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田中利典師の『よく生き、よく死ぬための仏教入門』扶桑社新書(3)/「お経を唱えると、心が落ち着く」

2022年02月15日 | 田中利典師曰く
田中利典師の名著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社新書)を振り返るシリーズの3回目です。師のFacebook(1/16付)から、抜粋させていただきます。
※トップ写真は「お風呂ポスター 般若心経」、いろんな商品が出ているのだ

拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』は4年前に上梓されました。もう書店では置いてないですが、金峯山寺にはまだ置いています。本著の中から、しばし、いくつかのテーマで、私が言いたかったことを紹介しています。よろしければご覧下さい。

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「祈るためのツール、入口がお経」
もちろん、祈りと願いがセットになって「祈願」となるわけです。願うばかりではありません。「よりよく生きるための教え」「安心していきていくための教え」が仏教ではお経となっています。お経とともに安心して生きていけるから安心して死ねるのともいえるのです。

「祈り」には両親やお世話になった方々への感謝の祈りもあれば、日々を見つめる祈りもあります。「祈り」のための道具(ツール)が、お経であると考えればいいでしょう。

ある方から「自分の年老いた母は毎日『般若心経』を唱えているけれど、その意味をあまりわかっていないようだ。意味がわからなくてもよいのですか?」というお問い合わせをいただいたことがあります。お経の意味がわからなくてもいいとはさすがに申しあげられませんが、日々唱えるという繰り返しのなかで、体で覚えていく。そうすることで力が得られるということがあるのだと思います。

たとえば「般若心経」の現代訳(自由訳)というのもあります。そういったもので大体の意味を学ぶこともできるでしょう。しかし、実際に口語訳をお経にという試みもあったのですが、これは不評でした。ありがたみに欠けるという声が多かったそうです。わかりやすいからいいとは限らないのですね。

経本を自分の手元に置いておくことで心の支えになるというこんな例もあります。私の私塾の世話役だったKさんがまだお若いのに突然に亡くなられました。前々日までぴんぴんされていたのが、前日、少し体調がすぐれないので早めに休むと言って眠られたまま翌朝目覚められることがなかったのです。

奥さまはご主人の突然死を受け入れられず、ただただ悲しまれるばかりでしたが、それでも「どうしていいかわからないのですけれども、なんとなくこれを唱えていると落ちつくのです」とおっしゃったのが、私が以前にお渡ししていた「般若心経」の経文でした。おそらくこちらのお宅はこれがなければ、お経に出合うこともなかったでしょうが、私のお渡しした経文をもっていていただいたのでよかったです。

奥さんがご主人を偲ぶ、あるいは心を癒す唯一の支えになったのが、この『般若心経』だということを考えると、常になにか宗教と接しておく、支えを持っているということは大事だということを改めて思い知りました。

あるいは、長崎県には潜伏キリシタンがおられます。「オラショ」という祈りがあるそうですが、キリスト教禁教400年間、口伝されるうちに、もともとはラテン語だったのでしょうが、かなり変容して、なぜそういう言葉になっているかいまはわからないことが多いそうです。それでもその祈りはいまも生きていて実際に使われるそうです。

古今東西、宗派を超えて、祈るという行為そのものに浄化とか、癒しとか、なにかしらの力があるのでしょう。「門前の小僧、経を学ぶ」という言葉があります。邪心がなければいつの間にかすっと入っていくということもあるでしょう。

逆に「お経なんて抹香臭くてなんだか面倒臭い」と思い続けていた人が、歳を重ね自分の死を意識するようになると、お経のありがたさを感じるようになるともいいます。「馬の耳に念仏」とも言いますが、私たちは馬でなく人間ですから、しっかりと聞く耳をもちたいものです。

*写真は『般若心経』の経本
~拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社BOOKS新書)からの跋文/電子書籍でも読めます。
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