先月(2022年1月)から、金峯山寺長臈(ちょうろう)・種智院大学客員教授の田中利典師はご自身のFacebookで、ご著書『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社新書)の内容紹介を始められた。この本はとても分かりやすい仏教の入門書で、自信を持ってお薦めできる本だ。
※トップ写真は伊勢神宮。田中利典師のFacebook(1/14付)から拝借した
私もかつて当ブログで紹介させていただいた。原著者による抜粋とは、有り難いことだ。これから断続的に、利典師がFacebookに書かれた内容を紹介したい。初回は1/14(金)に書かれた文章である。
シリーズ「祈りについて」①
拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』は4年前に上梓されました。もう書店では置いてないですが、金峯山寺にはまだ置いています。本著の中から、しばし、いくつかのテーマで、私が言いたかったことを紹介しています。よろしければご覧下さい。
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「人智を超えたものに手を合わすのが祈りの原点です」
本章の最初に「弔い」と「祈り」が人間らしい行為という話をいたしました。では仏教における「祈り」とはなんなのでしょう。「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行の歌があります。これは伊勢神宮にお参りしたときの歌で、神宮の神々しい佇まいに対して胸打たれた気持ちを詠んだものだと言われています。
真言宗の僧侶であった西行は、神道のことは詳しくは知らないので、「しらねども」と表現したわけですが、そこに人智を超えたもの、サムシング・グレートを感じとったということでしょう。祈りとは、このサムシング・グレートを信じ、感じとることにほかならず、感じ取った存在に対して手を合わせるというのが祈りの出発点です。
仏壇のコマーシャルで「お手々のしわとしわを合わせると幸せ」というのがありますが、人間の体でいちばん離れているのは、じつは右の手と左の手の間です。両手を大きく広げれば、それが実感できるでしょう。
祈るときに両手を合わせるのはキリスト教でもイスラム教でも同じです。神社でも「二礼二拍手一礼」などといいますね。拍手する、あるいは柏手をうつというのも広義にとらえれば手を合わせる行為ですし、最後に一礼するときは両の手をまっすぐ伸ばしている方もおられるようですが、そこに至るまでは拍手したまま手を合わせて祈っている姿を見かけることが多いです。合掌する。離れた両の手を中央で合わせると自ずと謙虚な気持ちが沸き上がってくるものです。
また余談ですが「両掌相打って音声あり。隻手になんの音声がある?」という有名な禅の公案があります。公案とは修行者が悟りをひらくために課題を解くものですが、ひと言でいえば禅問答でしょうか。「両手を打てばパンと音がするが、隻手、片手だとどうなる?」という問いかけです。もちろん、答えはひとつではありませんが、ある方が次のような解釈をされていました。
「片手を振っても確かに音は出せないが、そばにいる別の人の手(片手)と自分の手を合わせる。相手が左なら自分は右、相手が左なら自分の右手を合わせて見る。ふたりの手がぴたりと合わさると、ひとつになり一体感が生まれる。相手の体温がこちらに伝わり、こちらの体温が相手に伝わっていく。体温は体音と言い換えてもいいかもしれない。一体感はあるがそれぞれの存在感もあり、共感につながる」
人はひとりではなく互いに支え合うということにも通じるいい解釈ですね。手を合わせれば、それが自分ひとりの両手でも、あるいはほかの人の片手と自分の片手であっても、合わせたときに人間の力を超える大いなる力が湧いてくるということなのかもしれません。
*写真は西行法師も思わず、「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」と歌を詠んだ伊勢神宮
~拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社BOOKS新書)からの跋文/電子書籍でも読めます。
※トップ写真は伊勢神宮。田中利典師のFacebook(1/14付)から拝借した
私もかつて当ブログで紹介させていただいた。原著者による抜粋とは、有り難いことだ。これから断続的に、利典師がFacebookに書かれた内容を紹介したい。初回は1/14(金)に書かれた文章である。
シリーズ「祈りについて」①
拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』は4年前に上梓されました。もう書店では置いてないですが、金峯山寺にはまだ置いています。本著の中から、しばし、いくつかのテーマで、私が言いたかったことを紹介しています。よろしければご覧下さい。
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「人智を超えたものに手を合わすのが祈りの原点です」
本章の最初に「弔い」と「祈り」が人間らしい行為という話をいたしました。では仏教における「祈り」とはなんなのでしょう。「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行の歌があります。これは伊勢神宮にお参りしたときの歌で、神宮の神々しい佇まいに対して胸打たれた気持ちを詠んだものだと言われています。
真言宗の僧侶であった西行は、神道のことは詳しくは知らないので、「しらねども」と表現したわけですが、そこに人智を超えたもの、サムシング・グレートを感じとったということでしょう。祈りとは、このサムシング・グレートを信じ、感じとることにほかならず、感じ取った存在に対して手を合わせるというのが祈りの出発点です。
仏壇のコマーシャルで「お手々のしわとしわを合わせると幸せ」というのがありますが、人間の体でいちばん離れているのは、じつは右の手と左の手の間です。両手を大きく広げれば、それが実感できるでしょう。
祈るときに両手を合わせるのはキリスト教でもイスラム教でも同じです。神社でも「二礼二拍手一礼」などといいますね。拍手する、あるいは柏手をうつというのも広義にとらえれば手を合わせる行為ですし、最後に一礼するときは両の手をまっすぐ伸ばしている方もおられるようですが、そこに至るまでは拍手したまま手を合わせて祈っている姿を見かけることが多いです。合掌する。離れた両の手を中央で合わせると自ずと謙虚な気持ちが沸き上がってくるものです。
また余談ですが「両掌相打って音声あり。隻手になんの音声がある?」という有名な禅の公案があります。公案とは修行者が悟りをひらくために課題を解くものですが、ひと言でいえば禅問答でしょうか。「両手を打てばパンと音がするが、隻手、片手だとどうなる?」という問いかけです。もちろん、答えはひとつではありませんが、ある方が次のような解釈をされていました。
「片手を振っても確かに音は出せないが、そばにいる別の人の手(片手)と自分の手を合わせる。相手が左なら自分は右、相手が左なら自分の右手を合わせて見る。ふたりの手がぴたりと合わさると、ひとつになり一体感が生まれる。相手の体温がこちらに伝わり、こちらの体温が相手に伝わっていく。体温は体音と言い換えてもいいかもしれない。一体感はあるがそれぞれの存在感もあり、共感につながる」
人はひとりではなく互いに支え合うということにも通じるいい解釈ですね。手を合わせれば、それが自分ひとりの両手でも、あるいはほかの人の片手と自分の片手であっても、合わせたときに人間の力を超える大いなる力が湧いてくるということなのかもしれません。
*写真は西行法師も思わず、「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」と歌を詠んだ伊勢神宮
~拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社BOOKS新書)からの跋文/電子書籍でも読めます。