同僚のNくんが「古社寺を歩こう会」というサークルを立ち上げてくれた。年に3~4回、会社の同僚をはじめとする同好の士を募り、ウォーキング(現地見学会)にレクチャー(座学)を組み込んだ催しをしよう、というものだ。近鉄の「近畿文化会」の奈良県限定版のような企画だ。奈良検定対策も兼ねている。
その記念すべき第1回が10/5(日)に行われた。初回のテーマは「興福寺の廃仏毀釈」、講師は郷土史家で「木津の文化財と緑を守る会」会長の岩井照芳(いわい・てるよし)氏だ。約20人のメンバーが、奈良マーチャントシードセンター(奈良市・もちいどのセンター街)の会議室に集合した。
1868(慶応4)年の「神仏分離令」に基づく廃仏毀釈は、奈良の寺院を破壊した。とりわけ興福寺には甚大な被害を及ぼした。手元の樋口清之著『私の奈良案内』(主婦の友社)によると、
《興福寺の今日の荒廃は、明治初年の廃仏毀釈という寺院破壊運動が直接の原因である。興福寺は、高級僧侶が京都の公卿出身であった。彼らは、この運動が起こったとき、みな競って還俗し、春日の祠官となって、華族に列せられた。寺を捨てて保身を考えたのである。(中略) この結果、多くの建物や土塀はこわされ、わずかに鎌倉時代の北円堂と三重塔、足利時代の五重塔、東金堂、大湯屋が、かろうじて、破壊からまぬがれた。仏像仏具経典の類は、おそらく数知れず失われたのであろう》。
《昭和12年、東金堂が解体修理されたとき、台座の下や屋根裏から、白鳳から江戸初期までの遺物が無数に発見された。5百年まえの絵馬や轆轤(ろくろ)のような珍品をはじめ、寺務所の倉がいっぱいになってしまうほど貴重な品々が発見された。これからすると、もし興福寺がむかしのままに残っていたら、あるいは、日本の文化史は一部書きかえなければならないのではないかと思う。興福寺とは、日本の歴史にそれほど重要な意味をもっている寺なのである》。
※参考:興福寺(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
岩井氏は、この方面の研究では第一人者である。期待に胸をふくらませてマーチャントシードセンターに向かった。
この日は10:30~12:00まで座学、昼食のあと13:00~15:00まで、説明をいただきながら興福寺周辺を歩く、というスケジュールだ。岩井氏にはレジュメと古絵図、周辺写真(明治時代)のコピーをご準備いただいた。まずレジュメに基づき、「維新期の興福寺の概況」「維新期の興福寺組織」などについて説明していただいた。
興福寺のお坊さんの「位格」に関する説明があって、上から門跡(もんぜき=最高位で別当にあたる)、院家(いんげ)、学侶(がくりょ)、三綱(さんごう)、衆徒(しゅと)、専当(せんとう)、承仕(しょうじ)、仕丁(じちょう)と、9段階もあったのだ。最高位の「門跡」は、一乗院と大乗院が交代で務めた。
目をひいたのが、「興福寺古絵図」に描かれた伽藍と塔頭の立派さだ。塔頭の数を数えると、110あまり。東向北商店街の辺りから、裁判所、県庁、知事公舎、南は猿沢池畔、奈良ホテル、瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)、浮見堂のあたりまで、びっしりと塔頭が建ち並んでいたのだ。
興福寺南大門跡地。背後のお堂は南円堂(西国三十三ヶ所第九番札所)
座学と昼食のあとは現地へ。写真は南大門の跡地だが、岩井氏に促されて足下を見ると、梵字の彫られた石がびっしりと並べられている。石碑か何かが運ばれてきて、それが石畳になっているのだ。ここへは何度も足を運んでいるのに、今まで全く気づかなかった。
名勝大乗院庭園文化館内
上の写真は、奈良ホテルの南側にある「名勝大乗院庭園文化館」(旧大乗院庭園)だ。栄華を誇った頃の大乗院(門跡寺院)の復元模型があり、規模の大きさがよく分かる。この文化館は入場無料で庭園が遠望でき、休憩もできるとても良い観光拠点である。
このあと瑜伽神社の前(奈良ホテルの東)を抜け、残された塔頭の門(=冒頭の写真)などを見学した後、鷺池(浮見堂のある池)の畔へ。次の写真の公衆トイレは、塔頭跡に建っているのだそうだ。仏罰が当たりませんように。
周辺には、写真のように破壊された土塀があちこちに残っている。このまま朽ち果てさせて、良いものだろうか。
予定の15時になって国立博物館の庭で解散。希望者は、興福寺国宝館を見学した。それにしても、密度の濃い「歩こう会」だった。廃仏毀釈のすさまじさと、興福寺のかつての栄華がしのばれ、いい勉強になった。参加者は皆、とても喜んでいた。
岩井先生、本当に有難うございました。
その記念すべき第1回が10/5(日)に行われた。初回のテーマは「興福寺の廃仏毀釈」、講師は郷土史家で「木津の文化財と緑を守る会」会長の岩井照芳(いわい・てるよし)氏だ。約20人のメンバーが、奈良マーチャントシードセンター(奈良市・もちいどのセンター街)の会議室に集合した。
1868(慶応4)年の「神仏分離令」に基づく廃仏毀釈は、奈良の寺院を破壊した。とりわけ興福寺には甚大な被害を及ぼした。手元の樋口清之著『私の奈良案内』(主婦の友社)によると、
《興福寺の今日の荒廃は、明治初年の廃仏毀釈という寺院破壊運動が直接の原因である。興福寺は、高級僧侶が京都の公卿出身であった。彼らは、この運動が起こったとき、みな競って還俗し、春日の祠官となって、華族に列せられた。寺を捨てて保身を考えたのである。(中略) この結果、多くの建物や土塀はこわされ、わずかに鎌倉時代の北円堂と三重塔、足利時代の五重塔、東金堂、大湯屋が、かろうじて、破壊からまぬがれた。仏像仏具経典の類は、おそらく数知れず失われたのであろう》。
《昭和12年、東金堂が解体修理されたとき、台座の下や屋根裏から、白鳳から江戸初期までの遺物が無数に発見された。5百年まえの絵馬や轆轤(ろくろ)のような珍品をはじめ、寺務所の倉がいっぱいになってしまうほど貴重な品々が発見された。これからすると、もし興福寺がむかしのままに残っていたら、あるいは、日本の文化史は一部書きかえなければならないのではないかと思う。興福寺とは、日本の歴史にそれほど重要な意味をもっている寺なのである》。
※参考:興福寺(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
岩井氏は、この方面の研究では第一人者である。期待に胸をふくらませてマーチャントシードセンターに向かった。
この日は10:30~12:00まで座学、昼食のあと13:00~15:00まで、説明をいただきながら興福寺周辺を歩く、というスケジュールだ。岩井氏にはレジュメと古絵図、周辺写真(明治時代)のコピーをご準備いただいた。まずレジュメに基づき、「維新期の興福寺の概況」「維新期の興福寺組織」などについて説明していただいた。
興福寺のお坊さんの「位格」に関する説明があって、上から門跡(もんぜき=最高位で別当にあたる)、院家(いんげ)、学侶(がくりょ)、三綱(さんごう)、衆徒(しゅと)、専当(せんとう)、承仕(しょうじ)、仕丁(じちょう)と、9段階もあったのだ。最高位の「門跡」は、一乗院と大乗院が交代で務めた。
目をひいたのが、「興福寺古絵図」に描かれた伽藍と塔頭の立派さだ。塔頭の数を数えると、110あまり。東向北商店街の辺りから、裁判所、県庁、知事公舎、南は猿沢池畔、奈良ホテル、瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)、浮見堂のあたりまで、びっしりと塔頭が建ち並んでいたのだ。
興福寺南大門跡地。背後のお堂は南円堂(西国三十三ヶ所第九番札所)
座学と昼食のあとは現地へ。写真は南大門の跡地だが、岩井氏に促されて足下を見ると、梵字の彫られた石がびっしりと並べられている。石碑か何かが運ばれてきて、それが石畳になっているのだ。ここへは何度も足を運んでいるのに、今まで全く気づかなかった。
名勝大乗院庭園文化館内
上の写真は、奈良ホテルの南側にある「名勝大乗院庭園文化館」(旧大乗院庭園)だ。栄華を誇った頃の大乗院(門跡寺院)の復元模型があり、規模の大きさがよく分かる。この文化館は入場無料で庭園が遠望でき、休憩もできるとても良い観光拠点である。
このあと瑜伽神社の前(奈良ホテルの東)を抜け、残された塔頭の門(=冒頭の写真)などを見学した後、鷺池(浮見堂のある池)の畔へ。次の写真の公衆トイレは、塔頭跡に建っているのだそうだ。仏罰が当たりませんように。
周辺には、写真のように破壊された土塀があちこちに残っている。このまま朽ち果てさせて、良いものだろうか。
予定の15時になって国立博物館の庭で解散。希望者は、興福寺国宝館を見学した。それにしても、密度の濃い「歩こう会」だった。廃仏毀釈のすさまじさと、興福寺のかつての栄華がしのばれ、いい勉強になった。参加者は皆、とても喜んでいた。
岩井先生、本当に有難うございました。