都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
そろそろ桜前線が気になる季節になりました。春に咲くはずの桜ですが、秋に咲くと「狂い咲き」したと話題になります。
現在は、中年女性に「姥桜(うばざくら)」などと言えば、とりかえしのつかないことになりかねませんが、じつは「姥桜」は褒め言葉なのです。
「しょせん私は姥桜・・・」などとすねたセリフを言う場合は、「しょせん私は、盛りを過ぎた女・・・」というような謙遜の意味で使っているのでしょう。
しかし、「姥桜」の本来の意味はそうではなく、娘盛りを過ぎても美しい女性のことです。
つまり、中年になっても、なお若々しく、美しさや色気のある女性のことをいうのです。今流行りに言葉で言えば、「美魔女」でしょうか。
「姥桜」は正式には「ヒガンザクラ」という美しい桜の一種です。ただ、この桜は、花が散るまで葉が出ないそうです。
うば‐ざくら【姥桜】
1 葉が出るより先に花が開く桜の通称。ヒガンザクラ・ウバヒガンなど。葉がないことを「歯無し」に掛けた語という。2女盛りを過ぎても、なお美しさや色気が残っている女性。
大辞泉
ひがん‐ざくら【彼岸桜】
バラ科の落葉小高木。春の彼岸のころ、葉より先に淡紅色の花を開く。中部地方以西で庭などに植える。こひがんざくら。《季春》
大辞泉
つまり、「葉っぱがない」ということから「歯がない」、「姥桜」は「老女」の意味でも使われるようになったのです。つまり、江戸時代のオヤジギャグだったのです。
その頃は、既婚者や一定の年齢をすぎた女性は「お歯黒」を塗っていましたから・・・。
したっけ。
「ずだ袋」といえば、一般には、だぶだぶした、何でも入れることのできる、便利な布製の大きな袋を想像するのではないでしょうか。
漢字ではは「頭陀袋(ずだぶくろ)」と書きます。
「頭陀袋」の「頭陀(ずだ)」は、「捨てる」「落とす」を意味する梵語「 Dhuta(ドゥータ)」の音写だそうです。
煩悩の垢(あか)をふるい落とし、衣・食・住の欲を捨てて、ひたすら仏道修行をすることを指し、そのような修行を「頭陀行(ずだぎょう)」といいます。
衣はボロをまとい、食は人に乞い、住は樹下という人間の生活に必要な最低限の厳しい生活の中で修行します。
「托鉢(たくはつ)」といったほうが馴染みがあるかもしれません。
そのような「頭陀行」を行う僧が経文や衣服などを入れ、首にかけて持ち歩く袋を「頭陀袋」といいました。
死者を葬る時、その首にかける袋も「頭陀袋」といいますが、これは頭陀行の姿を模したものといわれています。
ずだ‐ぶくろ【頭陀袋】
1 僧が修行の旅をするとき、経文や食器などを入れて首にかける袋。2 仏式で死者を葬るとき、その首にかける袋。3いろいろな物が入るような、だぶだぶした袋。
大辞泉
ですから、「頭陀袋」は仏教用語だったのです。このような厳しい修行に使われた「頭陀袋」が、一般に用いられる袋の名前になったのです。
こんなことを知ってしまったら、「頭陀袋」を持ち歩くのがためらわれませんか・・・。
私はまだ「頭陀袋」を持ち歩く心境には達していません。
したっけ。
毎年、春分の日と秋分の日を挟んだ前後3日間にやってくる「お彼岸」。まだまだ、北海道では寒い折「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉が思い浮かびます。
昼夜の時間が同じになるこの時期が冬から春、夏から秋の変わり目という先人の経験による言葉には重みがあります。
今年は彼岸入りが3月17日、お中日が3月20日(春分の日)、彼岸明けが3月23日となっています。
「彼岸」はサンスクリット語の「波羅蜜多(ハラミッタ)」から来たもので、「到彼岸(とうひがん)」と訳される「仏語」です。
「波羅蜜多」とは、「煩悩と迷いの世界」である「此岸(しがん)」にある者が、「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の修行をする事で「悟りの世界」すなわち「彼岸 (ひがん) 」の境地へ到達することが出来るというものです。
この対比でおわかりのとおり、「この世が此岸」、「あの世が彼岸」ということです。
太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる「春分の日」と「秋分の日」を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられていたのです。
そして、春分・秋分を「中日(ちゅうにち)」としてお墓参りをしたりするのは「彼岸会(ひがんえ)」という仏事であり、文字通り彼岸にいる仏様に会いに行く、想いを馳せる時期とされている。
それではなぜ、春分・秋分に「彼岸会」を行なうのでしょうか。
秋分・春分は昼夜の時間が同じ、つまり太陽が真東から昇って真西に沈む日であり、極楽浄土は彼方の西方(西方浄土)にあるとされていたことから、真西に沈む太陽を拝むことで彼岸により近づく、ということから生まれたようです。
「彼岸会」とは仏教や浄土思想からの行事なのですが、日本以外で仏教に縁が深い国では特に行事化されている例はないそうです。
ちなみに、歴史上最初に「彼岸会」が登場するのは806年、「早良親王」を偲んだものだと『日本後記』にはあるそうです。
さわら‐しんのう【早良親王】
[?~785]光仁天皇の第2皇子。兄桓武天皇の皇太子であったが、延暦4年(785)廃せられ、淡路へ配流の途上で死去。その祟(たた)りを恐れ、崇道(すどう)天皇と追号された。
大辞泉
『日本後紀(にほんこうき)』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、続日本紀に続く六 国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年( 833年)に至る42年間を記す。
ウィキペディア
現在では「お彼岸」は信仰宗派に関わらず「ご祖先を大切にする」という日本独自のとして行事として受け継がれているものなのです。
したっけ。
「ビッグ・ベン(Big Ben)」と聞かれて「大きなベンだ」と答える人はいないでしょう。
イギリスの首都ロンドン(London)にある「ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)」は、英国ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿で、現在英国議会が議事堂として使用しています。
「ビッグ・ベン (Big Ben)」とは、この「英国国会議事堂(the House of Parliament)」に付属する「時計台 (Clock Tower)」の「大時計の愛称」です。
その正確さで英国放送協会(the BBC)が時報で用いているそうです。
というのが、一般に認知しているビッグ・ベンではないでしょうか。
ところが、この「ビック・ベン」は正確にはこの時計の「鐘の愛称」であり、それは1856年にこの鐘が鋳造された際の工事責任者、大男「ベンジャミン・ホール(Benjamin Hall)」 卿のニックネームに由来しているそうです。
1856年8月6日に鋳造された初代の鐘は時計台が完成する前にすでにウェストミンスター宮殿の庭まで運ばれていたが、運用前に修復できないほどのひびが入り、代わりの鐘が再鋳造されることとなったそうです。
「ビッグ・ベン(Big Ben)」の大鐘は、1858年4月10日に再鋳造されました。
現在の、新しい時計塔ビッグ・ベンが完成したのは、1859年の4月です。設置当時の時計は、鋳鉄製の分針が重すぎて動かなかったそうです。
1959年5月31日のことでした軽い銅製のものに変えて、正確に動くようになったそうです。
この鐘が初めて鳴らされたのは1859年7月11日だそうです。
この愛称「ビッグ・ベン(Big Ben)」は、グレート・ベル(Great Bell 大鐘)にだけではなく、グレート・クロック(Great Clock 大時計)、タワー・クロック(Tower Clock 塔時計)の意味でも使われています。
「ビッグ・ベン(Big Ben)」はもともと、大きな男の愛称だったのです。「大きなベン」で間違いありません。
ちなみに、大口叩く人は「ビッグ・マウス(Big mouth)」といいますが、英語の意味は「おしゃべり」だそうです。
したっけ。
「日時計」や「砂時計」といった物は自然現象を利用した時計です。それゆえに馴染みやすい反面、正確さの面ではどうしても不利になってしまいます。より正確さを求める人間にとって自然時計では限界があります。
中世ヨーロッパの人々は、教会の鐘の音で時間を知ることができました。966年、ローマ教皇シルウェステル2世(Sylvester II, Gerbert)が修道僧の時に、祈りの時間を村の人に知らせるため、教会の鐘楼に自動的に鐘を鳴らす機械を設置しました。これが、機械式時計の起源と思われます。
その後、西暦1300年頃イタリアの都市に鐘を鳴らす機械が教会や修道院、大聖堂の高い塔の上に備え付けられるようになり、文字盤を備えた時計も現れました。このため、英語の「clock」は、ラテン語の「clocca(鐘)」に由来しているのです。
初期の物は歯車や振り子の原理を使った物で、棒にかけられた重りの位置によって進み遅れを調節していました。
さらに、振り子の発明により時計は室内に置ける大きさまで小型化されましたが、動力を重力に頼っていたため、持ち運びは出来ませんでした。
1480年、ドイツのニュルンベルグの錠前職人ペーター・ヘンラインが動力ゼンマイを発明し、1510年には持ち運びのできる携帯時計を製作したといわれています。
塔時計や室内時計と同じ働きをするにもかかわらず、文字盤の大きさが50㎜位で上を向き、重さ5Kgに満たない小さな時計は、卵のような形だったためヘンラインの住んでいた街の名前をとり、貴族達の間で「ニュルンベルクの卵」として評判となりました。
実際には、1430年頃のイタリアでゼンマイ式時計の記録があり、当時のニュルンベルク製の時計がヨーロッパの一流ブランドであったことから、ヘンライン神話が生まれたと考えられています。
「時計学の父」オランダのホイヘンスは、ガリレオの「振り子の等時性」をもとに1656年に「振り子時計」を、1675年に ヒゲゼンマイのついた「テンプ時計」を世界で最初に作ったといわれています。これにより時計の小型化が一気に進み、現在の懐中時計の原型が出来上がりました。
てん‐ぷ【天桴/天府】
機械時計に使われる調速器。かちかちと音を立てる部分。これでぜんまいが一定の速度でほどかれる。
大辞泉
英語では、掛け時計や目覚まし時計は「クロック(clock)」ですが、腕時計や懐中時計は「ウォッチ(watch)」といいます。「watch」とは英語の「見る・見つめる」という意味と同根の単語です。
なぜこの語が懐中時計や腕時計を表す言葉になったかはわからないそうです。鐘の音で時を知る以外に手元を見れば時を知ることのできる時計が生まれたことへの喜びで、じっと見つめていたからかもしれません。
したっけ。
「時計」と書いて「とけい」と読むことは皆さん知っています。しかし、どうして「じけい」でも「ときけい」でもないのでしょう。不思議に思ったことはありませんか?
じ【時】[漢字項目]
[音]ジ(呉) [訓]とき[学習漢字]2年
大辞泉
その答えは時計の歴史にありました。実は、中国では「三角に盛り上げたもの」を表す文字として、「圭」と言う字を使いました。
けい【×圭】
[人名用漢字] [音]ケイ(漢)
1 先端が三角になった玉器。「玉圭」
2 圭の形をしたもの。「圭角/土圭・刀圭」
大辞泉
土を三角に盛り上げてその影の長さを測る事で時間を調べていました。この日時計の事を「土圭(とけい)」と呼んでいたそうです。中国が「周(前11世紀~前771年)」と呼ばれていた頃のことです。
この「土圭」が日本に伝わったのは平安時代以前と考えられています。機械時計がなかった時代は、「日時計」の意味で「土圭」が使われました。
と‐けい【時計・土圭】
(もと「土圭(周代の緯度測定器)」を日本で中世に日時計の意に用いた。「時計」は当て字) 時刻を示しまたは時間を測定する器械。日時計をはじめ水時計・砂時計・火時計などから水晶時計・原子時計に至るまで種類が多い。機械時計は振子または天府テンプの振動の等時性を利用して歯車を動かし、指針を等時的に進ませる装置から成る。時辰儀。ウォッチ。クロック。日葡辞書「スナノトケイ」
広辞苑
日本で、最初に機械時計を手にしたのは誰かというと、周防(すおう:現山口県東部)の大内義隆でした。イエズス会の宣教師クラッセが書いた『日本西教史』(『日本教会史』)に、1550年(天文19年)、フランシスコ・ザビエルが日本に布教に来たときに機械時計を献上したとあります。
江戸時代中期、正徳3(1713)年頃出版された挿絵入り百科事典『和漢三才図会』によれば土圭は、「8尺の板を地面に立てて日影を測る日時計である」と書かれているそうです。
また、「磁針(じしゃくのはり)」の項目では、「土圭(とけい)針・子午針・指南針」という別名とともに、「土圭針とは方角・時刻を知るための器械。円盤の周囲に十二支を配列し、針を横にしてその真中に置き、浮かして旋回させる」という解説がなされているそうです。これは方位磁石のことですが、「時刻を知るための器械」とあるように、方位磁石は時計がわりにも使われていたことがわかります。太陽の向きによって時刻を知ることができるからです。
どうやらヨーロッパから機械時計がもたらされるまで、日本では時計は羅針盤とほぼ同じ意味で使われていたようです。
この「とけい」という音に対して、日本では、「土圭」、「斗鶏」、「自鳴鐘」、「時計」、「斗景」、「土計」、「時辰儀」等の文字をあてています。
鶏が時を告げるので「斗鶏」とはうまい当て字だと思います。「自鳴鐘」は外国から伝来した機械時計がベルの音の時報を奏でたことに由来します。中国では機械時計のことを「自鳴鐘」というそうです。
ではいつごろから「土圭」が「時計」となったか。その確実ないわれはあきらかではありません。因みに江戸時代、江戸城御用部屋の北にあった部屋は土圭の間とよばれ、和時計が置かれ、坊主が詰めていたそうです。
とけい‐の‐ま【土圭の間】
1 江戸時代、大名・旗本などの屋敷で、時計の置いてあった部屋。2 江戸城で、時計を置き、坊主が勤務して時報の任に当たった部屋。
大辞泉
『和漢三才図会』には、「自鳴鐘 俗に時計という」として説明が出ています。
明治7年の学校教育現場ではすでに「時計」の文字が使われていたそうです。誰が最初に使ったものか分からないらしいのです。
江戸時代から明治の初期にかけて「時を計る」と言う字を当て「時計」とし、読みは「とけい」のまま残ったようです。
したっけ。
「ようかん」は漢字で「羊羹」と書きます。漢字をそのまま考えると、「羊(ひつじ)の羹(あつもの)」という意味です。ヒツジは分かるとして、羹(あつもの)とは何でしょう。
馴染みのない言葉ですが、「羹(あつもの)=熱物」であり、野菜、山菜や肉を入れて作られた「熱い吸い物」のことを指します。
つまり、「羊羹」の漢字を直訳すると「ヒツジの吸い物」という意味になります。
鎌倉時代~室町時代の頃、禅僧が中国へ留学するのが盛んでしたが、帰国時に「羊羹」を持ち帰ったのが始まりという説が濃厚のようです。
それでは、「羊羹」の原型とはいったいどんなものだったのでしょう。
「ようかん」には「羊肝」という当て字もあり、文字通り「ヒツジ」の「キモ」のこととも言われています。中国では、食間に食べる点心の一つとして食していたようですが、禅僧は修行の為「肉食」を禁じていたので肉が食べられません。
そこで、植物性の材料である小豆やくず粉、小麦粉を蒸し固め、ヒツジの肝に見立て料理の一品としていたという一説があり、これが原型だと言われています。いわゆる「蒸し羊羹」で、ここから「ういろう」が派生したそうです。
中国では元々日本の羊羹に似た食べもので、「羊肝こう」「羊肝もち」という、羊の肝に似せた小豆と砂糖で作る蒸し餅があったそうです。これが動物の肉を食べる習慣の無かった日本に伝わり、現在のようなお菓子となったという説があります。
これが日本に伝来した際、「肝(かん)」と「羹」の音が似ていたことから「羊羹」という文字が使われるようになったとされています。
また、他の説では、現代の「羊羹」とは形も異なり、味も全く違いますが、羊の肉を用いた中国の汁物(羮=熱物)が冷え固まった後の「煮こごり」が元になったのが原型ではないかといわれています。それが日本に伝わり、その後、室町時代の初期茶道の湯の菓子「点心」(定食の間の小食を意味する。)として用いられるようになり、改良されてお茶菓子となったという説があります。
島根県の安来市には、1400年も前に建立された「瑞光山清水寺(ずいこうざんきよみずでら)」通称「安来清水寺」というお寺があります。
安来清水寺には平安時代に「慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)」([794~864]平安初期の天台宗の僧)によって伝えられ、羊の肝料理を精進化し完成された精進料理が存在しているそうです。
「羊羹」はこの精進料理の一種から風雅で「羊肝」の如く口当りやわらかく、小豆色の芳香を持つ菓子に進化したそうです。
この「清水羊羹」は安来清水寺の名物だそうです。
どちらの説も「羊料理」が元になっていることは間違いなさそうです。元々、禅宗文化とともに中国より渡来し、精進料理の汁の実としてあった羊羹も、時代の移り変りやまた土地柄によって様々な形となっているようです。
「水羊羹」は、霊元天皇(1663即位)が、虎屋や二口屋の羊羹が固い(蒸羊羹が主流の時代)ということから、柔らかい品を好まれ、水羊羹と呼ばれたことにある様です。
寒天を使用した「羊羹」は、1589年に太閤秀吉が諸大名を京都の聚落第(じゅらくだい)に招いた際、伏見の鶴屋(現在の駿河屋)に作らせたのが初めと言われていわれています。
しかし、この新しい羊羹の製法はなかなか普及せず、江戸で盛んになるのは18世紀に入ってからのようです。
さまざまな工夫がされ、蒸しようかんより糖分が多く、日持ちがよいなどの理由から広まっていったようです。
したっけ。
最近は卒業式のあとに、先生と父母の「お別れの会」やら「謝恩会」があるそうです。これが最後だと、「はめをはずす」先生や父母多いと聞きます。
「たまには、はめをはずして飲もうじゃないか!」等という人に限って、いつも外れている場合が多いのですが・・・。
「はめをはずす」とは、調子に乗って度を過ごすことだということは、ご承知の通りです。では、「はめ」とは何でしょう。
「はめ」には、二通りの説があるようです。
ひとつは、「馬銜(はめ)」のことだという説です。「馬銜」は「はみ(食み)」とも読み、馬の口にくわえさせる金具のことです。
はみ【馬銜】
1 《「食(は)み」と同語源》轡(くつわ)の、馬の口にくわえさせる部分。2 荒馬を制するために口にかませて頭部に縛りつけておく縄。
大辞泉
「馬銜」を外すと、荒馬が走り回り、制御できなくなることから、転じて、興に乗って度を過ごすことを意味するようになったとする説です。
しかし、「はめをはずす」は漢字で書くと「羽目を外す」です。「羽目」は当て字だというものです。
羽目(はめ)を外・す
興に乗って度を過ごす。「―・して騒ぐ」◆ 馬銜(はめ)を外された馬が走り回る意からとも。
大辞泉
もうひとつの説は「はめ」とは、漢字で「羽目(はめ)」(破目とも書く)と書き、家などを建設する時に、内壁や器具の側面に板を縦または横に張りつけているところをいうそうです。寺院の回廊にある「羽目板」の「羽目」です。
はめ【羽目】
《動詞「は(填)める」の連用形からという》1 建築で、板を平らに張ったもの。布羽目・太鼓羽目などがある。2 (「破目」とも書く)成り行きから生じた困った状況。「結局手伝わされる―になる」
大辞泉
「はめる」という動詞は「はめ込む」のように物を動かないように固定することであり、「はめを外す」とは「たががゆるむ」と同じ発想から生まれた言葉だというのです。
隙間なく張ってこそ見栄えがよくなる、そんな「羽目」をはずしてしまったら、せっかくの工夫を凝らした趣向も台無しになってしまいます。
そんなことから困った場合とか、状況などを意味する時に使われるようになったというものです。
馬から「轡(くつわ)」や「馬銜」を外すと、馬は逆におとなしくなるそいです。馬が暴れるのは発情したときか突然何かに驚いたときだそうです。馬は非常に臆病な動物で暴れる理由の大部分は恐怖感だそうです。
馬の側から考えると、確かに口に「馬銜」を噛まされた状況よりは、外されたほうがストレスはないのではないかと考えられます。
ですから、「馬銜」外すと馬が暴れるというのはおかしいという説もあります。同感です。
また、「はめ」と「はみ」は母音が違います。馬に噛ませる「馬銜(はみ)」とは、古語の動詞「はむ(食べる、かじる、噛む)の連用形(名詞)です。
はめ【馬銜】
「はみ(馬銜)」に同じ。
大辞泉
「大辞泉」にも「はめ」は「はみ」に同じとあるように、本来「馬銜(はみ)」であり「馬銜(はめ)」には無理があるような気がします。
「羽目を外す」と書くのですから、無理に「馬銜(はめ)」に当てはめるのは考えすぎではないでしょうか。・・・と、私は思います。
大部分の説は「馬銜(はめ)」ではありますが・・・。
したっけ。
「いやあ~、びびったよ!」
恐くて逃げ出しそうになったときなどに、「びびる」という言葉を使います。
びび・る
[動ラ五]恥ずかしがる。また、おじけづく。気持ちが萎縮(いしゅく)する。「大舞台で―・ってしまう」
大辞泉
「びびる」という音感から、若者が造った現代語のように思われがちです。
ちょっと尾籠な話で申し訳ありませんが、恐くておしっこを「ちびる」からきていると思っている人もいるようですが違います。
しかし、「びびる」は平安時代末期には既に使われていた由緒ある言葉だそうです。
へいあん‐じだい【平安時代】
平安京に都が置かれた時代。延暦13年(794)の桓武天皇の平安遷都から文治元年(1185)鎌倉幕府の成立までの約400年間。平安朝時代
大辞泉
「びびる」の語源は、大軍が動くときの鎧が触れ合って出す独特の音だそうです。この音が「びんびん」と響くことから、この音を「びびる音」と言ったことによるそうです。
遠くから聞こえるこの音が、大きければ大きいほど敵は大群だということになります。聞いたほうは恐くなります。
つまり、「びびる音」に反応して恐がることから「びびる」となったようなのです。
平家が現在の静岡県富士川あたりに陣を敷いた時、小鳥がいっせいに飛び立つ音を源氏軍が大挙して攻め込んでくる「びびる音」と勘違いし、平家軍はびびって戦わずに逃げたという「富士川の戦い」は、歴史に名高い戦いとなっている。
ふじがわ‐の‐たたかい【富士川の戦い】
治承4年(1180)源頼朝の軍と、追討のため京都から下向した平維盛(たいらのこれもり)らの軍が、富士川を挟んで行った合戦。平氏軍は水鳥の羽音を敵の襲来と誤認して敗走したという。
大辞泉
どんな武将であろうとも、多勢には「びびった」ということなのです。
したっけ。
皆さん「人一倍」という言葉の意味は知っていると思います。
この一年間「人一倍」がんばった人も多いと思います。
ひと‐いちばい【人一倍】
普通の人以上であること。副詞的にも用いる。「寒さには―強い」
大辞泉
しかし、よく考えてみると、何か変ではありませんか・・・。
「人一倍」だったら人の一倍ということは、「×1」です。算数で習いましたね。「1×1=1」、「「2×1=2」・・・。同じということです。
ところが、これは西洋の考え方なのです。日本語では「人一倍」で合っているのです。
その理由を紹介します。
江戸時代までは倍数を表すのに二種類の表現の仕方があったのです。それは「倍(ばい)」と「層倍(そうばい)」です。
ばい【倍】
1[名]ある数量を二つ合わせた数量。2倍。「―の分量」「―にして返す」2[接尾]助数詞。同じ数を重ねて加え合わせる回数を表すのに用いる。「三―」「一〇―」
そう‐ばい【層倍】
[接尾]助数詞。数を表す漢語に付いて、その倍数だけあることを表す。「三―の価」
大辞泉
つまり、「倍」はそれだけで「×2」を意味し、「層倍」は「×1」を意味していたのです。
「倍」、「一倍」、「二層倍」などは「×2」のことだったのです。
「二倍」、「三層倍」は「×3」のことでした。
ただ前者の「倍」という表現の仕方は、日本独自のものであり、明治以降西洋数学が導入されると、複雑でわかりにくかったため、「層倍」の考え方が一般的になりました。
「二層倍(=×2)」の意味で「二倍」と表現するようになり現在に至っているのです。
「人一倍」という表現は、「倍」と「層倍」が分かれていた頃の名残だったのです。
「人一倍」とは、普通の人「二層倍(=×2)」であることを意味する語句なので合っていると言うことになります。
現在でも、「この借りは倍にして返す」などと言うときも二倍の意味になります。
したっけ。