今まで海ばかりに行っていたワタシが本格的に目を山側に移し渓流部に向かったわけだが、今回大山
周辺をウロウロとする間に、色々と感じることがあった。
民家のない渓流部を歩いているつもりであっても、人工物には結構出くわす。もちろん川筋を歩いているので、一番目に入るのがこんな「堰」
だ。
もちろん、お上からは作る際に最もらしい理由付けはあったのだろうが、ダムを造りたいが為に「水利」であったり、「災害防止」であったりと目的がコロコロと変わる「手段と目的が入れ替わっている」ような昨今のダム行政を見ていると、このような堰に対して「本当に全部が必要なのか?」という疑問が湧いてくる。
これらの堰の内の何割かは「環境にも配慮している」という説明の元、堰の横に魚が行き来できるよう、スロープ状の「魚道」を設けてはいるが全く魚道のない堰は論外としても「魚道がある」という堰よりも「堰自体がない」方が環境にはイイに決まっていると思うのだがどうだろう。
堰の上にはこんな風景
が広がっていた。
一見「澄んだ水に白砂の川底」ということでキレイには見えるだろうが、コレは本来なら、河口へと向かって流れ出るはずの砂が、堰があるが為に溜まっているのだ。コレが洪水時に一挙に出た土砂なら災害を防いだことになるのだが、辺りの様子からしてそれは考え辛いような気がする。
こんな風に砂が溜まり、底石を覆い尽くす寸前になると、どうなるかというと、まずは、その石を利用して暮らす水生昆虫が住めなくなる。そして底石は鳥などの外敵から身を守るシェルターにもなるので、川虫という餌も無く、隠れる場所もない場所から渓魚達は姿を消すのだ。実際に堰の上では魚影はなく、気配すら感じなかった。僅かにあった生命反応は遠くに見えた外来害獣のヌートリアだけという皮肉な結果であったのだ。
そして、その砂の出所自体にも問題がある。
かつての、戦後日本の林業行政はブナ、ナラ、クヌギ等の広葉樹林を伐採して当時建築用木材として価値の高かった杉や檜(ひのき)を植林することを薦めていた。その規模は大きく、市民からの出資を募って「将来は値上がりする」と言って、投機の対象にしていたほどだ。しかしながら、そこに自生していた広葉樹林は秋に葉を落とし、それが腐葉土となり肥沃な山の大地を作り出していたのだ。そしてそこから適度に流れ出す水は豊富なミネラル分を含み、周辺の水域を潤していたのだ。同時に山自体が保水性と圧力調整弁のような働きを持っていたので、それらを伐採してしまうと山の保水力が無くなり、少しの雨で簡単に土砂が流れ出すようになるのだ。その結果、本末転倒のような話だが、ダムや堰を作らなくてはならない(かもしれない?)川が出来上がり、後は負のスパイラルに陥ってしまうのだろう。後に残るのは砂に埋まった渓流とヌートリア、そして外国製の材木に押されて売れずに放置された杉や檜林と、そこから大量に吹き出す花粉だけというのは、自然からワタシたちへの警鐘のようにも思える。事実この日も周囲の山にある杉林は茶色く色付き、警告の狼煙(のろし)を上げるかのように、風が吹く度に煙のような花粉を吹き上げていた。
ワタシの本業は昆布巻き屋さんだ。この業界にはこんな話がある。
北海道襟裳岬(えりもみさき)の周辺は、その昔は有力な昆布漁場であったのだが、戦後しばらく経ったある時期突然に漁獲高が激減するようになり、昆布漁師達の中には廃業する者が増え、瀕死の状態になっていたそうだ。原因を研究すると、保水力を失った山から大量の土砂や泥が河川を伝って流れ込み、海底を覆った結果だということが判り、残った漁師や地元住民が立ち上がって山に植林を始めたのだが、効果があって今ではある程度漁獲高が回復しつつあるそうだ。
このような例にもあるように、自然は大いなるサイクルで均衡を保っているのだ。報道で採り上げられていたCO2削減のためレジ袋ウンヌンにこだわるのも大事なことかも知れないが、たまには自然に触れてこんなことを考えるのも大事なことだ。
渓流釣りを始めて、見る風景が変わっただけで、こんな事を考えるようになった今日この頃なのである。
というワケで明日も渓流に向かう。行き先は岡山と鳥取の県境辺りだが、14日午後3時現在、現地では雪が降っているという。さてさて、どうなることやら…。
周辺をウロウロとする間に、色々と感じることがあった。
民家のない渓流部を歩いているつもりであっても、人工物には結構出くわす。もちろん川筋を歩いているので、一番目に入るのがこんな「堰」
だ。
もちろん、お上からは作る際に最もらしい理由付けはあったのだろうが、ダムを造りたいが為に「水利」であったり、「災害防止」であったりと目的がコロコロと変わる「手段と目的が入れ替わっている」ような昨今のダム行政を見ていると、このような堰に対して「本当に全部が必要なのか?」という疑問が湧いてくる。
これらの堰の内の何割かは「環境にも配慮している」という説明の元、堰の横に魚が行き来できるよう、スロープ状の「魚道」を設けてはいるが全く魚道のない堰は論外としても「魚道がある」という堰よりも「堰自体がない」方が環境にはイイに決まっていると思うのだがどうだろう。
堰の上にはこんな風景
が広がっていた。
一見「澄んだ水に白砂の川底」ということでキレイには見えるだろうが、コレは本来なら、河口へと向かって流れ出るはずの砂が、堰があるが為に溜まっているのだ。コレが洪水時に一挙に出た土砂なら災害を防いだことになるのだが、辺りの様子からしてそれは考え辛いような気がする。
こんな風に砂が溜まり、底石を覆い尽くす寸前になると、どうなるかというと、まずは、その石を利用して暮らす水生昆虫が住めなくなる。そして底石は鳥などの外敵から身を守るシェルターにもなるので、川虫という餌も無く、隠れる場所もない場所から渓魚達は姿を消すのだ。実際に堰の上では魚影はなく、気配すら感じなかった。僅かにあった生命反応は遠くに見えた外来害獣のヌートリアだけという皮肉な結果であったのだ。
そして、その砂の出所自体にも問題がある。
かつての、戦後日本の林業行政はブナ、ナラ、クヌギ等の広葉樹林を伐採して当時建築用木材として価値の高かった杉や檜(ひのき)を植林することを薦めていた。その規模は大きく、市民からの出資を募って「将来は値上がりする」と言って、投機の対象にしていたほどだ。しかしながら、そこに自生していた広葉樹林は秋に葉を落とし、それが腐葉土となり肥沃な山の大地を作り出していたのだ。そしてそこから適度に流れ出す水は豊富なミネラル分を含み、周辺の水域を潤していたのだ。同時に山自体が保水性と圧力調整弁のような働きを持っていたので、それらを伐採してしまうと山の保水力が無くなり、少しの雨で簡単に土砂が流れ出すようになるのだ。その結果、本末転倒のような話だが、ダムや堰を作らなくてはならない(かもしれない?)川が出来上がり、後は負のスパイラルに陥ってしまうのだろう。後に残るのは砂に埋まった渓流とヌートリア、そして外国製の材木に押されて売れずに放置された杉や檜林と、そこから大量に吹き出す花粉だけというのは、自然からワタシたちへの警鐘のようにも思える。事実この日も周囲の山にある杉林は茶色く色付き、警告の狼煙(のろし)を上げるかのように、風が吹く度に煙のような花粉を吹き上げていた。
ワタシの本業は昆布巻き屋さんだ。この業界にはこんな話がある。
北海道襟裳岬(えりもみさき)の周辺は、その昔は有力な昆布漁場であったのだが、戦後しばらく経ったある時期突然に漁獲高が激減するようになり、昆布漁師達の中には廃業する者が増え、瀕死の状態になっていたそうだ。原因を研究すると、保水力を失った山から大量の土砂や泥が河川を伝って流れ込み、海底を覆った結果だということが判り、残った漁師や地元住民が立ち上がって山に植林を始めたのだが、効果があって今ではある程度漁獲高が回復しつつあるそうだ。
このような例にもあるように、自然は大いなるサイクルで均衡を保っているのだ。報道で採り上げられていたCO2削減のためレジ袋ウンヌンにこだわるのも大事なことかも知れないが、たまには自然に触れてこんなことを考えるのも大事なことだ。
渓流釣りを始めて、見る風景が変わっただけで、こんな事を考えるようになった今日この頃なのである。
というワケで明日も渓流に向かう。行き先は岡山と鳥取の県境辺りだが、14日午後3時現在、現地では雪が降っているという。さてさて、どうなることやら…。
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