昨日(2/17)、日本旅行の「古代ロマン 卑弥呼の大和」(おとなび~邪馬台国 畿内説~) という日帰りバスツアーをメインガイドとして案内した。サブガイドは古墳マダム(古墳ガール改め)の道崎美幸さん。前回(2/10)のメインガイド・雑賀耕三郎さんの具合が悪くなり突然、私が入ることになった。芝居のアンダースタディ(代役)ではないが、私も万一に備えて同時並行で勉強していた。それが現実になるとは…。
幸い私は前回のツアーにサポーターとして同乗していたので、雑賀さんのガイド内容は把握していた。配布資料も雑賀さんが用意して下さっていた。雑賀さんのレベルには及びもつかないが、私なりの楽しいガイドをしようと覚悟を決め、本番に臨んだ。
出発は9:00、新大阪駅正面口バス乗り場。ここから香芝サービスエリアでのトイレ休憩をはさみ、唐古・鍵遺跡をめざす。この車中、雑賀さんは「魏志倭人伝」の読み下し文を朗読されていたが、私は高校の日本史教科書である『もういちど読む 山川日本史』(山川出版社刊)の「邪馬台国」のくだりのコピーを配布し、それを読み、解説した。前回のツアーで私は結構、初級者レベルの質問を受けた。難しい話についていけなかった人たちがいたのだ。雑賀さんのガイドは「中~上級者向け」だったが、私は「初~中級者向け」の解説を心がけた。それでまずは高校の教科書から入ったのだ。引用すると、
卑弥呼を女王とする邪馬台国は、後漢末に楽浪郡の南に設けられた帯方郡(たいほうぐん)を経由して魏(ぎ)と通交した。邪馬台国は30カ国ほどを勢力下におく連合国家で、九州北部に外交と諸国の監督のための特別の役人を派遣していた。卑弥呼は239年、魏に使いをおくり、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などをあたえられ、その使者たちもすべて称号と印綬をさずけられた。このように魏が倭を重んじたのは、魏が呉・蜀や高句麗と対立していたためとみられる。
卑弥呼は呪力をもつ司祭者で、「男弟」がこれをたすけて国をおさめ、多くの奴卑がしたがい、宮廷はつねに兵にまもられていた。倭人の国々には大人(たいじん)と下戸(げこ)といわれる身分が成立し、法の秩序がととのい、租税がおさめられ、市(いち)があって諸地域間の交易がおこなわれていた。卑弥呼が死んだあと男王がついだが、国中はしたがわず、壱与(いよ)[台与(とよ)]という女王をたててはじめておさまったという。
邪馬台国の位置については、古くから九州説と大和説がある。もし邪馬台国が九州にあったとすれば、銅鉾(どうほこ)・銅戈(どうか)分布圏を中心とする地域的な連合国家であり、大和にあったとすれば、銅鐸分布圏の勢力がすでに西日本を支配していたことになろう。
さすが山川、簡にして要を得た記述である。最後の3行については少し補足したが、これでお客さんは頭の整理が出来たことだろう。そのあとの車中では、桜井市出身の考古学の鬼・森本六爾(ろくじ)の話をした。
最初の到着地「唐古・鍵遺跡」では、寒風が吹きまくっていた。これは早めに切り上げなければ…。この日は工事が休みの日で柵があり、楼閣建物には近づけない。で、遺跡内の解説板を使って遠くから解説し、また五重の濠も見てもらった。あの寒さでは、これが精一杯だ。
次は纒向石塚古墳(国指定史跡)をめざした。途中、森本六爾夫妻の顕彰碑(大泉バス停前)も、車窓から見ていただいた。石塚古墳では全員、墳丘に登っていただき、その上から「前方部」の痕跡や、用意した弧文板の画像(雑賀さんからお借りしたもの。現物は桜井市埋蔵文化財センターにあった)を見ていただいた。卑弥呼の居館(辻地区の建物群)跡では、復元建物の写真(前回、桜井市埋蔵文化財センターで撮影した)と案内板に出ていた図面を重ね合わせながら、解説。
とにかく寒いし今にも雨(または雪)が降りそうなので、午前の部は早めに切り上げたが、結果的に、これは大正解だった。三輪茶屋(三輪そうめん山本)でのランチのあと、午後一番は、同店と同じ建物内の資料コーナーで、まずは同社元常務・幕田隆司さんの解説を聞く。前回より詳しく、ノリに乗った解説で、お客さんは大喜び。前回は展示を見てからの解説だったが、先に話をしてもらったことが奏効した。現物を見るお客さんの目つきが違う。
ここで「そうだ、午前で時間を浮かせた分、午後の市埋蔵文化財センターでたっぷり時間を取り、学芸員さんにじっくり解説していただこう。学芸員の武田雄志さんは纒向の発掘を担当された方なので、きっと良い話をしていただけるはず」と思いついた。自分に力が足りなければ他人様の力をお借りする、これは私のモットー(?)だ。埋文センターなら暖房も効いているので、1時間取っても大丈夫だろう。ソファーもたくさんある。

三輪そうめん山本の次は徒歩で箸墓。ここは道崎さんが手堅く解説。水を抜いた池面に葺石が転がっているところも見ていただいた。ここも寒いので、短めに切り上げた。三輪そうめん山本に戻ってバスに乗り一路、桜井市埋蔵文化財センターへ。「1時間ほど取れます」と申しあげ、武田さんには相当詳しく解説していただいた。午前の部で私が触れなかったところも、痒いところに手が届くような解説、さすがは纒向遺跡を発掘調査し「桃の種」を掘り当てた人だけのことはある。バスの中で紹介した地図つきパンフレット『纒向へ行こう!』200円などの冊子類は、飛ぶような売れ行きだった。
最後の立ち寄り地、黒塚古墳も時間通りに到着。1階で道崎さんに解説していただいたあと、2階ではたっぷり時間を取って三角縁神獣鏡を見ていただいた。そこから黒塚古墳の墳丘へ。大和三山などの場所を指すと、皆さんとても関心を持って見ておられた。
バスは予定時刻の16:00より10分早く黒塚古墳駐車場を出発、新大阪へお帰りいただいた。道崎さんと私はここでバスを離れ、JR柳本駅に向かった。このあと私は上本町の「大阪奈良県人会」で講話することになっていたのだ。ここから直行したおかげで、何とか間に合い、重責を果たすことができた。

バスツアーのお客さんからは「よく分かった」「楽しかった」というお褒めの言葉をいただき、まぁこれは素直に受け取らせていただきたい。
雑賀さんとの突然のガイド交代で、一時はとても不安だったが、何とか我流で切り抜けることができた。私の流儀は「とにかく分かりやすく」で、そのためには十分な資料を準備する。今回は纒向遺跡の地図のカラーコピーも全員に配布したので、遺跡の全貌がよくお分かりいただけたことと思う。
今回もシニア層が中心のツアーだったが、前回より女性の比率が高かったし、マニアックな方は少なかった。考えてみれば本当のマニアは、団体ツアーではなく個人で来られるのだ。それで私の「初~中級者向け」というねらいがうまくフィットした。
さてこのツアー、残すところあと1回(2/25)、これは雑賀さん(メイン)と私(サブ)のコンビでやることになりそうで、これは楽しみだ。雑賀さん、よろしくお願いいたします!
幸い私は前回のツアーにサポーターとして同乗していたので、雑賀さんのガイド内容は把握していた。配布資料も雑賀さんが用意して下さっていた。雑賀さんのレベルには及びもつかないが、私なりの楽しいガイドをしようと覚悟を決め、本番に臨んだ。
出発は9:00、新大阪駅正面口バス乗り場。ここから香芝サービスエリアでのトイレ休憩をはさみ、唐古・鍵遺跡をめざす。この車中、雑賀さんは「魏志倭人伝」の読み下し文を朗読されていたが、私は高校の日本史教科書である『もういちど読む 山川日本史』(山川出版社刊)の「邪馬台国」のくだりのコピーを配布し、それを読み、解説した。前回のツアーで私は結構、初級者レベルの質問を受けた。難しい話についていけなかった人たちがいたのだ。雑賀さんのガイドは「中~上級者向け」だったが、私は「初~中級者向け」の解説を心がけた。それでまずは高校の教科書から入ったのだ。引用すると、
卑弥呼を女王とする邪馬台国は、後漢末に楽浪郡の南に設けられた帯方郡(たいほうぐん)を経由して魏(ぎ)と通交した。邪馬台国は30カ国ほどを勢力下におく連合国家で、九州北部に外交と諸国の監督のための特別の役人を派遣していた。卑弥呼は239年、魏に使いをおくり、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などをあたえられ、その使者たちもすべて称号と印綬をさずけられた。このように魏が倭を重んじたのは、魏が呉・蜀や高句麗と対立していたためとみられる。
卑弥呼は呪力をもつ司祭者で、「男弟」がこれをたすけて国をおさめ、多くの奴卑がしたがい、宮廷はつねに兵にまもられていた。倭人の国々には大人(たいじん)と下戸(げこ)といわれる身分が成立し、法の秩序がととのい、租税がおさめられ、市(いち)があって諸地域間の交易がおこなわれていた。卑弥呼が死んだあと男王がついだが、国中はしたがわず、壱与(いよ)[台与(とよ)]という女王をたててはじめておさまったという。
邪馬台国の位置については、古くから九州説と大和説がある。もし邪馬台国が九州にあったとすれば、銅鉾(どうほこ)・銅戈(どうか)分布圏を中心とする地域的な連合国家であり、大和にあったとすれば、銅鐸分布圏の勢力がすでに西日本を支配していたことになろう。
さすが山川、簡にして要を得た記述である。最後の3行については少し補足したが、これでお客さんは頭の整理が出来たことだろう。そのあとの車中では、桜井市出身の考古学の鬼・森本六爾(ろくじ)の話をした。
最初の到着地「唐古・鍵遺跡」では、寒風が吹きまくっていた。これは早めに切り上げなければ…。この日は工事が休みの日で柵があり、楼閣建物には近づけない。で、遺跡内の解説板を使って遠くから解説し、また五重の濠も見てもらった。あの寒さでは、これが精一杯だ。
次は纒向石塚古墳(国指定史跡)をめざした。途中、森本六爾夫妻の顕彰碑(大泉バス停前)も、車窓から見ていただいた。石塚古墳では全員、墳丘に登っていただき、その上から「前方部」の痕跡や、用意した弧文板の画像(雑賀さんからお借りしたもの。現物は桜井市埋蔵文化財センターにあった)を見ていただいた。卑弥呼の居館(辻地区の建物群)跡では、復元建物の写真(前回、桜井市埋蔵文化財センターで撮影した)と案内板に出ていた図面を重ね合わせながら、解説。
とにかく寒いし今にも雨(または雪)が降りそうなので、午前の部は早めに切り上げたが、結果的に、これは大正解だった。三輪茶屋(三輪そうめん山本)でのランチのあと、午後一番は、同店と同じ建物内の資料コーナーで、まずは同社元常務・幕田隆司さんの解説を聞く。前回より詳しく、ノリに乗った解説で、お客さんは大喜び。前回は展示を見てからの解説だったが、先に話をしてもらったことが奏効した。現物を見るお客さんの目つきが違う。
ここで「そうだ、午前で時間を浮かせた分、午後の市埋蔵文化財センターでたっぷり時間を取り、学芸員さんにじっくり解説していただこう。学芸員の武田雄志さんは纒向の発掘を担当された方なので、きっと良い話をしていただけるはず」と思いついた。自分に力が足りなければ他人様の力をお借りする、これは私のモットー(?)だ。埋文センターなら暖房も効いているので、1時間取っても大丈夫だろう。ソファーもたくさんある。

桜井市埋蔵文化財センター学芸員の武田雄志さん
三輪そうめん山本の次は徒歩で箸墓。ここは道崎さんが手堅く解説。水を抜いた池面に葺石が転がっているところも見ていただいた。ここも寒いので、短めに切り上げた。三輪そうめん山本に戻ってバスに乗り一路、桜井市埋蔵文化財センターへ。「1時間ほど取れます」と申しあげ、武田さんには相当詳しく解説していただいた。午前の部で私が触れなかったところも、痒いところに手が届くような解説、さすがは纒向遺跡を発掘調査し「桃の種」を掘り当てた人だけのことはある。バスの中で紹介した地図つきパンフレット『纒向へ行こう!』200円などの冊子類は、飛ぶような売れ行きだった。
最後の立ち寄り地、黒塚古墳も時間通りに到着。1階で道崎さんに解説していただいたあと、2階ではたっぷり時間を取って三角縁神獣鏡を見ていただいた。そこから黒塚古墳の墳丘へ。大和三山などの場所を指すと、皆さんとても関心を持って見ておられた。
バスは予定時刻の16:00より10分早く黒塚古墳駐車場を出発、新大阪へお帰りいただいた。道崎さんと私はここでバスを離れ、JR柳本駅に向かった。このあと私は上本町の「大阪奈良県人会」で講話することになっていたのだ。ここから直行したおかげで、何とか間に合い、重責を果たすことができた。

バスツアーのお客さんからは「よく分かった」「楽しかった」というお褒めの言葉をいただき、まぁこれは素直に受け取らせていただきたい。
雑賀さんとの突然のガイド交代で、一時はとても不安だったが、何とか我流で切り抜けることができた。私の流儀は「とにかく分かりやすく」で、そのためには十分な資料を準備する。今回は纒向遺跡の地図のカラーコピーも全員に配布したので、遺跡の全貌がよくお分かりいただけたことと思う。
今回もシニア層が中心のツアーだったが、前回より女性の比率が高かったし、マニアックな方は少なかった。考えてみれば本当のマニアは、団体ツアーではなく個人で来られるのだ。それで私の「初~中級者向け」というねらいがうまくフィットした。
さてこのツアー、残すところあと1回(2/25)、これは雑賀さん(メイン)と私(サブ)のコンビでやることになりそうで、これは楽しみだ。雑賀さん、よろしくお願いいたします!