青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

阿武急に、キハのいた時代。

2024年05月29日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(角田盆地を真っ直ぐに@横倉駅)

横倉駅を見降ろす陸橋から。穀倉地帯の角田盆地を真っ直ぐ南北に貫く阿武隈急行。槻木から丸森までの17.4kmは、かつての国鉄丸森線として開通した区間です。将来の福島延伸を見込んで建設に着手した丸森線は、昭和43年に槻木~丸森間を開通させた後、長い間国鉄の財政悪化に伴って未成部分の開通に漕ぎ付けることが出来ず、盲腸線のまま放置されていました。昭和61年7月に、福島までの路線延長は地元の手に託すことを視野に入れ、国鉄丸森線は第三セクター化。受け皿会社として設立されていた「阿武隈急行株式会社」に引き取られたのですが、阿武隈急行が昭和63年7月に福島開業を果たすまでの約2年間、槻木~丸森間は非電化のまま暫定開業となっていました。国鉄からキハ22のリースを受け、白地に青のラインを入れた独自色に塗り替えて使用していましたが、国鉄設計の旧態然としたデザインのキハ22が白地に青いストライプというのは、今思うと非常にミスマッチなカラーリングでした。当時は国鉄からJRに移行する過渡期で、一斉に首都圏色から地域色への塗り替えが行われていた時期でもありましたので、まあそういう時代だったんですよね。福島開業と同時に阿武急は全線電化されたので、阿武急カラーの気動車が走った時期は短かったのですが、その後キハ22はJRに戻ることもなく、そのまま廃車されてしまったそうで。

掘割区間を抜けて行く8100形。と言う訳で、この槻木~丸森間は阿武隈急行で一番古い開業区間になるのですが、昭和43年の開業ながら掘割、築堤、立体交差を基本に作られていて、ほとんど踏切がないのは特筆すべきことです。但し、阿武隈川の運んできた土砂の堆積で形成された沖積平野であるここ角田盆地の築堤区間では、築堤上に敷かれたレールが東日本大震災の揺れに耐えられず、多くの個所で大きな軌道変異を起こしてしまったそうです。盛り土の築堤ってのは構造的に揺れには弱いんですよね・・・

国鉄時代の丸森線は、槻木を出ると横橋・岡・角田・丸森の4駅しかなく、運行も朝夕中心の一日5往復のみという超閑散線区でした。短区間の盲腸線らしい(?)国鉄のやる気のなさが苦々しいほどなのですが、阿武隈急行への転換によりこの区間に横倉・南角田・北丸森の3駅が新駅として開業。一日14往復へと大幅な増便が果たされ、沿線の角田市や丸森町は一気に仙台への通勤圏に組み込まれました。が、バブルは弾け、時代は流れ、今や角田市の人口は2万6千人あまり。現在でも、阿武隈急行線内からは朝夕の一往復ずつが仙台に直通していますが、果たしてどのくらいの直通需要があるのだろうか。


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