tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

魚屋 かいちで、夜のコース料理を満喫!(近鉄大和西大寺駅南口スグ)

2023年10月21日 | グルメガイド
秋の夜(2023.10.16)知人と2人で、大和西大寺駅南口「Coconimo(ココニモ)SAIDAIJI」に入居する海鮮酒場「魚屋 かいち」を訪ね、「コース料理」をいただいた。煮魚定食(ランチ)と夜メニューの海鮮丼は、以前にいただいたことがあり、とても気に入っていた(=当ブログ)。お店のHPは、こちら
※トップ写真は刺身盛り合わせ



コースは3,000円、5,000円、7,000円(いずれも税込み)の3コースで、この日は7,000円のコースを予約してあった。@2,000円で飲み放題がつけられたが、この日はつけなかった。



まず出てきたのは前菜盛り合わせ(会席の「八寸」に当たるもの)だ。柔らかい国産牛のローストビーフ、ツブ貝のワサビ和え、湯葉刺し、色豆腐(ウニ豆腐、カボチャ豆腐)など、色とりどりの前菜がきれいに盛られて出てきた。


日本酒は、「風の森」をいただいた


刺身盛り合わせ(トップ写真に同じ)

次は刺身盛り合わせ。長崎県の生本マグロ(中トロ、赤身)、静岡県のカツオ、青森県のアオリイカ、長崎県のカンパチなど、新鮮な刺身が続々。中トロの載った氷柱が涼しげだ。





次にこんな炭火コンロ(七輪)が運ばれてきたと思ったら、国産牛のネギ塩牛タンが出てきた。これを焼きながらつつくという趣向だ。これは、海鮮居酒屋では珍しい。



次がウナギの白焼き。すりおろされたばかりの生ワサビと、よく合う。お次は、北海道の新物生サンマの梅煮。味付けもちょうどいい。







茶碗蒸しにはイクラなどの海鮮トッピング。次が天ぷら。ご飯は土鍋で炊いた鯛ご飯。さすがに全ては食べきれなくて、残ったご飯はおにぎりにして持ち帰った。




炊き上がったばかりの鯛ご飯、ここから骨を抜いてくれる


骨を抜いてもらった鯛ご飯。和歌山の「魚匠 銀平」の「鯛めし」を彷彿とさせる



うーん、心もお腹も大満足。ターミナル駅の目の前で、こんな豪華な海鮮料理がいただけるとは、有り難いことだ。皆さんも、ぜひお訪ねください!
※食べログは、こちら


最後に、マスターと記念撮影
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修験道は、「脳化社会」へのアンチテーゼ

2023年10月20日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「大自然の非日常に浸かる山修行」(師のブログ 2014.9.13 付)、『体を使って心をおさめる 修験道入門 』(集英社新書)』のP139以下の抜粋である。
※トップ画像は、養老孟司著『唯脳論』(ちくま学芸文庫)

当ブログのタイトル〈修験道は、「脳化社会」へのアンチテーゼ〉は、私がつけた。師は「大自然=山修行=非日常(ハレ)」と「人工物に囲まれた都会生活=日常(ケ)」を常に対比される。ふと「これは、誰かも言っていたな」と思いだし、本棚にあった養老孟司著『唯脳論』を取りだしてみた。おお、あるある、利典師と養老氏は、表現を変えて同じことを言っているのだ。

『唯脳論』の裏カバーには、〈文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、そして心…あらゆるヒトの営みは脳に由来する。「情報」を縁とし、おびただしい「人工物」に囲まれた現代人は、いわば脳の中に住む〉。その昔、ヒトは自然の洞窟の中に住んでいた、それが今は脳の中に住んでいるのだ。

人工物ばかりの都会は「脳化社会」つまり、すべて脳が作り出した社会だ。極端に言えば「世界は脳の産物である」。これに対するアンチテーゼが「身体=自然」(自然の世界)である。

養老氏が、「画期的名著」と言われる『唯脳論』を青土社から刊行したのは1989年だが、役行者の昔から、修験道はそれを知っていた。身体を酷使する厳しい山修行(非日常)により、脳化社会のなかで抑圧されてきた「身体感覚」を取り戻し、心を整えて再び脳化社会(日常)に戻っていく。今の脳化社会を見通していたとは、修験道はスゴイ! 前置きが長くなった、師の全文を以下に紹介する。

「大自然の非日常に浸かる山修行」
少し想像力をはたらかせてイメージしてみていただきたいのです。大自然の山の中を修行するとは、どんなことなのか。

山の中は、電気もなければ水道もない。道にしても、古来より踏みしめられた歩きやすいところもありますが、場所によっては「ここ以外に足場がない」というような、木や岩などにつかまりながらようやく通れる難所もあります。むせ返るほどの植物のにおい、土のにおい、森が抱える生物の息づき。雨がふれば濡れ、風が吹くままになびき、朝日がのぼれば明るくなり、夕方、陽が沈めば暗くなります。

どうでしょう。私たちがいま、暮らしている日常生活とは、大ちがいでしょう?

農業や漁業などの第一次産業に従事されている方は、山の修行の世界とある程度近いような、自然とふれあう日々かもしれませんが、オフィスなどに勤める方々の生活は、もっともっと非自然的で、あらゆるものがコントロールされた環境下だと思います。

車や電車で通い、電気のあるところでパソコンや機械を使って仕事をする。室内の温度も、たいがいは適切な温度に調節されています。あたりまえのように携帯電話やタブレット端末で通信し、あふれかえるような情報量の中で仕事をこなし、家に帰ればテレビや電子レンジを使いこなす。自然にふれ合う機会どころか、自然な陽の光の変化さえ感じにくいままに一日が過ぎていきます。それを日常とする現代人にとっては、大自然が非日常です。

大自然の深山幽谷をひたすら歩き、自然に浸りながら自分という生命を感じるひとときでは、「自分」というものの使い方が変わってくるとさえ言えるのではないか、私はそう感じます。
ー田中利典著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)より
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信貴山朝護孫子寺で、「毘沙門天王二十八使者守護善神練り行列」を拝観!

2023年10月19日 | 写真
日曜日(2023.10.15)、信貴山朝護孫子寺(生駒郡平群町信貴山)で「毘沙門天王二十八使者守護善神練り行列」を拝観した。當麻寺の練供養はよく知られているが、こちらはほとんど知られていない。毎年10月の第3日曜日午後2時から行われている。


スタートの直前、赤門前に整列

二十八使者に加え、お坊さんたちも列に加わるので、長い行列になる。目の前を練り歩くのでよく見えるし、写真も撮りやすい。被写体の前に立ちはだかる人も、ほとんどいない。「毘沙門天二十八使者」とは、Wikipediaによると、


小さい使者は、子どもやおばあさんが扮していた

毘沙門天二十八使者(びしゃもんてんにじゅうはちししゃ)とは毘沙門天に仕える28の夜叉である。毘沙門天曼荼羅で描かれるときには中央(第一院)に毘沙門天と吉祥天、5人の童子が置かれ、2番目(第二院)の枠に剣鎧護法と空鉢護法、八大夜叉大将が囲む。そして一番外の3番目の枠(外枠)に毘沙門天二十八使者が置かれる。韋駄天が第二院に描かれる場合がある。


いよいよ歩き出した。足下が見えないので、介添え役がつく


「二十八使者像」(仏像彫刻)は本堂須弥壇裏に祀られているので、私も拝観したことがある

毘沙門天二十八使者は毘沙門天曼荼羅で表現するとは限らず、像もある。例えば越後浦佐毘沙門堂では28体の毘沙門天二十八使者像を見ることができる。以下に毘沙門天二十八使者を紹介する。なお二十八使者のうち「興生利使」だけは唯一「~使者」という名にならない点に注目したい。


高官使者は、女の子が扮していた。顔(お面)がユニークで、とても楽しい!


行列の先導は、役僧(伴僧)と呼ばれる若いお坊さんだ

隠形使者 香王使者 勝方使者 奇方使者 禁呪使者 高官使者 興生利使 五官使者 金剛使者 座神使者 持斎使者 自在使者 神山使者 神通使者 説法使者 総明多智使者 太山使者 大力使者 田望使者 多魅使者 読誦使者 博識使者 左司命使者 伏蔵使者 北斗使者 右司命使者 龍宮使者 論議使者



朝護孫子寺の参道は急な坂だし、曲がり角も多いので、写真を撮るにはもってこいだ。なお「毘沙門天」とは、日本大百科全書によると、


本堂に登る石段は、急傾斜だ






本堂前に到着、天気はとても良かったので、奈良盆地が見渡せる

仏教の護法神。サンスクリット語バイシュラバナ(Vaiśravana)を吠室囉末拏などと音写し、転じて毘沙門天となる。多聞 (たもん) 天、遍聞 (へんもん) 天とも称する。



信貴山 (朝護孫子寺)では毘沙門天を本尊としており、楠木正成はその申し子として幼名を多聞丸と称するなど、武将の信仰が厚かった。


本堂で読経のあと、今度は復路

また平安時代には、王城鎮護のため北方に建てられた鞍馬寺に左手をかざした毘沙門天像を安置したり、さらに東寺(教王護国寺)の兜跋 (とばつ) 毘沙門天像のように密教において特別の彫像も現れるに至った。後世、武将形のまま七福神の一つに数えられ、福徳を授ける神として民間に信仰された。



インド人なのかペルシャ人なのか、日本人離れしたユーモラスなお面や衣装を拝観するのは、とても楽しい。普通の速度で歩くので、赤門から本堂までは15~20分だ(往路)。本堂で約30分お経を上げたあと、また赤門の手前まで戻る(復路)。



「往路を途中で拝観するツアーを作ってもいいな」などと考えていた。写真を撮る場合も、往路と復路と、2度のシャッターチャンスがあるのが、有り難い。



来年からは、事前にブログなどで紹介することにしたい(例年10月第3日曜日開催)。皆さん、ぜひお参りください!
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特別インタビュー「この人に聞く」平越國和さん/南都経済研究所『ナント経済月報』2023年10月号

2023年10月18日 | 奈良にこだわる
一般財団法人「南都経済研究所」から、『ナント経済月報』(2023年10月号)が届いた。表紙をめくると、おお、平越國和(ひらこし・くにかず)さんの優しいお顔が出ていた。巻頭の特別インタビュー「この人に聞く」に登場されていたのだ。平越さんは株式会社丸国林業取締役会長で、今年(2023年)7月からは、一般社団法人奈良経済産業協会の会長も務めておられる。

リード文は、〈いつの時代も生きてゆくには『人間力!』企業にとって人を育てることは将来の大きな財産になると思っています。努力と知恵を絞り、奈良県企業の人と人のつながりを大切に多くの企業、従業員の方の成長・育成に携わっていきたいと考えています〉。奈良経済産業協会会長就任時に表明されたのは、「奈良発のイノベーション創造してゆく」だった。

平越さんの奥さんはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の主要メンバーだし、その関係で私も2019年6月、約60人の社員さん向けに講演をさせていただいたことがある。「この人に聞く」の全文は、こちら(PDF)に掲載されているので以下、私の印象に残ったところを抜粋して紹介する。

株式会社丸国林業の歩みや 概要、会長のご経歴について教えてください。
1960年(昭和35年)10月、私がまだ小学5年生(10歳)だった頃、父國輝が先祖代々培った林業経営を基盤に製材業や木材の販売を営む「丸国林業」を創業し、1973年(昭和48年)に株式会社丸国林業を設立しました。

創業当時は黒滝村の山守さんと山林管理の仕事に従事していた20代・30代の若者7~8人と共に香芝町(現香芝市)で製材工場を立ち上げ、県内の原木市場に出る杉や檜を製材して近隣の工務店に販売していました。その後、大手ハウスメーカーとの取引が始まり、住宅専門工場に納材するようになりました。

創業当初は10人足らずでスタートした当社も、今では60名近い従業員が支えてくれています。

私は昔から「井の中の蛙」にはならないように、可能な限り世の中の色々な組織の勉強をしたいと考え、これまで積極的に様々な団体の役を引き受けてきました。例えば、地元警察や市役所委員会の委員、商工会の理事や会長などです。また奉仕団体のライオンズクラブにも入会しましたし、納税協会や自治会の役員、大学OB会の世話役等、様々な団体で活動させていただきました。

企業経営についてどのようなお考えをお持ちか教えてください。
今やITからDX、生成AIといったデジタルの時代ですから、それらに対しても乗り遅れてはいけないと思っています。しかし、ただデジタルだけではダメだと思っています。不易流行という言葉がありますが、不易のアナログ部分も大事にしなければなりません。アナログ部分とは、人間関係を構築することだと思っています。

直接顔を合わせて面談する、お客さんにかわいがってもらうなど、人と人のつながりを重ねていくことが非常に大事でしょうね。どんな時代がきてもコンピューターですべてはできないと思います。だからこそ、「人」を育てていかなければ生き残れないと思っています。

御社では従業員の人材育成に非常に力を入れておられますね。
多くの社員は家へ帰ったら家長です。社員は家族の生活を背負って働いています。親や配偶者がいる社員もいれば子供がいる社員もいますので、家庭を守ってもらうためにも、会社は社員を大切にしなければなりません。そして、会社では、本人の能力の限りを尽くして働いてもらいたいと思っています。従業員に頑張ってもらい、頑張った分の稼ぎを家に持って帰ってもらいたいという思いが強いですね。

人材育成に力を入れているのも、従業員のモチベーションややりがいを高めてより働く環境をよくしてもらいたいと思うからです。時代が変わっても「人と人のつながり」、「信頼関係の構築」など、「人」だからこそできることが、この先ますます重要になってくるでしょう。だからこそ「人を育てる」ことが大事で、将来必ずそれが当社の財産となります。

これからの夢や想いをお聞かせください。
会社に関しては、堅実な事業規模の拡大と社員教育の充実で有能な社員を育て、お客様の役に立つ企業として存在感を発揮させたいと思います。住宅や建設資材の販売に留まらず、お客様の多様なニーズに対応できるよう視野を広く持ち時代と共に変遷していきたいと考えています。

経済活動とは別の事で申しますと、日本の歴史的名所や文化遺産、まだ知らない島々などを巡ってみたいと思っています。また、奈良商工会議所主催の奈良まほろばソムリエ検定が、「奈良通1級」の合格止まりになっているので、上位資格の「奈良まほろばソムリエ」に挑戦したいと考えています。まだまだ好奇心旺盛で、色々な事を知りたいと、勉強の真最中です。

若いビジネスパーソンへメッセージをお願いします。
いつの時代も生きてゆくには「人間力」が必要となります。人と交わることでお互いに切磋琢磨し、社会性を身につけて欲しいと願っていますし、企業人としては、「誠意」「熱意」「創意」この3つの意を常に頭において行動してもらいたいと思います。


素晴らしいリーダーに恵まれて、社員さんたちは幸せだと思う。1950年にお生まれの平越会長は、今年73歳とまだまだお若い。これからも奈良県の産業界において、奈良を元気にする「イノベーション」を起こしていただきたいと願う。
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田中利典師の「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」

2023年10月17日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」(師のブログ 2014.8.25 付)である。これは役行者の言葉で〈きびしい修行によって身体を苦しめて、しかもその苦しみに負けないならば、心は浄められ、解放される〉ということなのだそうだ。師は具体的な事例を挙げて、これを詳しく解説されている。以下に全文を抜粋する。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28付)

「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」
役行者の教えのなかで、最も大切なもの。それが「実修実験」だ。「修行を実践して、体験を実現する」という意味で、同じことを「修行得験」と表現する場合もある。

こういうと、なんだかとても難しそうに聞こえるが、ようするに、自分自身の身体で体験しなければ、なにもわからないということだ。言い換えれば、いくら頭でわかったつもりでいても、それではダメということだ。あくまで身体をとおして学ぶことが大切なのである。

しかし、だからといって、身体ばかりに頼っていては、やはりまずい。修験道の修行は、運動競技とはちがう。「ファイト! ファイト!」の、いわゆる体育会系の発想では、身体は鍛えられても、心がおろそかになってしまいがちだ。

この点について、役行者は「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」(『役行者本記』)と述べている。「修行を積んで身体を苦しめなさい。もし、その苦しみによって心が乱れないならば、悟りの境地も神通力(超能力)も、ごく自然に身に付く」という意味だ。

きびしいトレーニングによって身体を鍛え上げていくと、人によっては、心が乱れて、獣的になってしまうことがある。アテネ・オリンピックでも、ハンマー投げのアニシュみたいに、禁止されているドーピングまでして金メダルを獲ろうとした連中がけっこういたが、ああいう連中はまさに心が獣化している。

同じようなことは、残念ながら、宗教の世界でもある。とくに修験道のように、きびしい修行を課して身体を鍛え上げなければならないタイプの宗教の場合は、その傾向が強い。そういう点を、役行者は注意しているのだ。

きびしい修行を積んで自分自身の身体を鍛え上げていくことが、自分自身の精神を鍛え上げていくことに直結するように、心掛けなさい。それが役行者の教えといっていい。もちろん、きびしい修行を積んで自分自身の身体と精神を鍛え上げていくことは、いつの時代でも、辛く苦しいことだ。

ところが、私たちの現代文明は、人間を、とりわけ人間の身体を、辛さや苦しみから解放することをめざしてきた。ひたすら楽に、ひたすら快適に、が現代文明の方向だった。

いわゆる文明の利器、つまり自動車も飛行機も電化製品も、インスタント食品も冷凍食品もレトルト食品も、みなそのために開発されたモノばかりだ。その結果、現代人は楽することや快適に過ごすことに慣れきってしまっている。

しかし、楽することや快適に過ごすことの果てに待っていたのは、病んだ身体と心だった。豚みたいに食べて肥満になり、高血圧になり、糖尿病になり、心臓病になる。心を病んで、うつ病になり、人格障害になり、無気力になる。

うつろな心を満たすために、ブランド品を買いあさり、お酒に依存し、ドラッグに依存する。お金を儲けるために、自分の身体すら売る。

こういう悪癖にはまりこんでいる現代人にとって、きびしい修行を積んで自分自身の身体と精神を鍛え上げていくことは、これまでのどの時代に生きた人々よりも、辛く苦しい。

しかし、現代人がこのどうしようもない悪癖から抜け出し、清浄な身体と心をとりもどすためには、もう一度きびしい修行によって、自分自身の身体を鍛え上げ、自分自身の精神を鍛え上げるしか、もう道はないのではないか。

「きびしい修行によって身体を苦しめて、しかもその苦しみに負けないならば、心は浄められ、解放される」。役行者のこの教えこそ、現代人にとって最高の贈り物といっていい。

『はじめての修験道』(2004年春秋社刊)「第4章 修行の世界」より
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