tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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邪馬台国を考える(5)「邪馬台国論争」

2016年02月13日 | 奈良にこだわる
「邪馬台国を考える」シリーズの5回目は、識者4人による邪馬台国論争を紹介する。出席者は、畿内説の石野博信氏(兵庫県立考古博物館館長、香芝市二上山博物館館長)、畿内説の西谷正氏(九州大学名誉教授、九州歴史資料館長)、畿内説の吉村武彦氏(明治大学文学部教授)、九州説の高島忠平氏(ミスター吉野ヶ里。佐賀女子短期大学元学長、学校法人旭学園理事長)司会は禰宜田佳男氏(文化庁)である。
※写真はすべて「邪馬台国畿内説」ツアー(2/10)。メインガイドは雑賀耕三郎さん。ここは大型建物跡

1.唐古・鍵から纒向へ
石野 唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあり、弥生時代の前・中・後期にわたり存続した遺跡です。径約500メートルの範囲を環濠が巡ります。時期によって溝の本数は違いますが、一番多いときは九重の環濠で囲んでいます。

弥生中期末、西暦50年前後の土器には、二階あるいは三階建ての建物(楼閣)の絵が描かれており、そのような建物があったのではないかと推定されています。吉野ヶ里でも二階建て、三階建ての大きな建物が復元されていますが、それと異なるのは一階の柱の間隔と二階の柱の間隔が違うことです。

私は奈良の宮大工さんに「中国から棟梁(とうりょう)がことり来れば、日本の大工さんを使って中国の技術で建物をつくれますか?」と聞きましたら、「つくれんことはない」といわれました。(中略) 新しい技術をもった人がごく少数で来て、これを建てたことを想定して聞いたのです。

司会 唐古・鍵遺跡では、弥生時代中期末から後期初頭(前1世紀―後1世紀)の段階には、遺跡の南東部に限って青銅器生産がおこなわれていました。弥生時代後期後半に青銅器生産をおこなっていた証拠は出てきているのでしょうか?

石野 銅鐸(どうたく)、銅鏃(どうぞく)の土製の鋳型が大量に出土しています。環濠の南方の一角で小さな橋が環濠に架かっており、集落の南の出入り口に近いところで青銅器の鋳造をやっていたようです。

司会 (畿内)地域の拠点となるような有力な勢力がなく、近畿説の場合、だから邪馬台国がこの地につくられた、というような見解もあります。この点について、ご意見をお聞きしたいと思います。まず、石野さん。よく「唐古・鍵遺跡から纒向遺跡へ」というフレーズがありますが、大和地域においては、時間的にも内容的にも、うまくつながっていくのでしょうか。

石野 纒向遺跡は唐古・鍵遺跡の上流、約5キロの山麓に位置しますが、弥生後期末(近畿弥生5式末=纒向1類)に突然出現します。したがって私は“唐古・鍵遺跡から纒向へ”と提唱しました。

高島 近畿の弥生時代の拠点的な集落構成は、同心円的で、発展・拡大も同心円的で、縄文時代の環濠集落の構成と共通するものがあり、縄文的集落形成の秩序を強く残しています。その他の文化要素もそのことを示しています。その環濠集落は、弥生時代後期後半には衰退して、北部九州のような巨大化、拡充はみられません。

 研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか
 石野博信・高島忠平・西谷正・吉村武彦 編
 朝日選書(朝日新聞出版)

2.倭国大乱
司会 「魏志倭人伝」によりますと、「倭国の乱」が2世紀後半に起こります。特に近畿説を唱える人たちにとっては、この「倭国の乱」が頼みの綱。弥生時代後期前半まで栄えていた北部九州と近畿の立場が逆転するということで重要な意味を持っているのです。

吉村 (永初元年=西暦107年の頃)列島では、ようやく倭国としてのまとまりができて、中国と交渉をはじめたわけですね。2世紀初頭までには中国が交渉相手とする倭国のまとまりができ、北部九州がその中心であったとする考え方が妥当でしょう。

高島 (「魏志倭人伝」や『後漢書』の記述は)卑弥呼のような女性の王が王権を確立し、30ヵ国を統括はるような王権をもつようになった、そして魏との交渉をおこなったことが、魏の国、中国側からとらえられたのではないかと思います。

司会 ということは、九州島の国々のなかでの覇権争いが「倭国の乱」に相当するということでしょうか。



三輪そうめん山本では元常務の幕田隆司さんが、当地で発掘された遺物を解説して下さった

3.銅鏡百枚
吉村
 「魏志倭人伝」には卑弥呼は「夫婿(ふせい)なし」とあり、卑弥呼は独身であることがわかります。独身ということは、子どもをつくらせないということです。その後の壹与(いよ)も、宗女(そうじょ)と書いていますから一族だろうと思いますが、おそらく子どもをつくらせないことが主眼です。(中略)独身の女性を王位に就かせるのは、世襲と関係するのではないかと考えています。

西谷 発掘で検出された(纒向遺跡の)建物群は、計画的に設計、建造された「宮室」に相当すると考えます。

石野 ある日突然現れて、ある日突然消える。周囲の集落とは違う土器を特に使う、一直線に大型建物を並べる、これが纒向の特殊性です。


ランチは三輪そうめん山本で、にゅうめんと柿の葉寿司のセット。これは美味しくて温まる!

吉村 (「魏志倭人伝」に)詔書(しょうしょ)が残されて記録されていましたから、この記述はかなり信憑性があります。ここに「銅鏡百枚」が出てきます。この銅鏡とは、どのような鏡なのか。この問題が、これまで大きな争点になっています。従来は三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を中心に考えられてきました。

2世紀前後にまとまってきた倭国において、邪馬台国が倭国の盟主国になるときに、政治の中心地域が北部九州から近畿地方に移行してきたととらえたほうが考え方として妥当ではなかろうか、と思います。

「銅鏡百枚」の可能性として、さらに確度が高いのが画文帯神獣鏡です。(中略)中国にも出土例がありますので、画文帯神獣鏡を配ったとすると、説明はしやすいんですね。漢鏡とは、文様と形態が違いますが、2世紀後半から3世紀初め、近畿地方が中心になって、この画文帯神獣鏡を中国から入手し、それを周辺地域に配布した、と考えますと理解ししやすくなります。(中略)この鏡の分布状況が、邪馬台国問題の考察に大きな意味をもちます。私自身が、徐々に近畿説に移っていった根拠でもあります。

西谷 三角縁神獣鏡舶載(はくさい=輸入)の直前に、画文帯神獣鏡が舶載されており、その分布状況の背景に一定程度の政治的諸関係が形成されつつあったのかもしれません。



箸墓をガイドする雑賀さん

4.卑弥呼の墓
吉村 「魏志倭人伝」に書かれている卑弥呼の墓は、「径百余歩」と記述されています。百数十メートルになります。この数値は、必ずしも厳密ではないでしょうが、その程度の規模は示しているのではないかと考えます。ただし、卑弥呼の墓を箸墓に比定する場合、箸墓はもともと前方後円墳として築造されたものです。そのうちの後円部の大きさが合致するからといって、それを根拠に比定するするような説明のしかたは、問題ではないでしょうか。

石野 径百余歩が円形で150メートルほどだとすると、3世紀なかごろ、あるいは3世紀後半のそのような円墳は日本中、どこにもありません。それで箸墓説の人たちは、よく、円丘部をさきにつくって方丘部を後で継ぎ足したんだ、といいます。極端なのは円丘部が卑弥呼で方丘部が壱与だという説です。(中略)円丘部をさきにつくって前方部を継ぎ足す作業手順は、3世紀後半の兵庫県たつの市の養久山(やくやま)1号墳とか、6世紀ですと九州の福岡県春日市の日拝塚(ひはいづか)古墳とかも、円丘部をさきにつくって前方部を継ぎ足しております。そういうのがありますから、ありえないことではないと思います。

高島 邪馬台国論争は、日本における古代国家成立の過程を明らかにするきわめて重要な歴史課題ですが、近畿か、九州かといった二極論的な論争から脱却しなければ、また何かの発見とストレートに結びつける短絡的な邪馬台国探しではいけない。日本古代国家成立は列島のグローバルな課題であり、列島各地の考古学上、文献学上の成果を十分に踏まえた論争となることが必要だと思います。

司会 かえって謎が深まってしまった、とう思いの方もおられるかと存じますが、これが邪馬台国論争の現状だ、ということで、ご理解いただければ幸いです。

うーん、まさに「かえって謎が深まってしまった」という思いだが、どこが論点になっているかはよく分かった。邪馬台国ツアーで県内をガイドするのは2/17(水)。これらの議論を踏まえ、正確なガイドに努めたいと思う。
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