青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

鷹の羽ばたき、岬へと。

2024年06月16日 20時00分00秒 | 銚子電鉄

(グランド照らす太陽の・・・@銚子電鉄・仲ノ町駅)

GW前半戦は福島に行って阿武隈急行と福島交通を探訪して来たのだが、GWの後半は受験勉強と部活でほぼ全てを潰す勢いの子供から、唯一開いた一日に「どこかへ連れて行って欲しい!」というオーダーを受けたので日帰りで銚子電鉄に。銚子に行くのもだいぶ久し振りの話である。成田回りで電車で行ったのだが、カシマスタジアムでJリーグの試合があったようで、成田から佐原まで鹿島サポでもみくちゃになった。さすがのGWである。というか、銚子って遠いんだったっけ。千葉からでも二時間かかりますからねえ。209系の固い椅子にお尻が悲鳴を上げる頃合い、ようやく到着した銚子の駅。弧回り手形を買って仲ノ町に出れば、2024年・銚子電鉄の期待の新車「シニアモーターカー」こと銚子電鉄22000形(元南海電鉄2200系)が出区準備に入っておりました。

元々は南海高野線の橋本から先の極楽橋まで、山岳区間を走る初代ズームカーこと21000系の増備用として作成されたこの車両。湘南二枚窓の丸みを帯びたデザインの初代からは一線を画し、標準型の箱型車体は初代に対して「角ズーム」と呼ばれました。高野線運用から降りた後は、2連ユニットで製造された強みを生かして多奈川線や汐見橋線などのローカル支線運用に就いていたのですが、伊予鉄からの譲渡車の老朽化によって代替車両を探していた銚子電鉄へご縁があっての譲渡となりました。今回譲渡を受けたのは2202-2252号の2連1編成。関東の私鉄で関西私鉄の車両が走ること自体が非常に珍しいことですが、その外装もグレーとブルー&オレンジのラインを基調とした南海色から、南海でのデビュー当時と同様の濃淡のグリーンの塗り分けに戻しています。関西私鉄のオールドファンは感涙モノの塗装変更でしょうなあ・・・それゆえに鉄道マニアの関心も非常に高く、2024年3月にロールアウトしてからは、多くの鉄道ファンを銚子に向かわせる原動力となっています。

ちなみに、今回銚子電鉄へ譲渡された南海2200系の2202-2252号車ですが、南海時代に汐見橋線で乗ったことがあります。記録を見ると、2015年(平成27年)8月とあるので既に9年前のこと。夕暮れ迫る汐見橋の駅から岸里玉出まで、大阪のダウンタウンを少ない乗客たちと揺られたことが印象に残っている。南海の汐見橋線、便宜的にこう呼ばれてはいますが実際は南海の高野線の一部。高野線由来の角ズームが静かに余生を過ごすには相応しい「都会の中のローカル線」という雰囲気であったのだが、よもや千葉県の銚子で再び会うことになるとは思わなんだ。都会の中のローカル線から、岬を目指すローカル線へ。製造年は1969年(昭和44年)で、御年55歳と既に若くはない身。通常の会社なら、そろそろ昇給も止まり子会社への出向なども考える時期ではあるのだが、降って沸いたような別会社への転籍話。いやはや、さすがに本人も南海に骨を埋めるつもりだったと思われるのだが。

銚子方助手席側に置かれた「NANKAI」のユニホームレプリカ。ビジター用だね。デビッドとか門田とかがクリーンアップだった時代のイメージだわ。「グランド照らす太陽と 意気と力をこの胸に・・・」と、思わず「南海ホークスの歌」を高らかに歌い上げたくなってしまうねえ・・・この角ズームも、高野線をブイブイいわしてなんば~高野山への大運転へ繰り出していた時代は、意気揚々となんばの駅に滑り込む際に大阪球場のカクテル光線の輝きを見ていただろうか。当時の南海、二軍の球場と選手の合宿所が高野線の中百舌鳥にあったので、ひょっとしたら選手もこの車両を使って球場への移動なんかをしていたのかもしれない。私がライブで見ていた南海ホークスは、その大半が杉浦監督時代の晩年なんだけども、南海が身売りを決めて福岡へ旅立ってしまってから35年以上過ぎているのだから、もう「プロ野球チームとしての南海」をリアルタイムで知っている人も少なくなってきている。「レイルウェイズ」というのは、三浦友和が出て来る電車の運転手のお話ではなくて、南海・阪急・近鉄が雑に十把一絡げにされた最強混成チームのこと。代打いしみね、代打かどたは反則なのであった。


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