今日の「田中利典師曰く」は、宗教人類学者植島啓司氏、熊野本宮大社九鬼家隆宮司と利典師との鼎談をまとめた『熊野 神と仏』(原書房刊)からの引用である。本書は2009年に刊行され、私の愛読書であるが昨日(2024.12.15)、利典師がご自身のFBで紹介されたので今日、当ブログに転載することにした。とてもいい文章である。
版元の紹介文によると、本書は〈熊野は、熊野三山、奈良吉野金峯山寺、伊勢神宮、高野山を結ぶ、参詣と修行の道が縦横に走る希有な場所。神道、仏教、修験道を融合させた特異性、日本の宗教観を明解に述べる三者の論談を中心に、神と仏の道について一般読者にわかりやすく解説する〉。
吉野大峯の世界遺産登録20周年記念として、2024年12月22日(日)14時から、「神と仏、日本人の信仰」というシンポジウムが三重県津市で開催される。ご登壇者は『熊野 神と仏』のお3人である。ご都合のつく方は、ぜひご参加いただきたい(残席わずか)。
本書で利典師は、〈日本の多神教は一神教の人たちが考える多神教ではない〉〈天照大神に八百万(やおよろず)の神々を集約させる、あるいは曼荼羅諸尊を大日如来に帰一させる思考的基盤があることに気づいてほしいものである。いわゆる一即多の多神教である〉と書かれている。
なおreligion(もとはラテン語のreligāre=固く縛る、後へ結ぶ)は、「re(繋げる)+ligāre(結ぶ)」から派生した語だそうだから、やはり一神教のイメージである。では、以下に全文を掲載する。
「あまたの神と仏」
英語のreligionは「一神教の宗教」の和訳で、re-とは繋がりを表し、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教には創造主があって、絶対唯一の神と契約した人の宗教をいう。しかし世界には創造主をもった宗教もあれば、そうでない宗教もある。
ユダヤ教やキリスト教成立以前から世界には宗教があったが、キリスト教以降は、欧州のケルトやギリシャの宗教などを凌駕してきた。明治の文明開化により、日本にもまた、多神教を駆逐する一神教の価値観が大量に入ってきたのである。
宗教という言葉が入って来る前から日本にも仏教や神道はあった。日本人の精神の基層を育んできたこれら多様なかたちの、いわゆる創造主をもたない宗教というのは、そもそも一神教の宗教とは成り立ちがまったくちがう。
私たちは、仏壇を祀り、神棚を祀り、葬式に行き、キリスト教や神式の結婚式を挙げ、宮参りに行き、初詣に行き、葬儀は仏式で営むことを誰もが平気で続けている。
しかし、religionの宗教からすれば、そういう雑多なものは宗教ではない。で、あれもいい、これもいいというごった煮の信仰は宗教ではないと欧米人からいわれてしまうと、私たちもそれをうまく説明することができずに、「私は無宗教です」といわされてきたのが現代の日本人なのだろう。本当に宗教と無関係ならば、無政府主義者と同じことになってしまう。
人類はいまだかつて宗教を基盤としていない倫理・道徳はもったことがなく、日本人も「人を殺してはいけない」という、仏教や儒教などの宗教を基盤とする倫理感をもっているのだ。それを「私は無宗教です」というのは「私は倫理観をもっていない恐ろしい人間です」というのと同じことになる。そういう意味で「これまでの勘違い」を解いていく必要があるだろう。
一神教がつくった宗教という言葉の概念が、日本人がもつ信仰ととはちがうということを、まず知ることが大切だと思う。その手段として新しい言葉を作る方法もあるかもしれないが、言葉を作る以前に、いまの日本人が自分たち自身のことをよく理解できていないことが問題なのである。
倫理観を懸念するなかでよくいわれるのは、敗戦後の戦後体制が問題だという意見、そして教育勅語に返れという意見。しかし教育勅語は明治以後の倫理に返れということで、そこへ返ってしまうと、神殺し、仏殺しをして近代を迎え入れた日本にしか戻れない。
本来戻るべきは明治よりも前で、近代の歪みが生まれる以前に営まれてきた日本の風土・習慣を見直すしか、将来をひもとく糸口は見つからないに違いない。
帰属する価値観をなくした民族は、滅亡への道を歩みを始める。今、日本人がまさに滅亡に向かっているような様相を呈しているのは、帰属する立ち位置が自分たちでもわからなくなってしまっているからではないか。DNAに埋め込まれている先祖からの知恵を、ちょっと思い出すことが必要だと思う。まずいったんそこに帰属してから一神教の人たちのことを考えてみることが大事であろう。
それから一神教と相(あい)対するためには、単なる多神教ではなく、一神教に近い原理をもたないとたぶん彼らには勝てないと私は思っている。その原理は日本にはある。日本の多神教は一神教の人たちが考える多神教ではない。
どの例を上げるのが適当かわからないが、天照大神に八百万(やおよろず)の神々を集約させる、あるいは曼荼羅諸尊を大日如来に帰一させる思考的基盤があることに気づいてほしいものである。いわゆる一即多の多神教である。
ヨーロッパでは、2001年の同時多発テロ以来、グローバリゼーションに対する息苦しさがあって、19世紀以前に戻ろうという大きな流れが生まれているという。
平和の作り方は、いくらチューリップが美しいからといって地球上のどこもかしこもチューリップ畑にするような世界を作るのではなくて、ブーゲンビリアも百合も桜も咲く、その土地の人々がそこに根づいたきれいな花々を自慢して、認めあって共存することが、ほんとの意味での平和のあり方だろう。
吉野・熊野にはそういう、世界をチューリップ一色にしてしまうというような野卑な一神教の価値観に凌駕されていないものが、まだ残っている希有な場所なのである。
****************
これは宗教人類学者植島啓司先生と熊野本宮大社九鬼家隆宮司との鼎談をまとめた『熊野 神と仏』(原書房刊)からの私の一文である。3人は紀伊山地の世界遺産登録を機縁として、計10数回にわたり、日本人の信仰について、トークセッションを繰り返してきた。
今年、その世界遺産登録20周年記念として、総決算のトークイベントを、(2024年)12月22日に三重県津市にて、行います。よろしければご参加下さい
版元の紹介文によると、本書は〈熊野は、熊野三山、奈良吉野金峯山寺、伊勢神宮、高野山を結ぶ、参詣と修行の道が縦横に走る希有な場所。神道、仏教、修験道を融合させた特異性、日本の宗教観を明解に述べる三者の論談を中心に、神と仏の道について一般読者にわかりやすく解説する〉。
吉野大峯の世界遺産登録20周年記念として、2024年12月22日(日)14時から、「神と仏、日本人の信仰」というシンポジウムが三重県津市で開催される。ご登壇者は『熊野 神と仏』のお3人である。ご都合のつく方は、ぜひご参加いただきたい(残席わずか)。
本書で利典師は、〈日本の多神教は一神教の人たちが考える多神教ではない〉〈天照大神に八百万(やおよろず)の神々を集約させる、あるいは曼荼羅諸尊を大日如来に帰一させる思考的基盤があることに気づいてほしいものである。いわゆる一即多の多神教である〉と書かれている。
なおreligion(もとはラテン語のreligāre=固く縛る、後へ結ぶ)は、「re(繋げる)+ligāre(結ぶ)」から派生した語だそうだから、やはり一神教のイメージである。では、以下に全文を掲載する。
「あまたの神と仏」
英語のreligionは「一神教の宗教」の和訳で、re-とは繋がりを表し、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教には創造主があって、絶対唯一の神と契約した人の宗教をいう。しかし世界には創造主をもった宗教もあれば、そうでない宗教もある。
ユダヤ教やキリスト教成立以前から世界には宗教があったが、キリスト教以降は、欧州のケルトやギリシャの宗教などを凌駕してきた。明治の文明開化により、日本にもまた、多神教を駆逐する一神教の価値観が大量に入ってきたのである。
宗教という言葉が入って来る前から日本にも仏教や神道はあった。日本人の精神の基層を育んできたこれら多様なかたちの、いわゆる創造主をもたない宗教というのは、そもそも一神教の宗教とは成り立ちがまったくちがう。
私たちは、仏壇を祀り、神棚を祀り、葬式に行き、キリスト教や神式の結婚式を挙げ、宮参りに行き、初詣に行き、葬儀は仏式で営むことを誰もが平気で続けている。
しかし、religionの宗教からすれば、そういう雑多なものは宗教ではない。で、あれもいい、これもいいというごった煮の信仰は宗教ではないと欧米人からいわれてしまうと、私たちもそれをうまく説明することができずに、「私は無宗教です」といわされてきたのが現代の日本人なのだろう。本当に宗教と無関係ならば、無政府主義者と同じことになってしまう。
人類はいまだかつて宗教を基盤としていない倫理・道徳はもったことがなく、日本人も「人を殺してはいけない」という、仏教や儒教などの宗教を基盤とする倫理感をもっているのだ。それを「私は無宗教です」というのは「私は倫理観をもっていない恐ろしい人間です」というのと同じことになる。そういう意味で「これまでの勘違い」を解いていく必要があるだろう。
一神教がつくった宗教という言葉の概念が、日本人がもつ信仰ととはちがうということを、まず知ることが大切だと思う。その手段として新しい言葉を作る方法もあるかもしれないが、言葉を作る以前に、いまの日本人が自分たち自身のことをよく理解できていないことが問題なのである。
倫理観を懸念するなかでよくいわれるのは、敗戦後の戦後体制が問題だという意見、そして教育勅語に返れという意見。しかし教育勅語は明治以後の倫理に返れということで、そこへ返ってしまうと、神殺し、仏殺しをして近代を迎え入れた日本にしか戻れない。
本来戻るべきは明治よりも前で、近代の歪みが生まれる以前に営まれてきた日本の風土・習慣を見直すしか、将来をひもとく糸口は見つからないに違いない。
帰属する価値観をなくした民族は、滅亡への道を歩みを始める。今、日本人がまさに滅亡に向かっているような様相を呈しているのは、帰属する立ち位置が自分たちでもわからなくなってしまっているからではないか。DNAに埋め込まれている先祖からの知恵を、ちょっと思い出すことが必要だと思う。まずいったんそこに帰属してから一神教の人たちのことを考えてみることが大事であろう。
それから一神教と相(あい)対するためには、単なる多神教ではなく、一神教に近い原理をもたないとたぶん彼らには勝てないと私は思っている。その原理は日本にはある。日本の多神教は一神教の人たちが考える多神教ではない。
どの例を上げるのが適当かわからないが、天照大神に八百万(やおよろず)の神々を集約させる、あるいは曼荼羅諸尊を大日如来に帰一させる思考的基盤があることに気づいてほしいものである。いわゆる一即多の多神教である。
ヨーロッパでは、2001年の同時多発テロ以来、グローバリゼーションに対する息苦しさがあって、19世紀以前に戻ろうという大きな流れが生まれているという。
平和の作り方は、いくらチューリップが美しいからといって地球上のどこもかしこもチューリップ畑にするような世界を作るのではなくて、ブーゲンビリアも百合も桜も咲く、その土地の人々がそこに根づいたきれいな花々を自慢して、認めあって共存することが、ほんとの意味での平和のあり方だろう。
吉野・熊野にはそういう、世界をチューリップ一色にしてしまうというような野卑な一神教の価値観に凌駕されていないものが、まだ残っている希有な場所なのである。
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これは宗教人類学者植島啓司先生と熊野本宮大社九鬼家隆宮司との鼎談をまとめた『熊野 神と仏』(原書房刊)からの私の一文である。3人は紀伊山地の世界遺産登録を機縁として、計10数回にわたり、日本人の信仰について、トークセッションを繰り返してきた。
今年、その世界遺産登録20周年記念として、総決算のトークイベントを、(2024年)12月22日に三重県津市にて、行います。よろしければご参加下さい
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