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神功皇后を祭る畝火山口神社/毎日新聞「やまとの神さま」第10回

2022年06月28日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2022.6.23)掲載されたのは〈山頂に移転し、また下り/畝火山口神社(橿原市)〉、執筆されたのは当会会員で今井町町並み保存会相談役の若林稔(梅香)さんだ。
※トップ写真は、畝傍山の懐に抱かれた畝火山口神社の拝殿=橿原市大谷町で

ご執筆前、この神社について若林さんからは興味深いお話をたくさんお聞きしていたが、紙面ではずいぶんきれいに刈り込まれていた。もったいないので、刈り取られた話を紹介すると、以下の通りとなる。

1.代々宮司を務める大谷家のご先祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)である。
『髙市郡神社誌』にも〈大谷家 畝火山口神社神職 大谷家は武内宿禰より出づ、文治二年(1186年)其の末葉大谷源右衛門景之始めて 畝火山口神社の神主となる〉とある。

2.神功皇后が皇子(のちの応神天皇)を出産されたのは、三韓征伐に出発する前だった。
『日本書紀』には帰国してから筑紫で出産したとあるが、畝火山口神社の社伝「神功皇后皇子御誕生」によると〈第十四代仲哀天皇の后(きさき)神功皇后は、天皇に代わり三韓征伐に出発する事になりました。畝傍山で無事に皇子を出産された皇后は、生まれて間もない皇子を武ノ内宿禰にあずけて、髪を鬟(みずら)に結い、勇ましい出で立ちで出陣していかれました〉。これにちなんで畝火山口神社は安産の神さま・お峯山(むねやま)と呼ばれ、戌の日には多くの人が腹帯を授かる。

3.畝火山口神社が畝傍山山頂から現在地に移されたのは、神威を穢(けが)すから。
昭和15年の紀元2600年祭のとき、東麓の神武天皇陵を見下ろすことは神威を穢すとされ、西麓に移された


前置きが長くなった。では掲載された記事全文を紹介する。

畝火山口神社(橿原市)
「お峯山(むねやま)」とも呼ばれている神社の創始は明らかではありませんが、806(大同元)年の「新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)」に名が初めて登場し、これ以前の創建とされます。平安時代の「延喜式神名帳(じんみょうちょう)」では式内大社に登載されました。

江戸時代に刊行された「大和名所図会(ずえ)」には「昔山麓(さんろく)にあり、今山頂に移す」とあって、室町時代後期に畝傍山西側山麓から山頂に移されました。約400年たった1940(昭和15)年の皇紀2600年祭で、東麓の神武天皇陵を見下ろす場所は好ましくないと、再度西麓に移されました。

毎年7月28日の夏季大祭はデンデンデンソソと打つ太鼓の音から「でんそそ祭り」と呼ばれ、大淀町の吉野川から汲(く)んできたご神水が神前に供えられ、境内は浴衣姿などでの参詣者で賑います。「夏痩(や)せする子には綿入れの着物を着せてお参りしたらご利益がある」などの言い伝えもあります。

「日本書紀」によると、祭神の気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后)は、古代の朝鮮出兵の際、応神天皇を出産。このため「安産の守り神」とされ、戌(いぬ)の日に腹帯を求める人たちが訪れます。大阪の住吉大社から神官が2月と11月の年2回、神社を訪れ、畝傍山山頂で埴土(はにつち)を採取する「埴取り」神事も有名です。(奈良まほろばソムリエ会会員 若林稔)

(住所)橿原市大谷町157の1
(祭神)気長足姫命、豊受比売命(とようけひめのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)
(交通)近鉄橿原神宮西口駅から徒歩約15分
(拝観)境内自由
(駐車場)有(17台)
(電話)0744・22・4960


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