていったいいつの話なんだろう(笑)。
「三長銀(興銀・長銀・日債銀)」と言う単語も、「日本専売公社」なみの昭和の死語と言えるかもしれません。興銀のワリコー、長銀のワリチョー、日債銀のワリシン、いわゆる割引金融債の類は、バブル前を知る世代には懐かしい金融商品でせうか。ちなみにワリチョーと言われるとアタシはなぜか若かりし日の沢口靖子を思い出すのです。
魚津名物とんかつや。
全てがセピアと薄暗がりの中に埋もれている電鉄魚津の駅で、このブタさんの屈託ない笑顔だけがやたら光り輝いて見えます(笑)。光り輝き過ぎて何だかいじましくなっちゃったよ。どうせこの店もシャッター商店街の一部になってるんだろうなあとか思ってたら、何気にまだ電鉄魚津駅近くで営業を継続してるみたい。食べログとかに掲載されててレビューも悪くないんで、電鉄魚津にお越しのさいはぜひ!とブタさんに代わって申し上げます(笑)。
駅ビル自体が高架線の躯体の一部になっちゃってるんで、テナントが撤退しても取り壊しすら難しそうなのがこの駅の不幸。取り壊すとしたら相当な経費が必要な事は素人目にも疑いようがなく、かと言ってテナントも呼べず、ただただコンクリートの塊として時の過ぎ行くままにされている電鉄魚津。この残酷な時を止める術は、果たしてあるのだろうかいな。
次回へ続く。