tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

「天誅組 志士たちの肖像」展は7月28日(日)まで!(2013Topic)

2013年06月25日 | 天誅組
今、市立五條文化博物館(五條市北山町930-2)で、「志士たちの肖像」という特別展が開催されている。毎日新聞奈良版(6/19付)《「志士たちの肖像」展 明治維新、先駆け体感 天誅組、幹部と五條出身者ら9人を中心に紹介 文化博物館》によると、

150年前、幕府五條代官所を襲い、明治維新の先駆けとなった天誅組について、幹部と五條出身者ら9人を中心に紹介する「志士たちの肖像」展が五條市北山町の市立五條文化博物館(0747・24・2011)で開かれている。3総裁の1人、吉村虎太郎が負傷した時に着ていた血染めの襦袢(じゅばん)、同じく総裁・松本奎堂(けいどう)の兜(かぶと)、那須信吾が東吉野村・鷲家口で戦死した時に所持していた小旗、志士たちの手紙など31点を展示している。7月28日まで。



天誅組は1863(文久3)年8月に挙兵。高取城を攻撃するが失敗、吉野山中を転戦し約40日で崩壊した。他に取り上げた志士は主将の中山忠光、3総裁の1人で紀州藩脇本陣に切り込んで死んだ藤本鉄石、後に獄中で組の記録「南山踏雲録」を書き残した伴林光平(ともばやしみつひら)、共に五條の医者だった乾十郎と井澤宜庵(ぎあん)、乾らの師だった儒学者の森田節斎。

虎太郎が挙兵に参加した丹生川上神社下社(下市町)の神官、橋本若狭(五條市出身)に出した陣中書、画家でもあった鉄石の絵なども展示。十郎が宜庵に出した手紙には吉野川を下る筏(いかだ)の税撤廃を紀州藩に掛け合った報告があり、奈良盆地への吉野川分水まで考えた事業手腕をうかがわせる。午前9時~午後5時。月曜休館。入館料は高校・大学生200円、一般300円。


吉村虎(寅)太郎の血染めの襦袢に松本奎堂の兜とは、ぜひ見てみたいものである。お帰りにはぜひ、駅前商店街の金時堂で「寅太郎饅頭」をお買い求めいただきたい。「天誅組挙兵150年」の今年は、このような催しが続々と開催される。県庁のエレベーター内にも、大きな告知ポスターが貼ってあった。当ブログでも、これからどんどん紹介してまいります!



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天誅組入門(奈良女子大学「地域公開講座」)が無事終了!

2013年06月24日 | 天誅組
昨年(2012年)末、旧知の藤野千代さん(奈良女子大学社会連携センター特任教授)から、「公開講座で何か講話をしてもらえませんか」というお話しをいただいた。1年に1回で5年間連続、ということだったので「年に1度なら何とかなるかな」と、軽い気持ちでお引き受けした。全5回共通のタイトルは「奈良にまつわるエトセトラ」とし、1回めは6月22(土)に設定した。
※写真は、すべて藤野特任教授の撮影。とても上手にお撮りいただいた



「初回のテーマは何にされますか?」と聞かれたので「“天誅組入門”で行きます」とお答えした。今年(2013年)が「天誅組挙兵150年」の年だったので、すでに勉強を始めていたのである。半年あれば何とかなるだろう、と考えた。



昨年の6月には仲間うちで五條市で天誅組の史跡を訪ねる(第10回古社寺を歩こう会)というウォーキングツアーを実施した(64人参加)。天誅組研究家の舟久保藍さん(「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協特別理事)の90分の講話も3回、お聞きした。関連本も何冊か読んだ。今月(6月)には天誅組終焉の地・東吉野村を巡る(第12回古社寺を歩こう会)というバスツアーも実施した(39人参加)。

実録 天誅組の変
舟久保 藍
淡交社

今年の3月、舟久保さんは『実録 天誅組の変』(淡交社刊 2,300円)というご著書を刊行された。これは天誅組研究書の決定版ともいうべき労作で、隅から隅まで、熟読させていただいた。そのあと4月頃からPower Pointで資料を作り始めたが、これがなかなか進まない。



いきなり天誅組の話に入ると聞く人は戸惑うだろうから、やはり「アヘン戦争」とか「ペリー来航」など、当時の時代背景から入らなければならない。「尊皇攘夷」と「公武合体」の違いなども説明しないといけないし、「和宮降嫁」や「生麦事件」にも触れなければならない。講演場所が奈良女子大(奈良奉行所跡)なので、名奉行として知られる「川路聖謨(かわじ・としあきら)」にも触れなければならない…。と、天誅組の話に入る前に、13枚ものスライドを作ることになってしまった。



14枚めから天誅組の話に入り「十津川郷士」とか「鷲家のおかつ」の話も入れて18枚。結局、合計32枚ものスライドを作ってしまった(配付資料は1ページにスライド4画面を載せるので、スライド枚数は4の倍数にしなければならない)。4月から作り始め、途中、NPO法人の発会式とかツアーガイドとか神社検定の受験とかに阻まれながら、何とか講話の4日前にスライドを完成させてCDに納め、五條市や東吉野村からいただいたパンフレットとともに、無事、藤野さんに手渡すことができた。



藤野さんからは「写真で見る奈良の四季」のようなスライドも準備してほしい、とのリクエストもいただいたので、こちらも矢田寺や喜光寺の花の写真ばかりを10枚(印刷なし)。過去に撮影した写真から簡単に作って、電子メールで送信した。



私はこれまで、「奈良にうまいものあり!」「奈良検定2級必勝講座」「観光立県・奈良の課題」「観光まちづくりの事例研究」「90分でわかる古事記」「広報入門」「人脈の作り方」など、いろんなテーマの講話をお引き受けし、すべてPower Pointで資料を作ってきたが、こんなに時間をかけたのは初めてである。幕末の時代背景から入らなければならなかったので、幕末本を読み返したことに加え、資料によって微妙に記述が違う(集結した十津川郷士の人数とか、諸藩の兵力数など)ので、これらを最も信頼できる『実録 天誅組の変』に基づいて、再チェックしなければならなかったからである。



講話では、主催者がアンケートを取っておられたので、あとでお聞きすると、概ね好評だったとのことで、安心した。「入門編」なので、天誅組に詳しい方には退屈だっただろうが、予備知識のない方には、ちょうど良いレベルだったことだろう。なかには「連続シリーズとして(頻繁に)開催してほしい」という声もあったそうだ。「天誅組入門」は、年内にあと2回、それぞれ別の場所でお話しする予定が入っている。Power Point資料にはどんどん手を入れて、磨き上げていくつもりである。



奈良女子大学社会連携センター「地域公開講座」にお越しいただいた70人の皆さん、ご清聴有難うございました。藤野さん、細部にまでお気遣いいただき、またきれいな写真をたくさんお撮りいただき、有難うございました!

天誅組についてご教示いただきました舟久保藍さん、東吉野村教育委員会教育長の阪本基義さん、天誅組150年顕彰記念実行委員会事務局の上辻元治さん、お世話をおかけいたしました。おかげさまで無事、講話を終えることができました。天誅組150年の今年、五條市や東吉野村にたくさんの人が訪れ、天誅組の熱い「志」に思いを致されますよう、心よりお祈りいたします。
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天誅組決起150年で、関連イベント続々!

2013年03月14日 | 天誅組
 実録 天誅組の変
 舟久保藍
 淡交社

今年(2013年)は、天誅組の変から150年目の記念年である。天誅組の変とは《幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる》(Wikipedia)。

天誅組ゆかりの東吉野村や五條市からは、関連イベントが続々と発表されている。まず「吉野村天誅組150年顕彰記念事業実行委員会」は、3回の連続講演会、2回のウォーキングのほか慰霊祭を開催する。詳細はこちら(PDF)をご参照いただきたい。

五條市の「天誅組保存伝承・顕彰推進協議会」は、講演会、ウォーキングのほか、天誅組総裁・吉村虎太郎にちなんだ歌舞伎を開催する。詳細はこちら(PDF)

天誅組決起150年にちなんで、20年ぶりに関連本も出版された。舟久保藍著『実録 天誅組の変』(淡交社刊)である。天誅組研究家の舟久保藍さん(「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会 特別理事、生駒市在住)が、天誅組決起の時代背景から挙兵後の動きまでを詳細に追った労作だ。

版元の紹介文には《幕府の直轄領であった大和五條(奈良県五條市)は現在でも穏やかな地方都市ですが、文久3年(1863)8月17日、尊王倒幕を目指した一団によって突如占領されました。「天誅組」と呼ばれたその一団は、幕府に追討を命じられた諸藩の包囲を受け、約40日にわたって西吉野、十津川と転戦し、東吉野で壊滅します。しかし、彼らが目指した倒幕は5年後に実現し、明治維新を迎えることになりました。「維新の魁」とも呼ばれる彼ら天誅組の実態を詳細にまとめた一冊》。

 天誅組 (講談社文芸文庫)
 大岡昇平
 講談社

Amazonで「天誅組」を検索すると、大岡昇平の小説『天誅組』がヒットする。この小説は、産経新聞朝刊に1963年11月18日から翌年9月25日まで、310回にわたって連載された。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、産経新聞夕刊に1962年6月21日から1966年5月15日までロングラン連載された。天誅組総裁の吉村虎太郎は龍馬の1歳下で、2人は同じ頃に土佐藩を脱藩している。そんな2人の物語が産経の朝刊と夕刊で同時進行していたということには、感慨深いものがある。

しかし大岡昇平著『天誅組』は、決起に至るまでを描いた小説であり、肝心の決起後のことはほとんど出てこないので注意を要する。決起後のことは『実録 天誅組の変』が最も詳しく、情報も最新である。待ちに待った天誅組本だったのである。

天誅組に関連する地域は、五條市、東吉野村をはじめ、高取町、十津川村など、奈良県中南部の地域である。天誅組決起150年で、たくさんの方が県中南部に足を運ばれることを期待している。
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天誅組を『南山踏雲録』から読み解く(2) by 舟久保藍さん

2013年03月04日 | 天誅組
 実録 天誅組の変
 舟久保 藍
 淡交社

ずいぶん時間が経ってしまったが、「天誅組を『南山踏雲録』(伴林光平著)から読み解く」の第2回をお届けする。2012年6月2日、第1回の天誅組勉強会を開催し「天誅組を『南山踏雲録』から読み解く(1)」をアップした。しかしその後、講師の都合で開催が延期され、今年(2013年)の1月23日(水)と3月6日(水)に残り2回が開かれ、ようやく完結するはこびとなった。

この間に、大きなニュースが飛び込んできた。天誅組蹶起150年の今年、講師の舟久保藍さん(「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会 特別理事)が、淡交社から『実録 天誅組の変』(2,415円)というご著書を出版されたのである! これはグッドタイミングな企画である。版元の紹介文には《天誅組決起150年記念出版 義挙とも暴挙とも呼ばれる天誅組の変の実態を詳らかにした一冊》。

《幕府の直轄領であった大和五條(奈良県五條市)は現在でも穏やかな地方都市ですが、文久3年(1863)8月17日、尊王倒幕を目指した一団によって突如占領されました。「天誅組」と呼ばれたその一団は、幕府に追討を命じられた諸藩の包囲を受け、約40日にわたって西吉野、十津川と転戦し、東吉野で壊滅します。しかし、彼らが目指した倒幕は5年後に実現し、明治維新を迎えることになりました。「維新の魁」とも呼ばれる彼ら天誅組の実態を詳細にまとめた一冊》とある。2月28日に出たばかりなので、私はまだ入手できていないが、これはぜひ熟読するつもりである。何しろ天誅組に関する本は、あまり出回っていないのである。



さて今日は、第2回勉強会(1/23)の内容を紹介する。前回、天誅組は8月17日、五條代官所を襲撃、代官鈴木源内の首をはね、代官所に火を放って挙兵。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言した。今回は御所(宮中)で大逆転劇が起きる。挙兵の直後の8月18日、「8月18日の政変」(公武合体派によるクーデター)が起こり、天皇の大和行幸は中止となり、京の攘夷派は失脚する。これにより挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となったのである。これはエライことである。8月18日の政変について、世界大百科事典から少し詳しく紹介しておく。

1863 年 (文久 3) 8 月 18 日,孝明天皇と中川宮 (朝彦親王) が画策し, 醍摩・会津両藩が加わって,京都から尊王攘夷派の中心であった長州藩と, それと結ぶ急進派公縁とを追放した事件。 62 年から京都を制圧し朝意を左右していた尊攘派は, 63 年 8 月 13 日,天皇に強要して攘夷親征のための大和行幸の勅を出させた。 これに対し公武合体派は巻返しのためのクーデタを計画した。 18 日未明,会津,淀,醍摩の兵が御所の門を固めるなかで, 中川宮,前関白近衛忠厩(ただひろ),右大臣二条斉敬 (なりゆき), 京都守護職松平容保 (かたもり),京都所司代稲葉正邦らが参内し, 朝議が開かれた。

この朝議では三条実美 (さねとみ) ら急進派公縁20 余人の参内禁止, 国事参政・国事寄人の廃止,長州藩の堺町御門警備の解除と同藩士の御所門内への立入禁止, 天皇の大和行幸の延期が決定された。 長州藩兵は急を知って御所の門外に集結したが, やがて退去し,翌日,実美ら 7 人の公縁を伴って長州へ下った (七縁落)。 こうして尊攘派の勢力は京都から一掃され, 以後,朝廷と幕府の合意のもとに,より穏健な方法で外国を退ける策として, 横浜鎖港交渉が進められていった。 この政変で,外国と武力衝突を起こすことが当面は避けられ, また尊攘派の圧力で朝廷が幕府と無関係に諸藩に命令を下すこともなくなったので, 最高の領主権力としての幕府の地位は一時的にではあるが安定した。 一方,この政変をきっかけに,尊攘派は倒幕を運動のスローガンに掲げることになった。



天皇の大和行幸が中止となり、天誅組の「義挙」は「暴挙」になってしまう。これについて伴林光平の『南山踏雲録』には(以下、読みやすさを考慮して表記を一部変えている)、《あまりの事にあきれ果て、ものさえ言われず。この上はいかがはせん。「冠履倒置、正邪転倒(物事の順序・正邪が逆になる)は珍しからぬ世のならひなり。たとい乱暴の名は蒙るとも、正義の一挙、かくして止むべき(やめることができようか)」など、人々切歯瞋目(せっししんもく 非常に悔しがって歯を食いしばり、目をいからせる)して、言い罵(ののし)る》。

逆賊となった天誅組に対し、藤堂藩(津藩)、彦根藩、郡山藩、紀州藩、高取藩などの藩兵の追討軍が一斉に攻めてくる。9月9日、彦根藩兵は丹生川上神社下社(下市町)へ放火する。これに対し、天誅組の勇士12人は下市の彦根陣営を焼き討ちにした。《下市民家に放火すること45ヶ所、彦賊周章狼狽、煙の下より迷ひ出るを、芋刺にせらるる者 数を知らずといふ》。



そこで伴林は一首、ひねり出す。《夜もすがら、銀峯山の御陣より火村(ほむら)を眺めつつ 吉野山 峰の梢(こずえ)や いかならむ 紅葉になりぬ谷の家村(いえむら)》。民家が燃えるのを見て吉野山の紅葉を連想している。まだこの時点では余裕があったのだ。

このあと『南山踏雲録』では、メンバーのプロフィールなどを紹介している。記紀をよく理解しよく弁じ、優れた意見を持つ文人・藤本鉄石(津之助 岡山藩)。軍太鼓の上手な森下儀之助(土佐藩)、下手な宍戸弥四郎正明(まさあき 刈谷藩)。心を鬼にして3歳の子を妻に投げつけて家を出たという小川佐吉師久(もろひさ 久留米藩)。寛大で度量が大きく、よく人を愛し人を敬う吉村虎太郎(土佐藩)。平田鳩平の妻は22歳で郡山藩士の末娘、容貌美麗で節操がある。伴林に「最後の不覚をとらぬよう導いてください」と手紙を書いてきた。その心中、見事である。

司馬遼太郎の『おお、大砲』にも登場する酒井傅次郎(久留米藩)。高取藩の藩宝たる大砲から撃たれた弾に当たったが、それは3日間の耳鳴りをさせただけ、という話である。《「まったくあの大砲にはひどい目にあわされた。三貫目玉がカブトに当たってから、三日三晩、耳鳴りがして眠れなかったほどだ」「耳鳴り。…」こんどは新次郎(=高取藩)のおどろく番だった。二百年間、高取藩の藩宝として受けつがれてきたブリキトース砲は、この紀州の足軽あがりの男に耳鳴りさせただけにすぎなかったのだ。(なるほど、そういうものかもしれない)この一事で、徳川三百年というものの中身が、なんとなくわかるような気がした》(『おお、大砲』)。



伴林は次々に歌を詠む。戦場の歌人は、枕詞や本歌取りなどの技巧を凝らした歌を詠んでいる。例えば

ある時、永谷の里を深夜に通過したとき
山鳥の尾上の月もしるべ(導)せよ 秋の長夜の長谷の里
(山鳥は尾にかかる枕詞。尾上は山の頂。長夜の「長」にかけるために「永谷」をあえて「長谷」としている。山の頂の上の月よ、導いてくれと、秋の夜、永谷の里で祈っている)

十津川郷・高津(こうづ)の里に宿陣して
むかしたれ炭やく烟(けむり)たてそめて ここの高津(こうづ)はにぎわいにけむ
(高津という地名から、仁徳天皇を祭る浪速高津宮を連想し、新古今集巻7 仁徳天皇御製「高き屋にのぼりてみればけむり立つ 民のかまどはにぎわひにけり」を真似て詠ったもの)



暢気に歌など詠んでいる場合だろうか。この頃は諸藩の攻撃の激しい時期だった。Wikipedia「天誅組の変」から拾うと《諸藩の藩兵が動き出し、(9月)6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14,000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。統率力を失った忠光の元から去る者も出始め、天誅組の士気は低下する》。

これを受けて、何やら動きが出てきた。9月14日夜、14人の隊士(8/13の京都出発の時から忠光公のお伴をしてきた隊士)だけが中山忠光公の呼ばれ、秘密の会議を始めた。これに対し、外様の隊士(8/13以降に参加した隊士)は、大いに不満がる。どんな秘密の会議だったのだろうか。続きは、次回(3/6の勉強会)をお楽しみに。
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天誅組を『南山踏雲録』から読み解く(1) by 舟久保藍さん

2012年07月17日 | 天誅組
来年(2013年)は「天誅組蹶起(けっき)150年」である。これに備え、天誅組に関する勉強会を開くことにした。メンバーは「奈良まほろばソムリエ友の会」の有志を中心に36人。7~9月にかけて3~4回の会を開くことになった。講師は、「『維新の魁(さきがけ)・天誅組』保存伝承・顕彰推進協議会」および「天誅組大和義挙150年記念事業実行委員会」特別委員の舟久保藍(ふなくぼ・あい)さんである。

舟久保さんは、いわば「天誅組五條の会」(=私が命名)のブレーンであり、奈良県が産んだ「超歴女(チョーれきじょ)」である。なお天誅組関連では、東吉野村に「天誅組東吉野の会」(=私が命名)もある。正確には、「東吉野村天誅組顕彰会」および「天誅組顕彰記念事業準備室」(東吉野村役場内)である。いずれも覚えきれないので、私は上記ニックネームで呼んでいる。。

6/2(土)、仲間と「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」(第10回古社寺を歩こう会)というウォーキング・ツアーを開催し、舟久保さんにはガイドを担当していただいた。その様子を、映像コンテンツ企画・制作の「office Kunea(オフィス・クネア)」さん(橿原市地黄町122-7)に撮影していただいたので、その画像を以下に貼りつけておく。

第10回古社寺を歩こう会「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」


今回の勉強会では、伴林光平著『南山踏雲録』(日本史籍協会 大正15年5月刊)という本を丸ごと1冊、読むことにしている。これから毎回、勉強会が終わるごとに当ブログでその内容をレビューしていくことにしたい。今日は初回なので、まずは天誅組と著者の伴林光平のことをざっと紹介する。天誅組について、詳しく知りたい方は当ブログの「天誅組とは何か」および「天誅組とは by 北谷美和子さん」をご参照いただきたい。

さて平凡社の世界大百科事典「天誅組」によると、
天誅組(てんちゅうぐみ)1863 年 (文久 3) 8 月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。 この年中央政局を動かした尊攘派のうち, 真木和泉らのたてた攘夷親征計画により, 8 月 13 日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。 これを機に大和の天領占拠をめざして, 土佐の吉村寅太郎,備前の藤本鉄石, 三河の松本奎堂(けいどう) らを中心とし, 公縁中山忠光を擁して結成されたのが天誅組である。

8 月 14 日に京都を出て,大坂と河内を経て大和に入り, 17 日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し, 代官所支配地の朝廷直領化,本年の年貢半減などを布告した。 はじめ土佐,筑後久留米,鳥取などの脱藩士が多かったが, 河内の庄屋層が加わり,京都政変 (8 月 18 日) が伝えられると, 十津川郷士の大量動員をはかった。 26 日めざす高取城攻撃に失敗すると十津川郷士の離反が相つぎ, さらに諸藩兵の追討を受けて敗走をつづけ, 9 月 24 日大和吉野郡鷲家口の激戦で多数の犠牲者を出して壊滅した


著者の伴林については、朝日日本歴史人物事典から引用する。
伴林光平(ともばやし・みつひら)生年: 文化10.9.9 (1813.10.2) 没年: 元治1.2.16 (1864.3.23) 幕末の志士。通称は六郎。号は斑鳩隠士,岡陵,蒿斎など。河内国志紀郡林村(大阪府藤井寺市)の浄土真宗尊光寺賢静の次男。文政11(1828)年に上京。西本願寺学寮に入り仏学を修める。以後,摂津の中村良臣,僧無盖,因幡の飯田秀雄,紀伊の加納諸平,江戸の伴信友らに国学,和歌などを学ぶ。この間に還俗して伴林六郎光平と名乗った。

京都を中心に志士と交わり,開国後は攘夷論を唱える。文久1(1861)年に大和中宮寺の家士となり,皇陵の復興に情熱を燃やして山陵調査を行い,朝廷から感謝状を受けている。変名並木春蔵を使って志士活動を展開し,同3年8月天誅組の大和挙兵に加わる。軍参謀兼記録方を務め十津川郷その他に檄文を送って参加者を募る。諸藩兵と戦うが白銀峰や和田峰などで敗れ,京都に向けて逃走中に捕らえられ,翌年同志二十数名と共に京都六角獄において斬刑に処された。大和挙兵参加の始終を獄中で記した『南山踏雲録』その他の著作がある。




さて初回の勉強会は、7/11(水)に開催した。「籠中追記」というサブタイトル(籠中=獄中)のついた『南山踏雲録』の約4分の1にあたる8頁までを学習した。冒頭の2頁半は「まえがき」であり、敗走から投獄までの経緯が書かれている。いかにも歌人らしく短歌が2首、登場する。そのうちの1首(P1)。捕われた岩船山(川上村)のことを思い出し、奈良奉行所で詠んだ歌(以下読みやすさを考慮して、表記は変えてある)。

 楫(かじ)も無し 乗りて逃れん世ならねば 岩船山も甲斐なかりけり
岩船山には、アマテラスから十種の神宝を授かったニギハヤヒが乗ってきた天磐船(あめのいわふね)だとされる岩がある。しかし今は櫂(かい、梶、楫)がないので、せっかくの磐船(岩船)があってもそれに乗って逃れることはできない、という意味である。ニギハヤヒの天下りという神話を引いて、自らの落胆ぶりを表現したものだが、典雅な趣の漂う歌である。櫂(かい)と甲斐の掛詞(かけことば)もよく効いている

留置された奈良奉行所での待遇は、良かったようである。《高麗縁(こうらいべり)の畳三畳を板敷の上につらねて、膳具(春慶の木具)、夜のものなども相応に心したれば、矢玉の飛来る戦場よりは中々心やすくて、長閑(のど)けき方も多かりけり》(P2)。白地に模様を染めた高麗縁の畳、春慶塗のお膳、夜具など。伴林は著名な国学者であり、奉行所役人には門人が多かったので、優遇されたのだろう。

3頁後半から、いよいよ物語が始まる。1863年 (文久3年) 8/15~16、伴林は大阪の薩摩堀廣教寺へ歌会の指導に来ていた。務めを終えた16日夜、布団に入っていると午前零時頃、「法隆寺村(斑鳩町)からの急使が来た」といって起こされた。法隆寺の人・平岡武夫から手紙が来ていて、「中山忠光公が、宮中から内々の勅命(禁裡の御内勅)を受けて五條に向けて出発した。俗にいう『いざ、鎌倉』とはこの時である。すぐに出発し、正午までにお帰りください」とあった(しかし、あとで「禁裡の御内勅」は事実ではなかったことが判明する)。

明け方、十三峠を越えて正午近くに平岡の家に着いたが、すでに平岡は五條に発ったあとだった。伴林は急いで五條をめざす(途中、風の森峠で疲れて休憩し、歌を詠んだりする)。五條に着いたのは午後8時過ぎで、宿で代官所襲撃の様子を聞き、桜井寺(さくらいじ 五條市須恵)へ血まみれの首を見にいく。

翌18日朝、中山忠光に会い、軍記・文書草案の役目をいただく(しかし何という運命のいたずら! この日、京都では会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を追放するというクーデター事件「8月18日の政変」が起きていたのである。これで急進的な尊攘運動は退潮し、天誅組は暴徒として追討の命が下されることになる)。同日、三在村(五條市)で伴林は五條代官所役人のさらし首を目にする。その時詠んだ歌。地名の五條市須恵(桜井寺の所在地)と末をかけている。

 切り落とす芋頭さえ哀れなり 寒き葉月の末(須恵)の山畑
翌19日夕刻、五條市の西隣の橋本市(和歌山県)まで紀州藩の兵が押し寄せてきた。その方向の二見村(五條市)まで、伴林は中山に従って出かけ「戯れに」歌を詠む。敵が攻めてきているというのに、これは余裕である。「二見」という地名に、「敵と味方の双方を見る」という意味を掛けている。

 敵味方 二見(ふたみ)の里の夕月夜 東は照れり西は曇れり
兵隊たちは、これを聞いて「勝軍(かちいくさ)なり」と奮い立つ。ほら貝、太鼓を打ち鳴らして進軍すると、敵は一支えもできずに紀見峠(橋本市⇔大阪府河内長野市)まで退いた。

翌20日、天誅組は桜井寺の本陣を出て、山深い天ノ川辻(天辻峠=五條市西吉野町⇔大塔町)へ陣を移す。伴林は《滝の音も馬のいななきもさすがに勇ましく聞きなされて、心ゆく秋の山踏み(山登り)なりけり》と書いている。何やらのどかな雰囲気である。伴林は後醍醐天皇の賀名生(あのう)皇居のあった堀家住宅を訪ね、53字もの漢詩と短歌4首を詠み、阪本(五條市大塔町)で泊まる。



しかしこの日(8月20日)は、天誅組にとって大変なことが起きていたのである。Wikipedia「天誅組の変」によると、8月19日に《京での政変が伝えられ、天誅組が暴徒として追討の命が下されたことが明らかとなる。忠光らは協議の末、本陣を要害堅固な天の川辻へ移すことを決め、20日、天誅組は当地に入り、本陣を定めた。吉村が元来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけ、960人を集めた。天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、松の木で大砲十数門をつくったが、その装備は貧弱なものだった。十津川郷士も半ば脅迫でかき集められたこともあり、天誅組の強引な指示には疑問を持つ者が少なくなかった。玉堀為之進ら数名は天誅組の作戦に抗議し、天ノ川辻で斬首されている》。先ほどの朝日日本歴史人物事典に、伴林は《十津川郷その他に檄文を送って参加者を募る》とあったが、『南山踏雲録』には不思議とそのことは出てこない。

翌21日、伴林は天辻峠に戻る。そこで伴林は《天ノ川辻という所は簾(すだれ)村の上手にて懸河四囲に注ぎ、絶壁咫尺(しせき=至近)を遮隔して 要害究境の地なれども、水の手 立隔たりて、民家の少なきのみこそ兵衆の愁いなりける》と書く…。

第1回勉強会の内容は、ざっと以上の通りである。それにしても短歌に漢詩、「心ゆく秋の山踏み(登山)なりけり」とは、驚きだ。この日学んだ中で、別の日に伴林が作った短歌を突然思い出して書き並べ、「どちらが良いか、後世に見た人が決めてくれればいい」というくだりもあった。その歌は、吉野の陣中で自分の尊皇の志を詠んだ歌で、

①わが霊(たま)はなお世にしげる御陵(みささぎ)の 小笹の上に置かんとぞ思ふ
②くずおれて よしや死すとも御陵(みささぎ)の 小笹わけつつ行かんとぞ思ふ

古事記にはヤマトタケルの歌が出てくるし、伊勢物語のような歌物語では、むしろ歌が主役である。源氏物語でも大事なシーンになると歌が登場する。しかし天誅組の壊滅という悲劇を、「軍参謀兼記録方」として天誅組の側から克明に記述した『南山踏雲録』(いわば天誅組側による「正史」)に、こんなにたくさんの歌が出てくるとは、驚きを禁じ得ない。まるで「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」(藤原定家)ではないか。

かつて三田誠広は学生運動を描いた『僕って何』で芥川賞を受賞した。それまでの学生運動小説といえば、社会主義を絶対的正義とし、正義のために闘いながら挫折する人物をセンチメンタルに描いたものばかりだったが、三田はラブコメ風の軽やかな筆致で学生運動を通俗的に描き、賛否の渦を巻き起こした。

天誅組の変は、文字通り命をかけて蹶起し、ほぼ全員が戦死・刑死するという悲劇であり、学生運動などとは比べものにならない悲惨な事件だが、記録方である伴林の立ち位置の自由奔放さ、視点のユニークさには、目を見張る。
これからの展開が、今から楽しみ(心配?)である。舟久保さん、よろしくお願いします!
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