森本六爾という人をご存じだろうか。「考古学の鬼」と呼ばれた異才である。私は雑賀耕三郎さんのブログ「奈良・桜井の歴史と社会」で知った。そこには、
※トップ写真は森本六爾夫妻顕彰の碑」。1/18の撮影
唐古・鍵遺跡の発掘では森本六爾が忘れられない。今回のコースでは大泉(おいずみ=桜井市)の交差点付近で「森本六爾夫妻顕彰の碑」を拝見することが出来る。森本六爾(もりもとろくじ 1903年~1936年)、唐古・鍵遺跡の壺に残る一粒の籾痕から、いまは常識の「弥生時代は稲作の農耕社会」と証明した。松本清張の断碑と桜井の芝房治(故人)さんの森本六爾論に描かれたのは、こちらの森本六爾である。不遇のうち34歳で亡くなっている。
こんな人がいたのである。桜井市のHPには「森本六爾(もりもとろくじ)夫妻顕彰の碑」《大泉バス停すぐ》という記事が出ている。

顕彰碑の裏の碑文。狭くて、このようにしか撮影できない
大泉バス停の南にある石碑は、当地で明治36年(1903)に生まれ昭和11年(1936)に没した考古学者森本六爾(もりもとろくじ)の顕彰碑(けんしょうひ)です。彼は弥生時代が稲作社会であったことをいち早く見抜き、学界に旋風をまき起こしました。それが証明されたのは、六爾が32歳で夭折(ようせつ)した昭和11年(1936)に唐古遺跡(からこいせき)で始まった発掘調査の成果からでした。
「六爾博物館」というHPに、考古学者・斉藤忠氏(元東京大学教授)のこんな言葉が紹介されている。
森本六爾は、日本の考古学上の多くの人物群の中でも、悲劇的な、しかも異彩を放った人物の一人といえる。とかく、明治・大正以来の学風の伝統の根強かった学界に清新な風を吹き送り、つねに考古学の進むべき目標をみつめながら、逆境とたたかい、東京考古学会の旗幟のもとに、『考古学』を刊行し、溌剌とした研究をなした多才の人物でもあった。
私は想う。もし森本が、奈良県の学校の教員生活に甘んじていたならば、地域考古学に活躍しながら、奈良の地に幸福な生涯をつづけていたかも知れないと。また想う。もし、彼が、期待していた東京帝室博物館に就職し生活に安定していたならば、或いは別な学問の世界におかれたかも知れないと。しかし、運命は、異なったきびしい方向に彼を走らせた。
彼の性格も亦、平凡な生活から、苦難に満ちながらもやり甲斐のある人生を選ばしめた。そして経済的にも健康管理の上にも無理があり、本来の志向と異なって、移りゆき転換してゆく人の世の無情にもだえ苦しみながらも、自己のもつ学問を生かし、学者としての短い生涯を終えたのであった。[斉藤忠編『森本六爾集』日本考古学選集(築地書館)]
近代の奈良を作った偉人と言えば、造林王・土倉庄三郎(どくら・しょうざぶろう)、農事改良に生涯を賭けた中村直三(なかむら・なおぞう)、平城宮跡の保存に尽くした棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう)などの名前が出て来るが、森本六爾にもあい通じるものが感じられる。1つの大きな目的に向かって、脇目を振らずに邁進する。人気のNHK「あさが来た」に登場する広岡浅子や五代友厚などとは、相当違うタイプだ。
森本六爾の記念碑は「大泉バス停」のすぐ南側。ぜひいちど、お訪ねいただき、六爾の功績を偲んでいただきたい。
※トップ写真は森本六爾夫妻顕彰の碑」。1/18の撮影
唐古・鍵遺跡の発掘では森本六爾が忘れられない。今回のコースでは大泉(おいずみ=桜井市)の交差点付近で「森本六爾夫妻顕彰の碑」を拝見することが出来る。森本六爾(もりもとろくじ 1903年~1936年)、唐古・鍵遺跡の壺に残る一粒の籾痕から、いまは常識の「弥生時代は稲作の農耕社会」と証明した。松本清張の断碑と桜井の芝房治(故人)さんの森本六爾論に描かれたのは、こちらの森本六爾である。不遇のうち34歳で亡くなっている。
こんな人がいたのである。桜井市のHPには「森本六爾(もりもとろくじ)夫妻顕彰の碑」《大泉バス停すぐ》という記事が出ている。

顕彰碑の裏の碑文。狭くて、このようにしか撮影できない
大泉バス停の南にある石碑は、当地で明治36年(1903)に生まれ昭和11年(1936)に没した考古学者森本六爾(もりもとろくじ)の顕彰碑(けんしょうひ)です。彼は弥生時代が稲作社会であったことをいち早く見抜き、学界に旋風をまき起こしました。それが証明されたのは、六爾が32歳で夭折(ようせつ)した昭和11年(1936)に唐古遺跡(からこいせき)で始まった発掘調査の成果からでした。
「六爾博物館」というHPに、考古学者・斉藤忠氏(元東京大学教授)のこんな言葉が紹介されている。
森本六爾は、日本の考古学上の多くの人物群の中でも、悲劇的な、しかも異彩を放った人物の一人といえる。とかく、明治・大正以来の学風の伝統の根強かった学界に清新な風を吹き送り、つねに考古学の進むべき目標をみつめながら、逆境とたたかい、東京考古学会の旗幟のもとに、『考古学』を刊行し、溌剌とした研究をなした多才の人物でもあった。
私は想う。もし森本が、奈良県の学校の教員生活に甘んじていたならば、地域考古学に活躍しながら、奈良の地に幸福な生涯をつづけていたかも知れないと。また想う。もし、彼が、期待していた東京帝室博物館に就職し生活に安定していたならば、或いは別な学問の世界におかれたかも知れないと。しかし、運命は、異なったきびしい方向に彼を走らせた。
彼の性格も亦、平凡な生活から、苦難に満ちながらもやり甲斐のある人生を選ばしめた。そして経済的にも健康管理の上にも無理があり、本来の志向と異なって、移りゆき転換してゆく人の世の無情にもだえ苦しみながらも、自己のもつ学問を生かし、学者としての短い生涯を終えたのであった。[斉藤忠編『森本六爾集』日本考古学選集(築地書館)]
近代の奈良を作った偉人と言えば、造林王・土倉庄三郎(どくら・しょうざぶろう)、農事改良に生涯を賭けた中村直三(なかむら・なおぞう)、平城宮跡の保存に尽くした棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう)などの名前が出て来るが、森本六爾にもあい通じるものが感じられる。1つの大きな目的に向かって、脇目を振らずに邁進する。人気のNHK「あさが来た」に登場する広岡浅子や五代友厚などとは、相当違うタイプだ。
森本六爾の記念碑は「大泉バス停」のすぐ南側。ぜひいちど、お訪ねいただき、六爾の功績を偲んでいただきたい。