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田中利典師の『よく生き、よく死ぬための仏教入門』扶桑社新書(6)「死に習う」

2022年02月25日 | 田中利典師曰く
田中利典師の名著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社新書)を振り返るシリーズの6回目、これが最終回となりました。師のFacebook(1/19付)から、抜粋させていただきます。

シリーズ最終稿「在家仏教のすすめ/死に習う」
拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』は4年前に上梓されました。もう書店では置いてないですが、金峯山寺にはまだ置いています。本著の中から、しばし、いくつかのテーマで、私が言いたかったことを紹介してきました。本日はその最終章。よろしければご覧下さい。

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「生と死・聖と俗は表裏一体。優婆塞のすすめ」
私の師である五條順教猊下の座右の銘で、よくお説きになった言葉が「死に習う」です。修験については後述しますが。修験の修行は死と隣り合わせです。「大峯山裏行場平等岩」や「前鬼山天の二十八宿」などの行場は、一般の方なら足元がすくむような道を命綱なしでよじ登ったり、断崖絶壁に人の支えだけで身を乗り出したりもします。

必然的に死を意識しますし、同時に、その死を通して、自分が生きているありがたさ、喜びを実感もできるのです。また自分の命をいわば相手に全面的に委ねることで、人と人とのつながりの大切さも体にしみこませることができ、おのれの小ささを実感し、人智を超えたものへの感謝と一体感を感じることもできます。

仏教には、教理仏教という側面と生活仏教という側面とがあると思います。2500年前にお釈迦さまがお説きになった仏教の教え、それをもとにして、仏教は現代に伝わってきました。ですから、お釈迦さまが説いたそのままではないけれども、教理的にはお釈迦さまにつながるものをもっていなければ、仏教の存在意義が問われます。一方で、その教理をもとにして、その土地の人々、その風土に応じて、その生活のなかで活かされている生活仏教を抜きにしては、仏教の存在はなかったのです。

われわれは修験・山伏の修行のなかで、「山の行より里の行」ということをよく言います。山で修行して得た力を里で活かすことが山伏であって、山で修行してある境地に達して、そのまま山に住んで空に飛んでいくと、それは仙人であって、山伏とは言いいません。山伏というのは山で修行した力を里で活かすこと、山で得たことを里の行で行うことにこそ意味があるのです。

いわば聖なる世界と俗世間の架け橋となる、あるいは聖性をもちながら、日々を正しく、よく生きるということです。また、死を意識すること、死に習うことで、生がより際立ってくるということでもあります。

修験は優婆塞の宗教です。仏教では四衆といって出家の修行者を比丘(男性)、比丘尼(女性)と呼び、在家の修行者を優婆塞(男性)、優婆夷(女性)と呼ぶのですが、修験道は、優婆塞、優婆夷、つまり在家を本義としています。原理や教義にあまり縛られない、俗世に生きる庶民の宗教です。

先ほど記したKさんは、亡くなる前の日に「自分が死んだら比叡山の霊園墓地に墓をつくって、そこに祀ってほしい」とか、「会社のことはきちっと整理してあるから、これで老後も大丈夫だから」とか言い、「それでは夫婦ふたりで暮らしていくには足らないから、無理でしょう」と奥さんが言ったら、「大丈夫、僕は先に死ぬから」と答えられたというのです。前の日に言うべきことを全部言って亡くなられたそうです。

常に死と背中合わせで生きているのが人間の現実なのですから、いつでも自分の処し方というものをもっておくことが肝要でしょう。奥様もKさんの死をすぐには受けとめられなかったかもしれませんが、ご主人の死を通して、ご自身の生きる道を整えていかれたと思います。辛い状況のなかで、ご主人の死を受け止め、その死に習ってご自身を見つめ直し、人として生きていくことを根本的に考えることになったのだと思います。

親の死や伴侶の死に直面したとき、自分の死を考えたとき、自分の身の処し方を考えるとき、優婆塞や優婆夷としての生き方に得られるものは多いと思います。

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今回のシリーズはここまで…。長らくのお付き合い、ありがとうございました。長いので読んでもらえたのかどうか、自信はありませんけど。拙著を紹介するシリーズは少しおやすみをして、次回は修験道編で、再開したいと思います。乞うご期待!なお、本稿のこの先は拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社BOOKS新書)/電子書籍をご覧下さい。
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