毎月1回程度、奈良新聞の「明風清音」欄に寄稿している。今、聖徳太子のことを調べているので、先月(2022.1.27付)のテーマは、『四天王寺縁起』とした。四天王寺には何度もお参りしたが、すっきりした鉄筋コンクリート造りの伽藍は、いかにも大阪らしくていい。では、記事全文を紹介する。
※写真は「聖徳太子千四百年御聖忌慶讃大法会」(仁王門前)の日に撮影(2021.10.18)
〈四天王寺と太子信仰〉
昨年は聖徳太子1400年忌の年だったが、今年は太子の没後1400年(周年)。昨年同様、今年も太子が話題にのぼることだろう。奈良で聖徳太子の寺といえば法隆寺だが、大阪ではやはり四天王寺だ。
太子が蘇我馬子とともに排仏派の物部守屋討伐のとき、戦勝を祈ってヌルデ(ウルシ科)の木で四天王像を作り、用明天皇2年(587)に勝利を得たことを謝して建てたのが創始とされる。これにより四天王寺は、「日本仏法最初」(日本最古の官寺)をうたう。

▼信仰の百貨店
同寺は「信仰の百貨店」と称される。聖徳太子信仰をはじめとするさまざまな信仰により、多くの信者を引きつけてきたからである。同寺にとって最も大切な法要は、聖徳太子の命日の4月22日に行われる聖霊会(しょうりょうえ)だ。六時堂前の石の舞台では、天王寺楽所(がくそ)による舞楽が奉納される。1月12日には、太子の誕生を祝う法要が境内の五智光院で営まれる。太子の月命日である毎月22日には太子会(縁日)が催される。
弘法大師空海の月命日である毎月21日には、大師会が催され、太子会を上回る参詣者を集める。空海が聖徳太子の後身とする説に基づくものだ。また最澄が堂宇を建立したという寺伝に基づき、6月4日には講堂・一乗院で伝教大師忌法要が営まれる。このほか鎌倉新仏教の開祖に関わる堂宇や行事が、数多く残されている。

▼『四天王寺縁起』の出現
話を聖徳太子信仰に戻す。太子の寺として信仰を集めた四天王寺だったが、たび重なる災害に翻弄される。平安時代の承和3年(836)には落雷で塔が損壊、天徳4年(960)には火災によって全山が焼亡した。
寺勢が衰えを見せるなかで突然、とんでもない援軍が現れた。聖徳太子自筆の書とされる『四天王寺縁起』(国宝)の出現である。寛弘4年(1007)、四天王寺の僧侶・慈蓮(慈運)が、金堂の金塗りの六重塔の中から発見したのだという。
奥書には、推古天皇3年(595)に聖徳太子が編纂し金堂内に納入したとあり、その証しとして、末尾には太子の手印(手形)26個が押されていた。同縁起の内容は寺の縁起、資財帳と太子自身が語る自らの事績など。太子の事績は前世から現世、さらに来世に至るまで(未来予言)のさまざまなものが記されている。
四天王寺を敬い、同寺に対して寄進すれば、極楽浄土に往生することができる。さらに「宝塔金堂相当極楽土東門中心」とあり、同寺の西門は極楽浄土の東門であるとされ、日想観(浄土を観想するため西に向かい太陽の沈む様子を見ること)など浄土信仰の聖地としての性格が加わった。これにより同寺には極楽往生を願う人々が、貴賤を問わず集うこととなった。
のち後醍醐天皇は同縁起を自ら筆写し、その写本の奥書に所領を寄進することを記した。これは『後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起』といわれ、こちらも国宝に指定されている。
しかしこの『四天王寺縁起』、今では様々な研究により、寛弘4年ごろ聖徳太子に仮託して制作されたもの、つまりニセモノだとされている。出現当時は、ニセモノを疑う人もいなかったのだろう。同縁起の出現により、天皇や貴族の参拝が急増し、伽藍修復の財源も確保できた。作戦は大成功を収めたのである。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
※写真は「聖徳太子千四百年御聖忌慶讃大法会」(仁王門前)の日に撮影(2021.10.18)
〈四天王寺と太子信仰〉
昨年は聖徳太子1400年忌の年だったが、今年は太子の没後1400年(周年)。昨年同様、今年も太子が話題にのぼることだろう。奈良で聖徳太子の寺といえば法隆寺だが、大阪ではやはり四天王寺だ。
太子が蘇我馬子とともに排仏派の物部守屋討伐のとき、戦勝を祈ってヌルデ(ウルシ科)の木で四天王像を作り、用明天皇2年(587)に勝利を得たことを謝して建てたのが創始とされる。これにより四天王寺は、「日本仏法最初」(日本最古の官寺)をうたう。

▼信仰の百貨店
同寺は「信仰の百貨店」と称される。聖徳太子信仰をはじめとするさまざまな信仰により、多くの信者を引きつけてきたからである。同寺にとって最も大切な法要は、聖徳太子の命日の4月22日に行われる聖霊会(しょうりょうえ)だ。六時堂前の石の舞台では、天王寺楽所(がくそ)による舞楽が奉納される。1月12日には、太子の誕生を祝う法要が境内の五智光院で営まれる。太子の月命日である毎月22日には太子会(縁日)が催される。
弘法大師空海の月命日である毎月21日には、大師会が催され、太子会を上回る参詣者を集める。空海が聖徳太子の後身とする説に基づくものだ。また最澄が堂宇を建立したという寺伝に基づき、6月4日には講堂・一乗院で伝教大師忌法要が営まれる。このほか鎌倉新仏教の開祖に関わる堂宇や行事が、数多く残されている。

▼『四天王寺縁起』の出現
話を聖徳太子信仰に戻す。太子の寺として信仰を集めた四天王寺だったが、たび重なる災害に翻弄される。平安時代の承和3年(836)には落雷で塔が損壊、天徳4年(960)には火災によって全山が焼亡した。
寺勢が衰えを見せるなかで突然、とんでもない援軍が現れた。聖徳太子自筆の書とされる『四天王寺縁起』(国宝)の出現である。寛弘4年(1007)、四天王寺の僧侶・慈蓮(慈運)が、金堂の金塗りの六重塔の中から発見したのだという。
奥書には、推古天皇3年(595)に聖徳太子が編纂し金堂内に納入したとあり、その証しとして、末尾には太子の手印(手形)26個が押されていた。同縁起の内容は寺の縁起、資財帳と太子自身が語る自らの事績など。太子の事績は前世から現世、さらに来世に至るまで(未来予言)のさまざまなものが記されている。
四天王寺を敬い、同寺に対して寄進すれば、極楽浄土に往生することができる。さらに「宝塔金堂相当極楽土東門中心」とあり、同寺の西門は極楽浄土の東門であるとされ、日想観(浄土を観想するため西に向かい太陽の沈む様子を見ること)など浄土信仰の聖地としての性格が加わった。これにより同寺には極楽往生を願う人々が、貴賤を問わず集うこととなった。
のち後醍醐天皇は同縁起を自ら筆写し、その写本の奥書に所領を寄進することを記した。これは『後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起』といわれ、こちらも国宝に指定されている。
しかしこの『四天王寺縁起』、今では様々な研究により、寛弘4年ごろ聖徳太子に仮託して制作されたもの、つまりニセモノだとされている。出現当時は、ニセモノを疑う人もいなかったのだろう。同縁起の出現により、天皇や貴族の参拝が急増し、伽藍修復の財源も確保できた。作戦は大成功を収めたのである。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
