青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

月桂樹、掲げて走って40年。

2021年03月11日 17時00分00秒 | 富山地方鉄道

(暖かみの向こう側@岩峅寺駅)

早朝の立山へ快速急行を追う、という今回の富山行の1回表を終了し、岩峅寺の駅に降りて来ました。駅前の駐車場にクルマをデポし、こっからは乗り鉄しながらシャッターチャンスを探して行こうかなと。駅の窓口でフリーきっぷを購入しようと初老の駅員氏に声を掛けると、そんなものを頼む人間が少ないのか、きょとんとした顔をしてから極めてゆっくりとした手付きできっぷを発行し始めた。別に急ぐ旅でなし、やかんの掛けられたストーブが赤々と燃える待合室でフリーきっぷの出来上がりを待っていると、改札の向こうを折り返し作業中の60形が通り過ぎて行きました。

やっとこさ作成されたフリーきっぷを持って、岩峅寺の構内踏切を渡る。次の電鉄富山行きは先ほど折り返し準備をしていたかぼちゃカラーの60形。小生、野球はロッテ、目玉焼きは醤油、カレーは松屋、そして60形は雷鳥カラーが至高と思っている雷鳥カラー原理主義者なのですけど、冬場の色のない時期だとかぼちゃカラーのちょっとキツめの蛍光色も案外悪くないですね。14767-68のコンビですが、最近の塗り直しなのか色にツヤがあってね。岩峅寺らしい「清酒剱岳」の駅名票と合わせて一枚。

席はどこを選んでも座り放題の電鉄富山行き。あえて座らず列車最後方に陣取って、ヒーターにもたれながら流れて行く景色を見やる。頭の上には、燦然と「鉄道友の会・ローレル賞」のプレートが輝いておりますが、1980年だからもう41年前の話。1970~80年代は地方鉄道にも自社発注車が多数ありましたからね。大手私鉄に追い付け追い越せで、まだまだ地方鉄道が元気だった頃の話ですねえ・・・と言ってしまっては寂しくなるような気がするけれども、ここでは手持ちの「私鉄の車両10・富山地方鉄道」の一文を引用させていただく。「富山地方鉄道創立50周年にあたる昭和54年(1979)に、15年ぶりに2両連結の3編成が日本車輛製で登場(中略)今や富山地方鉄道の代表車両となった。特に初の冷房車でもあり、鉄道復権の礎ともなって、鉄道友の会のローレル賞を受賞した」とあって、いかにこの車両の新造が地鉄にとってエポックメイキングな出来事だったかを物語っている。

沢中山、釜ヶ淵、下段と常願寺川の扇状地を軽快に駆けて行くかぼちゃカラーの60形。
「鉄道復権の礎」とまで称えられ、ローレル賞を受賞したデビュー当時から、今なお地鉄のフラッグシップであり続けるその乗り味を愛でるのであります。

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たかが10年、されど10年。

2021年03月11日 08時00分00秒 | 日常

(震災10年@あの頃の小田急)

本日で、東日本大震災から10年。10年を長いと見るか短いと見るか、それは人それぞれだと思います。個人的には10年目だから特別な訳でもなく、10年経って何が変わる訳じゃなし、明日になったら10年と1日目が始まるだけなのかなと思う。あの日の出来事で自分の生命、家族、親類縁者、財産、仕事に何も被害がなかった自分。いつその当事者になるかもしれないという覚悟を改めて。でもやっぱり10年も経ったら記憶は薄らぐのか、何だか色々なことを思い起こす10年目の3・11。あの日から始まった「がんばろう日本」、新型コロナに危機のフェーズが移っている世界で、いつまで頑張ればならぬのやら。

防ぎようもない自然災害に対して、日々の備えと用心が必要なのは言うまでもありません。しかしながら、つい先だっての福島沖地震のように災害はいつだって現在進行形で、いつかその時は必ずやって来る。いささか運命論者的な言い方になってしまいますが、「いつそうなってもいいように後悔なく生きる」という事が一番大事なのかなと思ったりもする10年目。改めて東日本大震災で被害に遭われた方々の快復と、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

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