いよいよ今日(2/17)は、JR・日本旅行による「邪馬台国畿内説ツアー」!私がメインガイド、サブガイドは古墳ガールの道崎美幸さんである。今回も金沢、広島、岡山方面などからのご参加者で、満員御礼のヒット企画となった。邪馬台国畿内説の根城となるのは、纒向(まきむく)遺跡である。学校ではどのように教えているか、学習百科事典『ポプラディア』によると、
※写真はすべて2月10日撮影。ガイドは雑賀耕三郎さん。トップ写真は纒向石塚古墳前
奈良県桜井市にある弥生時代から古墳時代の遺跡。集落跡や、箸墓古墳や纒向石塚古墳などがふくまれる。全長96mの纒向石塚古墳は遺跡内で最古級の前方後円墳として知られ、土器の形式などから古墳時代初期、大和政権初期につくられたと推定されている。遺跡には、ほかの地方からもちこまれた土器も多く、各地から人や物が集まる重要な地だったことがうかがえる。
諸説あるが、「古墳時代」とは箸墓古墳が築造されて以降の時代をいう。纒向石塚古墳は「纒向型前方後円墳」といって、箸墓以降の(正式な)前方後円墳より前の時代の古墳となる。ともあれ、桜井市纒向学研究センターのHP「纒向遺跡ってどんな遺跡?」に詳しい情報が出ている。
纒向遺跡
桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。
この遺跡は広大な面積を有する事や、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳・ホケノ山古墳・南飛塚(みなみとびづか)古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が日本で最初に築かれている事、農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事等、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されています。
遺跡の発掘調査は1971年以降、桜井市教育委員会と県立橿原考古学研究所によって現在までに180次を超える調査が継続的に行われ、2013年には一部が国史跡に指定されたものの、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されています。
そして「卑弥呼の居跡か」と話題になった辻地区の建物群については、

辻地区の建物群(桜井市大字辻)
辻地区において検出された掘立柱建物と柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。
このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇ります。近年実施された纒向遺跡第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑(どこう)が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されています。
纒向遺跡の代表的な古墳は、まずは纒向石塚古墳である。ここは私が案内する。
纒向石塚古墳(国指定史跡)(桜井市大字太田)
標高69m前後の扇状地上に立地する纒向石塚古墳は、1971年の調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、庄内0式期(3世紀初頭)の築造とされ、最古の古墳として注目された古墳です。埴輪や葺石はなく、全長約94m、後円部径約64m、前方部長約30mと、全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の纒向型前方後円墳の典型的なスタイルを持ちますが、第二次大戦中には高射砲陣地の設営のために埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されています。
墳丘の構造は纒向遺跡第87次(纒向石塚古墳第8次)調査で後円部西側の一部に段築が残っている事が確認され、本来は後円部3段、前方部には段築が無かったものと想定されています。また、纒向遺跡第55次(纒向石塚古墳第4次)調査では前方部の形状と前方部前面の区画溝のほか、周濠へ水を引き込む導水溝どうすいみぞの存在も確認されています。
この古墳からは墳丘盛土内や幅約20mの周濠から出土した多くの土器群のほか、鋤すき・鍬・建築部材・鶏形木製品・弧文円板(こもんえんばん)などの木製品が出土しており、遺物は比較的豊富にあるものの、築造時期については現在、庄内1式期(3世紀前半)とする説と、築造が庄内3式期(3世紀中頃)で埋葬を布留0式期(3世紀後半)とする説の2者があります。
そして卑弥呼の墓説もある箸墓古墳。こちらは道崎さんがガイドする。

箸墓古墳前
箸墓古墳(桜井市大字箸中)
纒向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長約280mの前方後円墳で、後円部径は155m、前方部長125mで、墳丘は葺石(ふきいし)を持ち、後円部は円形壇を含めて5段、前方部前面が4段の段築(だんちく)で構成されますが、前方部側面にも複数の段築の存在が想定されています。
この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として陵墓指定され、立ち入りが制限されていますが、墳丘周辺では纒向遺跡第81次調査で前方部北裾の調査が行われ、墳丘裾とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠(しゅうごう)状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が検出されています。さらに、後円部東南裾部における纒向遺跡第109次調査では、葺石を施した渡り堤や周濠、外堤状の高まりが確認されています。
この古墳からの出土品には、布留1式期(4世紀初め)と現存最古の木製輪鐙(もくせいわあぶみ)をはじめとして、各調査出土の土器や木製品、墳丘上において宮内庁によって採集された遺物などがあります。これには多くの土器片のほか、後円部墳頂付近で採集された宮山型特殊器台(みややまがたとくしゅきだい)や都月型円筒埴輪(とつきがたえんとうはにわ)・特殊壷(とくしゅつぼ)、前方部墳頂付近において採集された二重口縁壷などがあり、築造時期は布留0式期の3世紀中頃から後半と考えられています。
「卑弥呼の家」と書かれた表札とか「卑弥呼の墓」という墓誌が出てくれば完璧だが、残念ながら、そこまでは発掘されていない。いわば「状況証拠」だけの推定である。
しかし「推定無罪」は刑事裁判の話。地元ガイド(桜井市観光ボランティアガイドの会)は、邪馬台国ツアーのガイドはしないと聞いているが、ウチ(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」)は違う。「邪馬台国は纒向!」を全面に打ち出して、明日は楽しくガイドをさせていただくつもりである。機会があれば、またこんなツアーを企画したいものだ。
※写真はすべて2月10日撮影。ガイドは雑賀耕三郎さん。トップ写真は纒向石塚古墳前
奈良県桜井市にある弥生時代から古墳時代の遺跡。集落跡や、箸墓古墳や纒向石塚古墳などがふくまれる。全長96mの纒向石塚古墳は遺跡内で最古級の前方後円墳として知られ、土器の形式などから古墳時代初期、大和政権初期につくられたと推定されている。遺跡には、ほかの地方からもちこまれた土器も多く、各地から人や物が集まる重要な地だったことがうかがえる。
諸説あるが、「古墳時代」とは箸墓古墳が築造されて以降の時代をいう。纒向石塚古墳は「纒向型前方後円墳」といって、箸墓以降の(正式な)前方後円墳より前の時代の古墳となる。ともあれ、桜井市纒向学研究センターのHP「纒向遺跡ってどんな遺跡?」に詳しい情報が出ている。
纒向遺跡
桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。
この遺跡は広大な面積を有する事や、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳・ホケノ山古墳・南飛塚(みなみとびづか)古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が日本で最初に築かれている事、農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事等、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されています。
遺跡の発掘調査は1971年以降、桜井市教育委員会と県立橿原考古学研究所によって現在までに180次を超える調査が継続的に行われ、2013年には一部が国史跡に指定されたものの、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されています。
そして「卑弥呼の居跡か」と話題になった辻地区の建物群については、

辻地区の建物群跡地。右手奥はJR巻向駅
辻地区の建物群(桜井市大字辻)
辻地区において検出された掘立柱建物と柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。
このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇ります。近年実施された纒向遺跡第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑(どこう)が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されています。
纒向遺跡の代表的な古墳は、まずは纒向石塚古墳である。ここは私が案内する。
纒向石塚古墳(国指定史跡)(桜井市大字太田)
標高69m前後の扇状地上に立地する纒向石塚古墳は、1971年の調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、庄内0式期(3世紀初頭)の築造とされ、最古の古墳として注目された古墳です。埴輪や葺石はなく、全長約94m、後円部径約64m、前方部長約30mと、全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の纒向型前方後円墳の典型的なスタイルを持ちますが、第二次大戦中には高射砲陣地の設営のために埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されています。
墳丘の構造は纒向遺跡第87次(纒向石塚古墳第8次)調査で後円部西側の一部に段築が残っている事が確認され、本来は後円部3段、前方部には段築が無かったものと想定されています。また、纒向遺跡第55次(纒向石塚古墳第4次)調査では前方部の形状と前方部前面の区画溝のほか、周濠へ水を引き込む導水溝どうすいみぞの存在も確認されています。
この古墳からは墳丘盛土内や幅約20mの周濠から出土した多くの土器群のほか、鋤すき・鍬・建築部材・鶏形木製品・弧文円板(こもんえんばん)などの木製品が出土しており、遺物は比較的豊富にあるものの、築造時期については現在、庄内1式期(3世紀前半)とする説と、築造が庄内3式期(3世紀中頃)で埋葬を布留0式期(3世紀後半)とする説の2者があります。
そして卑弥呼の墓説もある箸墓古墳。こちらは道崎さんがガイドする。

箸墓古墳前
箸墓古墳(桜井市大字箸中)
纒向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長約280mの前方後円墳で、後円部径は155m、前方部長125mで、墳丘は葺石(ふきいし)を持ち、後円部は円形壇を含めて5段、前方部前面が4段の段築(だんちく)で構成されますが、前方部側面にも複数の段築の存在が想定されています。
この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として陵墓指定され、立ち入りが制限されていますが、墳丘周辺では纒向遺跡第81次調査で前方部北裾の調査が行われ、墳丘裾とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠(しゅうごう)状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が検出されています。さらに、後円部東南裾部における纒向遺跡第109次調査では、葺石を施した渡り堤や周濠、外堤状の高まりが確認されています。
この古墳からの出土品には、布留1式期(4世紀初め)と現存最古の木製輪鐙(もくせいわあぶみ)をはじめとして、各調査出土の土器や木製品、墳丘上において宮内庁によって採集された遺物などがあります。これには多くの土器片のほか、後円部墳頂付近で採集された宮山型特殊器台(みややまがたとくしゅきだい)や都月型円筒埴輪(とつきがたえんとうはにわ)・特殊壷(とくしゅつぼ)、前方部墳頂付近において採集された二重口縁壷などがあり、築造時期は布留0式期の3世紀中頃から後半と考えられています。
「卑弥呼の家」と書かれた表札とか「卑弥呼の墓」という墓誌が出てくれば完璧だが、残念ながら、そこまでは発掘されていない。いわば「状況証拠」だけの推定である。
しかし「推定無罪」は刑事裁判の話。地元ガイド(桜井市観光ボランティアガイドの会)は、邪馬台国ツアーのガイドはしないと聞いているが、ウチ(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」)は違う。「邪馬台国は纒向!」を全面に打ち出して、明日は楽しくガイドをさせていただくつもりである。機会があれば、またこんなツアーを企画したいものだ。