団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖

都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「昆布の裏表の見分け方」について考える

2012-10-21 10:03:07 | 似顔絵

Photo_3昆布」は北海道の重要な海産物です。昔から、「よろこぶ」にかけて縁起物としても使われてきました。結納品の中にも入っています。

昆布は奈良時代には、すでに食べられていたようです。大仏で知られる東大寺の『正倉院文書』には、「わかめ」、「ひろめ」、「あらめ」、「みるめ」ど、十数種の海草の名が載っているそうです。そのうちの「ひろめ」というのが、「昆布」です。

「め」は海草を表し、幅が広くて長い昆布は、「ひろめ」といわれていました。

昆布の語源は、この「ひろめ」に「広布」と漢字をあて、それがのちに音読みされてコンブになったという音読み説があります。

また、アイヌ語の「コムブ(コンプ)」が転じて「コンブ」になったという説もあります。大昔から、昆布の産地は北海道だったのです。

この昆布にも裏表があるのをご存知でしょうか。

Photo_2 コンブの中央には、茎からのびた中帯部と呼ばれる帯のような筋が走っています。

木の葉にたとえれば、葉脈にあたる部分ですが、この帯のような筋がへこんでいるほうが表、出っ張っているほうが裏です。

木の葉でも、葉脈は裏側に浮き出ていますから、それとおなじです。

コンブの表側は、海中ではいつも上になっているそうです。コンブは胞子によって増殖します。8月から11月ごろには胞子袋をつくって、表面から「遊走子(ゆうそうし)」と呼ばれる繁殖のもとになるものを放出します。

コンブの胞子(大きさは5?m程度)は2本の鞭毛を持ち、海中を泳ぐことができるので特に「遊走子」と呼ばれるそうです。

なお、コンブはヨードなどの無機質を豊富に含み、健康にもよい食べ物ですが、その食べ物としての歴史は非常に古いものがあります。

『続日本紀(しょくにほんき)』には、霊亀(れいき)元年(715年)蝦夷の須賀君古麻比留という人が大和朝廷にたいして昆布を献上したという記述があるそうです。

また、霊亀3年(717年)、元正(げんしょう)天皇が昆布を食されたという記述もあるそうです。

Photo

したっけ。

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「表裏と裏表の違い」について考える

2012-10-20 09:56:10 | スポーツ

全国のファイターズファンのみなさ~ん。ファイターズがCSを勝ち抜けました。あとは日本一になるのを待つだけとなりました。

野球には、表と裏の攻撃があります。今日は「ひょうり(表裏)、「うらおもて(裏表)の話しです。

ひょう‐り【表裏】

[名](スル)1表と裏。また、その関係にあること。「をなす」「喜びとして悲しみがある」2外面と内実とで違いがあること。人前での言動と内心とが相違すること。うらおもて。「のある人」

うら‐おもて【裏表】

1 物の表面と裏面。「紙の」2 表面に現れている事柄と、裏に隠されている事情。表面と内情。「業界のに通じている」3 一つの事柄が呈する、一見異なって見える二つの様相。「過保護も放任も親の自信の無さのである」

4 人の見ているところと見ていないところとで、態度・行動が違うこと。かげひなた。「のある人間」

5 裏を表側にすること。裏返し。「靴下をにはく」

6 裏と表ほどかけ離れていること。全然違うこと。正反対。

「其の事は愚僧も聞いていまするが、世間の沙汰とは」〈浄・八百屋お七〉

大辞泉

『大辞泉』で見る限り、違いといえば、「表裏(ひょうり)」が単純に表と裏で、「裏表(うらおもて)」には物事を表と裏に喩えた使い方があるようです。

また、訓読みの場合は 言いやすい表し方になるような気もします。

裏表(うらおもて)」、「上下(うえした)」、「右左(みぎひだり)」、「後前(・うしろまえ)」など・・・。

音読みで表す場合は、「上位」にくるものが先にくるようです。

表裏(ひょうり)」、「上下(じょうげ)」、「左右(さゆう)」、「前後(ぜんご)」などのように・・・。

「上下(うえした)」と「上下(じょうげ)」は順番が同じでした。あまり意味はないのかもしれません。

しょうもないネタでした。ファイターズの勝利に免じて許してください。

なお、ホークスファンの皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

Photo

したっけ。

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「呼吸器粘膜の急性炎症性疾患」について考える

2012-10-19 09:17:05 | 似顔絵

呼吸器(鼻、咽頭、喉頭、気管支、肺)粘膜の急性炎症性疾患

この病気はなんでしょう?

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別名は、「普通感冒(急性鼻咽頭炎)」、「流行性感冒」

昔は「感冒」という言葉をよく聞きましたが、最近は聞きません。

「代表的な症状」としては、くしゃみ、鼻みず、鼻づまり、せき、のどの痛み・腫れ、発熱、頭痛、倦怠感、悪寒、食欲不振、筋肉痛・関節痛、胃痛・下痢など。

この病気は、もうお分かりですね。

私たちにとって「風邪」という呼び名は馴染み深いものですが、一般的には、熱っぽい、寒気がする、頭痛、鼻水、くしゃみ、咳等という症状に対して漠然と診断されているもので、ある意味俗語的な病名だそうです。

もっとも身近な病気でありながら、いくつもの症状があり、今ひとつ実体がつかみにくいのが「かぜ」だそうです。

私たちが一般に「風邪」と呼ぶのは、主にウイルスの感染が原因となって引き起こされる呼吸器(主に上気道)の急性炎症性疾患の総称です。

1年間にかかる「風邪」の回数は幼児の場合平均6回前後、大人の場合、平均23回程度といわれています。

ほとんどの人が、年に数回はかかり、一見簡単そうな病気に見えますが、医学が進んだ今日でも、実際にはその正体は意外に複雑で、正確に言い表すことが難しい病気だそうです。

医学的な定義では「呼吸器(鼻、咽頭、喉頭、気管支、肺)粘膜の急性炎症性疾患」といそうですが、いろいろな症状を総括して呼ぶならば、「風邪症候群」だそうです。

これまでの研究により、風邪は、数百種類のウイルス(原因の8090%)、または、細菌(1020%)の感染によって発病することが明らかにされています。感染後発症までの潜伏期間が13日あります。

昔の人は言いました。「風邪は万病の元

これから寒くなります、「呼吸器粘膜の急性炎症性疾患」に気をつけましょう。

Photo

したっけ。

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「真弓の語源」 MY GARDEN 2012.10.17

2012-10-18 09:45:45 | 写真

日本全国の「真弓」さん、あなたの話ではありませんよ。樹木の話しです。

真弓(マユミ) ニシキギ科ニシキギ属の落葉低木

別名:ヤマニシキギ

分布:北海道から九州にかけて分布し、丘陵や山地の林の中に生える。海外では、中国、朝鮮半島、サハリンにも分布する。

樹高:3mから5mくらいです。

開花時期:5月から6

緑白色をした花径1センチくらいの小さな4弁花をつけますが、ほとんど目立ちません。

葉は楕円形で、向かい合って生えます(対生)。葉の先は尖り、縁には細かいぎざぎざ(鋸歯)があります。

花の後にできる実はさく果(熟すると下部が裂け、種子が散布される果実)で、秋の果実の色は品種により白、薄紅、濃紅と異なるが、どれも熟すと果皮が4つに割れ、鮮烈な赤い種子4つ現れる。また、この実がきれいなため庭木ともされます。

語源は、材質が強い上によくしなる為、古来より弓の材料20121016001として知られ、名前の由来になったことに由来します。

この木で作られた弓のことや、単なる弓の美称も真弓といいます。

材はこけしや将棋の駒をつくるのにも用いられているそうです。

漢字では「檀」とも書きます。

この木は、自宅前の川縁に生えています。植えたものではありません。樹高は150㎝くらいです。

なお、新芽は山菜として天麩羅やおひたしなどに利用されるそうです。種子に含まれる脂肪油には薬理作用の激しい成分が含まれており、少量でも吐き気や下痢、大量に摂取すれば筋肉の麻痺を引き起こすため、種子は食べてはなりません。

  20121016002

20121016003

20121016004

したっけ。

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「自宅庭訪問者・山雀―新聞掲載―」について考える

2012-10-17 10:42:05 | 新聞記事

昨日取材を受けた「ヤマガラ」の写真が、『十勝毎日新聞社』の2012.10.16付に掲載されました。

記事に書かれていることの百倍(?)くらい話しをしたのですが、こんな短い記事になってしまいました。

ちなみに、この写真は数百枚中の一枚です。ほとんどは、ぶれたり、写っていなかったりしていました。

動きが早くて撮り(鳥)にくい・・・。

201210170001_3

    個人情報保護のため名前・住所等は隠させていただきます。

したっけ。

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「自宅庭訪問者・山雀―動画―」について考える

2012-10-16 09:39:44 | 動画

和 名:ヤマガラ(山雀)

英 名Varied Tit

分 類:スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属

大きさ:14.5 cm

留鳥。全国の平地や山地の広葉樹林や針広混交林で繁殖します。シイやカシなどの常緑広葉樹林を好むため、暖地に生息数が多い鳥のようです。北海道南部には比較的多く見られますが、それ以外の地域ではあまり見かけません。低地ではハシブトガラやシジュウカラに比べてほとんど見られません。

冬期は他のカラ類と混群をつくる。木の実を貯える習性があります。

さえずりはゆっくりしてにごりがあり、ツーツービッ ツーツービッをくり返します。地鳴きはニーニーニー、ジェージェーなどと鳴きます。

山雀の語源は、山に棲むカラの意とする説や山吹色の体色に由来する説などがあります。「カラ」は小鳥の総称です。

体の赤い色は、南にいくほど色が濃いそうです。

我が家に、初めて現れた「ヤマガラ」を三日間かけてやっとこれだけ撮影できました。

</object>
YouTube: 2012.10.10ヤマガラ(赤いチョッキのお洒落さん).mpg

昨日(15日)地方新聞の記者の方が「ヤマガラの件」で取材に来ました。

したっけ。

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小説・『人魚を食った女』

2012-10-15 10:50:53 | 短編小説
都月満夫

遠い昔、中大兄皇子様が中臣鎌足様らとともに、蘇我氏を打ち倒し、孝徳天皇様を即位されました。それから十年後、白雉五年(六五四年)のことでございます。
若狭国といいますから、今の福井県小浜という漁村に、一人の女の子が生まれました。その名を千代と申します。
その女の子が、十八歳になった頃のことから、お話しすることにいたします。

ある漁師の地引網に、二尺ほどと言いますから、今でいう六、七十センチメートルくらいの、異様な姿をした、不思議な獲物がかかったのでございます。
濡れた毛髪は、馬の尾のように黒く光っていて、肩や胸のあたりは、まるで羽二重の絹のように、白く美しい肌でございました。
その顔は十七、八の美しい娘のようでございました。しかし、その腰あたりは、金色の産毛に覆われておりました。腰から下は銀の鱗に覆われた魚の尾のようでございました。
鱗は匙を肌の内側から突き出したようで、一枚一枚にも金色の産毛が生えていて、輪郭がぼやけるほどに輝いておりました。
初めのうち、その異様な生き物は、赤子のような声で泣いていたのでございます。
「もしや…、これが、噂に聞く人魚?」
漁師はその美しさに我を忘れ、呆然としていたのでございます。
半時といいますから、今の一時間ほど経ったころでございます。どこからともなく、甘い香りが立ち込めてまいりました。
どうやら、その香りは、人魚らしき獲物から、立ち上っていたようでございました。
ふと、我に返った漁師が、人魚らしき異形の生き物の胸に耳をあててみると、既に、事切れておりました。
漁師は、慌てて仲間を呼び、大勢が取り囲んで思案を始めたのでございます。
「これは何だ。どうしたらいい…」
「何か祟りでもあるのではないか…」
「どこかへお祭りして供養したほうがいいのではないか…」
いつまで経っても、話は一向に収まらなかったのでございます。
すると、話を聞いていた長老が進み出て言ったのでございます。
「わしの聞くところによれば、これは人魚のようじゃ。人魚の肉は、非常に美味だという話を聞いたことがある。どうだ、これを肴に宴(うたげ)を催そうではないか…」
祟りを恐れていた漁師たちは、ひそひそと話し合っていたのでございます。
しかし、確かに、誰もがその甘い香りに、食欲をそそられていたのでございます。
もちろん、その長老も、本物の人魚を目にするのは初めてでございました。
それが、美味だというのも、小耳に挟んだ程度の話でしかございませんでした。それでも、宴を催してみようと思うくらい、食欲をそそられる匂いだったのでございます。
長老の家で開かれた宴には、村の長者も招かれたのでございます。
長者の名は、高橋権太夫(たかはしごんだゆう)といいます。海に面したこの村で、唐の国との貿易を手広くこなして、たいそう裕福な暮らしをしていたのでございます。
南蛮の珍品や珍味などを、幾度となく目にしたり、口にしたりしていた権太夫ならば、知っているかもしれないと考えたのでございます。しかし、そんな男でさえ、人魚を見たことがなかったのでした。
宴は、村の男たち総出で行われ、鯛や平目のほか、山の幸もふんだんに用意され、それは盛大なものであったそうでございます。
お酒が入るにつれ、宴は盛り上がってきました。しかし、お造りのように、一切れずつ美しく盛り付けられた、あの人魚の肉には、誰も手をつけなかったのでございます。
口に出す者はおりませんでしたが、どうしても、あの美しい、娘のような顔を思い出してしまい、とても「魚」とは思えなかったのでございます。
結局、最後まで誰一人手をつけないまま、宴はおひらきとなったのでございます。
しかし、長老はこのまま人魚の肉を置いていかれても困りますから、とりあえず紙に包んで、一人少量ずつ持ち帰って貰うことにいたしました。
高橋の長者も、一包み貰って、家路につきますが、帰り道で思い出すのは、あの美しい人魚の顔形ばかりでございました。
その顔形、姿を思い出せば、とても、肉を口にする気分にはならなかったのはいうまでもございません。
権太夫は、気持ちが沈んだままで家にたどりつくと、隠れるように自分の部屋に入り、戸棚に包みを隠したのでございます。
しかし、部屋にいても、そわそわと落ち着きません。その香りに気持ちが負けそうになっては、食べるのを思いとどまるのに必死でございました。
権太夫は気分を変えようと、風呂に入いることにいたしました。

権太夫が風呂へ向かったのと入れ違いに、部屋の前を通りかかったのが、権太夫の一人娘千代でございます。十八歳になったばかりの娘盛りでございました。
すると、父親の部屋から漂い出てくる、甘い香りに気づいたのでございます。
「あら、なんだかいい匂いがするわ。お父様は何をお持ち帰りになったのでしょう」
気になって仕方がない千代は、まだしばらくは父親が風呂に入っていることを確認し、そっと部屋へ忍び込んだのでございます。
部屋の外を通っただけで、その香りに気づくほどですから、中に入れば、それが、どこから香ってくるのかは、即座に見当がついたのでございます。
千代は、ただただ興味本位で、戸棚を開けました。包みを取り出し、中を覗き込むと、それは透き通るように白い肉だったのでございます。
「あら、いったい何の肉かしら?」
その甘い香りは、千代の食欲を抑えきれるものではございませんでした。食べたくて、食べたくて仕方がございません。
「お父様が大切に持ち帰られたお肉を食べては叱られる…」
そう思いましたが、とうとう、堪え切れなくなってしまったのでございます。
「一切れだけなら…」
と口に入れると、それは舌の上でとろけるような美味しさでございました。その美味しさはあっさりした中にもこくと旨みが凝縮されたものでございました。
それは、牛の乳を煮詰めた「蘇(そ)」よりも、甘くまろやかでございました。
一切れ食べたら、もう一切れ、もう一切れと止まらなくなり、とうとう千代は全部食べてしまったのでございます。
千代は叱られることを覚悟で、空の包みを戸棚に戻したのでございます。
風呂から上がった権太夫は、肉が無くなっているのに気づきました。そして、慌てて娘を呼んだのでございます。
「千代、ここにあった肉を食べたのはそなたか?」
「はい、お父様。良い香りに誘われてついつい…。とても美味で御座いましたゆえ…。申し訳ないことをいたしました」
「ああ…、美味であったか。よいよい。そんなことより大事無いか? 腹などは痛くないか? 気分はどうじゃ? 何かあったらすぐにしらせるのじゃ。よいな…」
権太夫は叱るどころではございませんでした。人魚の肉を食べた一人娘が、どうかなってしまうのではないかと、心配でたまらなかったのでございます。

不安は的中しました。その日を境に、千代の様子が一変したのでございます。
翌朝、朝餉(あさげ)の用意がされた部屋に千代が現れ、いつものように膳の前に座ったのでございます。その姿を見た権太夫夫妻は目を疑い、驚きのあまり、仰け反ってしまったのでございます。
娘の肌は光輝いているような、そこはかとない美しさでございました。
もちろん、もともと器量のよい娘ではありました。しかし、それは顔形ではなく、それまでとはまったく違う、不思議な輝きに満ちていたのでございます。
まさに、人を虜にするような魅力とは、こういうことなのでございましょう。
権太夫は、昨日の人魚の、羽二重のような肌を思い出しました。あの人魚が生き返って目の前にいるような驚きでございました。
もちろん、人魚のことは、誰にも話すわけにはまいりません。
その後、あの宴に集まった男たちも、誰一人として、人魚のことを口にする者はいなかったのでございます。もちろん、食べたと言う者など居りませんでした。

そんな、見る者を虜にする千代の評判は、またたく間に近隣の村々に広がったのでございます。やがて、それを聞きつけた遠方の村からも、縁談の話が舞い込むようになったのでございます。
こうして、千代は数多くの縁談の中から、何度も家来を使いによこす、隣村の領主、大内弘幸の跡取り息子弘世(ひろよ)と結婚することとなったのでございます。
嫁入りの日は、それこそ、小浜の村では見た事もないような数の馬、見た事もないような煌びやかなお道具と、大勢の従者が権太夫の屋敷に千代を迎えに来たのでございます。
こうして、千代は願ってもない夫のもとへ花嫁として向かったのでございます。
弘世は、やさしい人で、千代をこよなく愛してくれたのでございます。それは、常軌を逸するほどの愛され方でございました。
千代は、乙女のような容姿とは裏腹に、寝間での営みでは、遊行女婦(うかれめ)のように大胆に夫を受け入れたのでございます。
弘世の手が懐に落ちると、千代の背中を、得も知れない衝撃が、稲夫(いなずま)のように走るのでございます。千代は獣のような声を発し、臍(ほぞ)の奥から熱いものが全身に広がるのを感じるのでございました。身体中が燃えるようでございました。
千代の白い肌は、見る見るうちに、桜色に染まっていくのでございます。
熱いしぶきがほとばしる頃には、あの甘い香りが寝間いっぱいに漂うのでございます。
その頃の殿方は、他所にも情を交わす女性がいるのが当たり前でございました。
しかし、千代を妻に迎えてから、弘世は他の女性では満足できなくなってしまったのでございます。
夜毎、弘世の求めに応じる千代でございましたが、まったく疲れる様子はございませんでした。むしろ、その瑞々しさが増すようでございました。
日毎に美しくなっていく千代に反して、弘世の方は、日を追うごとに痩せ衰え、まるで生気がなくなっていったのでございます。
やがて、一年ほどで、弘世は腎虚を患い、衰弱死してしまったのでございます。
夫を亡くした千代は、泣く泣く、実家に戻るほかございませんでした。

気落ちして実家にこもってしまった千代でしたが、千代が戻ったという噂は、たちまち村々に広がってしまったのでございます。
そんな魅力的な千代でございますから、千代の心情などお構いなしに、次々に縁談が持ち込まれたのでございます。
父権太夫は、持ち込まれる縁談を断ることに必死でございました。
その後一年ほど経ち、前夫の悲しみも癒ない千代ではありましたが、とうとう断りきれずに、二度目の結婚をしたのでございます。
もちろん、今回も、夫は彼女を愛してくれました。千代も弘世のことを忘れるほどに、とても幸せな毎日でございました。
しかし、二度目の夫も、やはり一年ほど経つと、老人のような姿になって死んでしまったのでございます。
その後、三度目も、四度目も同じように、夫は一、二年の内に骨と皮だけの枯れ木のような姿で、死んでしまったのでございます。
やがて、小浜周辺の村々の間で、噂が囁かれるようになったのでございます。
「あの千代という娘は、男を食らう鬼女じゃないのか…」
「あの娘の正体は、夫を死に追いやる女狐だ」
「男の精気を吸い取る物の怪だ」
「死霊だ」
「妖怪だ」
噂とともに縁談はぴたりと来なくなったのでございます。
あの初々しかった一度目の結婚の時から、四度目を終えた今まで、何年もの時が過ぎているはずなのに、自分の顔は相変わらずあの娘盛りの頃のままだったのでございます。
もちろん、肌も十七、八の瑞々しさのままでございました。
「お千代さんは、いつまでも若々しくて羨ましいね」
近所の女たちは、口々に言いますが、本心は気味が悪いと思っていたのでございます。
その頃になると、千代自身も、自分が回りの人間と違うと思い始めたのでございます。
歳をとっても、若々しいというのとは違います。四度も結婚生活を続けていく中で、普通は奥さんらしいというか、大人の女へと変化していくはずです。しかし、千代には、そんな様子がまったくないのでございます。
千代は、自分自身の中に、なにやら得体の知れない恐ろしいものが、棲み付いているのではないかと不安を感じ、思い悩みはじめたのでございます。
それが何なのか、何故このようなことになったのか、千代は知るはずもございません。
父権太夫も、「あの人魚の肉のせいではないか…」と思いましたが、千代に言うことはできなかったのでございます。
そして、数ヶ月も悩んだ末、千代は一大決心をしたのでございます。
「殿方との情交を一切絶つことにいたしましょう。比丘尼となって、全国行脚して身を清めれば、何か道が開けるかも知れない。出家するしか道はない…」
ある霧の朝でございました。千代は両親には何も告げず、霧の中へと歩いて、家を出ていったのでございます。
霧は深く、一寸先も見えぬほどでございました。千代はこの霧は、自分の心のようだと思ったのでございます。
千代は霧の中をさまよい、若狭国分寺へとたどり着きました。剃髪し比丘尼となった千代は、全国行脚の旅に出たのでございます。
どこへ行っても、誰も千代のことは知りませんから、十七、八歳の若い尼僧として迎えられ、不思議がるものはいなかったのでございます。まるで今までとは違う世界でございました。
そして、千代は紀伊国といいますから、今の和歌山県で、熊野権現の本地仏(ほんじぶつ)である阿弥陀如来の信仰に出会ったのでございます。その信仰を広めるため、千代は神仏の聖地を渡り歩くのでございました。
しかし、人間の命に限界があるからこそ、今を大切に生きるのであり、信心を深めればあの世で阿弥陀如来によって救われ、魂を再生することができる…、という熊野権現の信仰ではありましたが、千代には限界というものがございませんでした。
老人を見ても、若者を見ても、千代の目から見れば大差はございませんでした。千代から見れば、数年も数十年も、それほど長い年月ではなかったのでございました。

大化元年(八〇六年)、千代が百五十二歳になった頃でございます。
武蔵国といいますから今の埼玉県、「慈眼寺」に地蔵尊を奉納したことがございます。その頃は、一心に地蔵尊を掘ることで我を忘れ、ひとときの安らぎを得ておりました。
地蔵尊を奉納した後、千代は再び行脚に出たのでございます。
文治三年(一一八七年)、陸奥国といいますから、今の岩手県の平泉へ落ちていく途中の源義経一行と会ったこともございました。
九郎様は色白で女子のような美しい顔立ちでございました。
九郎様の率いる武蔵棒弁慶他二十数名の、山伏姿の一行は、思いのほか堂々と、北国街道を平泉へと向かっておりました。
街道で警備に当たるお役人様も、兄頼朝様に追われる九郎様に同情され、厳しい詮議は行われていなかったのでございます。
源平の盛衰を、一部始終見聞きしていた千代は、義経の凛々しいお姿を見て、一層の哀れを感じたのでございます。
その後、九郎様は弁慶他数名の家来とともに、密かに平泉を脱出し、蝦夷地に渡ったそうでございます。
蝦夷地には、アイヌ語で「サマイクル」と呼ばれる人間の生活に必要な知恵を教える文化の神が、一二匹のオオカミを引き連れ「トカプシ・ポンペツ」の山の急斜面の洞で、一冬を過ごしたという伝説がございます。
これは、九郎様とその従者のことでございます。翌年の春、一行はサハリンから、モンゴルへと旅立ったそうでございます。
現在の十勝・本別町のことでございます。
ここには義経山があり、頂上には義経山神社がございます。その近くには、九郎様が過ごしたという弁慶洞がございます。

そうこうしているうちに、千代は、弘安二年(一二七九年)信濃国といいますから、今の長野県あたりで、奇妙な集団と出会ったのでございます。
千代が六百二十五歳のときでございます。
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏…」
数百人もの男女が太鼓の音にあわせて、念仏を唱えながら、激しく身体を上下させながら踊っていたのでございます。
人々は恍惚として、無我の境地を踊りさまよっておりました。
一遍上人が始めた「時宗(じしゅう)」を広めるために始めた、「踊り念仏」の一行でございました。
人々が何も考えず、脳内の感覚が幻覚や催眠を催している状態となって、踊り狂うその姿に、千代は魅了されたのでございます。
しばらく一行とともに、「踊り念仏」の輪の中で、全国行脚を続けることにしたのでございます。
行脚を続けるうちに、その集団は磁石が砂鉄を吸い寄せるように、人々を呼び込んで、大集団へと膨らんでいったのでございます。
「時宗」で信仰する仏様は、阿弥陀如来様でございます。「南無阿弥陀仏」の名号(めいごう)をつねに口に称えて仏様と一体になり、阿弥陀如来様のはかり知れない智恵と、限りない生命をこの身にいただき、安らかで喜びに満ちた毎日を送り、やがては清らかな西方極楽世界へ往生することを確信する教えでございます。
不安だらけの世の中で、この分かりやすい教えは人々を魅了したのでございます。
膨大な数に膨れ上がった「踊り念仏」の一行が通り過ぎた跡には、草一本、木の皮一枚残っていなかったのでございます。食べられるものは何でも食べました。まるで、イナゴの大群が通り過ぎたようでございました。
しかし、一行と親しくなって旅をともにするようになると、やはり、千代は他人との差を感じずにはいられないのでございました。
人々は次々に飢えて死んで逝きます。
太陽が照り付ける暑い夏、ある者は疫病に倒れました。雪が吹き付ける寒い冬、ある者は凍え死にました。しかし、千代は、どんなに疫病が流行っても、どんなに寒くても、病気にかかることすらございませんでした。
やがて、年上はもちろん、年下の者まで、千代は毎日看取り続けたのでございました。
その虚しさから「踊り念仏」の一行と別れた千代は、その後各地を回り、椿や杉、松、榎など、いろいろな木を植えて歩いたのでございます。
「人の命は儚いけれど、木は長生きしてくれる。樹木の命は自分とともにある」
千代の思いは、人から樹木へと移ってしまったのでございます。
文安六年(一四四九年)、千代は京の都にたどり着いたのでございます。七百九十五歳でございました。
その頃になると、千代は「白比丘尼」と呼ばれ、色白の尼僧として人々の噂になっておりました。
噂の「白比丘尼」が来たというので、京の都は大騒ぎになったのでございます。
「八百歳の別嬪で娘のような老婆が来やはったそや」
「別嬪の老婆やらなんやらとは聞いおいやしたことがおへん」
「何でじゃも、尼はんらしい」
大勢の見物人が、ぞろぞろと押しかけたのでございます。
「たやの若い尼はんやないか…」
「これが噂の白比丘尼どすか…」
「八百歳には見えへん」
「いやいや、肌が輝いとる。やっぱりただのおなごやおへん」
「尻尾やておますのではおまへんのか」
京都清水の「定水庵」に留まる千代の元には、見物料まで置いていく者が後を絶ちません。千代にはもう行くところがございませんでした。

「終わりがないということは、なんと辛いことなのだろうか…」
そう思うと、なんだか無性に故郷が恋しくなってしまったのでございます。千代の足は、知らず知らずのうちに、故郷の若狭国小浜へと向かっていたのでございます。
もう、何百年も経っているでしょうが、千代には、その年数すら分からなかったのでございます。
やがて、自分の生家のあった場所を探し当てました。そこに立った千代は目を疑ったのでございます。
そこにあったのは荒れ果てた土地だけで、屋敷の面影すらなくなっていたのでございます。
確かに、千代は一人娘でしたから、跡取りがいなくなって、家が没落したのかも知れません。しかし、たとえ荒れ放題になっていたとしても、あれだけの大きなお屋敷の跡形くらいは残っていてもよさそうなものでございます。
呆然と立ち尽くす千代でありました。
半時ほどそうしていたでしょうか。千代の横を老婆が通りかかったのでございます。
「あの、もしもし…。昔、この辺りに、大きなお屋敷はござりませんでしたか?」
すると老婆は、腰を伸ばして、千代の顔を怪訝そうに見上げたのでございます。
「あんた、ずいぶん若そうじゃが、いつごろの話かのう。あたしゃ、生まれた時から六十年もここに住んどるが、この場所に屋敷などなかったね。子供の時分から、今と同じ荒れた土地だったさ…」
千代は自分の生きてきた年月の長さをあらためて思ったのでございます。
千代は、かすかな記憶をたどりながら、とぼとぼと歩きはじめたのでございます。
辺りをさまようように歩きながら、千代は幼い頃、友人と隠れ家にして遊んでいた「空印寺」の洞窟へと向かっておりました。
そこは、昔と変わらぬ姿で残っていたのでございます。洞窟を見つめながら、千代は心が落ち着くのを感じておりました。
自分の背丈ほどもなかった椿が、見上げるほどに生長しておりました。その洞窟の前に咲く白い椿を見上げながら、自分の生きてきた年月の長さを思いました。
千代は寺の許しをいただき、傍らに庵を立て数年間をここで過ごしたのでございます。
やがて、千代はいつまでも終わりのない命の虚しさを、餓死することで断ち切ろうと決心したのでございます。
即身成仏をすること以外に、もはや道はないと悟ったのでございます。
千代は、寺の者に、「けして中へ入ってはなりませぬ」と言い残して洞窟へ入定(にゅうじょう)したのでございます。
蝋燭一本を手に、千代は暗い洞窟の中に入っていきました。
洞窟の中は鬱蒼と苔生していて、冷たい空気が澱んでおりました。
なおも奥へと進んで、千代は辺りを見渡したのでございます。生きて見る最後の風景をしっかりと瞼の裏に焼き付けて、冷たい石の上に正座をいたしました。千代は、大きく息を吐き、静かに目を閉じたのでございます。
その姿勢のまま、一切の水と食糧を断ち、ひたすら念仏を唱え続けたのでございます。
やがて、何日か経ち、念仏も聞こえなくなり、千代はその生涯を閉じたのでした。
享徳三年(一四五四年)、千代が八百歳のときのことでございます。

その後、享和二年(一八〇二年)、武蔵国「慈眼寺」から、千代が奉納した、石櫃に納められた地蔵が発見されたのでございます。
その頃は、千代のことは八百歳まで生きた尼僧「八百比丘尼」として伝説となっていたのでございます。
「慈眼寺」は、この「八百比丘尼」にあやかり、年を取りたくない女達の参詣で賑わったということでございます。
小浜藩酒井家の菩提寺である「空印寺」の境内には、今も「八百比丘尼入定洞」という洞窟があり、こちらも「慈眼寺」同様に今も賑わっているのでございます。
いつの世も人は、必ず死を迎えるということを知りつつも、不老不死への欲望は、変わらずにあるのでございましょう。
この「空印寺」の洞窟自体には、今も不思議な話が残されております。
江戸時代に「空印寺」の住職が洞窟の奥へと入っていったところ、三日も歩いて、丹波国といいますから、今の京都府の山中に出てしまったというのでございます。
そのときに千代の亡骸があったということは記録されてございません。
なお、現在は落盤のために、入り口からすぐのところで、塞がっているということでございます。
古くは『日本書紀』にも人魚の記述がございます。
厩戸皇子(うまやどのおうじ)様、後の聖徳太子様も人魚をお助けになったことがあるそうでございます。
また、人魚のことはその後、正徳二年(一七一二年)に出版された、江戸時代の『和漢三才図会』には、「西海の大洋の中に、ままこのようなものがいる。頭や顔は婦女に似ていて以下は魚の身体をしており、あらい鱗は浅黒色で鯉に似おり、尾には岐がある。暴風雨のくる前に姿を見せる。漁父は網に入っても気味が悪いので捕えない」と紹介されているそうでございます。
現在でも、この話は漁師の間では密かに語り継がれております。網に入った人魚は海に戻し、口外しないということが掟となっているそうでございます。
この千代の生涯は、八百年を生きた尼僧の話として、「八百比丘尼伝説」として各地に今も語り継がれてございます。
また、「八百比丘尼」が春を売りながら全国行脚をしていたという話も残っておりますが、偽り言でございます。
千代は四度の結婚で子は授かりませんでした。その上、四人の夫を死に追いやったのでございます。
千代は自分が不老不死であり、子が授からない不生女(うまずめ)なのだと思っていたのでございます。人は死ぬからこそ子を残すのでございます。死なぬ女が子を残す意味がどこにございましょう。
それ故、殿方との情を交えることは虚しき行為であり、ましてや歓びなど感じてはならぬと、自分を戒めていたからでございます。

長々とお話をしてまいりましたが、そろそろ終わりにいたします。
私は蝦夷地、いいえ、今は北海道でございました。九郎様が一冬過ごされたという洞の近くの町で、小料理屋を営んでおります。
昔懐かしい味だと、なかなか評判なのでございます。
女性は、「いつまでも若い」などと言われると嬉しいそうでございます。
私は違います。一体幾つに見られているのか、とても不安になるのでございます。
昨夜、お客様に言われました。
「女将さん、年を取らないね」
そろそろ店をたたむ時期がまいりました。何処へ参りましょうか…。
私の名前ですか? 高橋千代と申します。


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「帯広地方の子守唄・赤い山青い山白い山」について考える

2012-10-14 10:51:28 | 動画

「赤い鳥小鳥」.

北原白秋作詞・成田為三作曲

赤い鳥 小鳥

なぜなぜ赤い

赤い実を食べた

白い鳥 小鳥

なぜなぜ白い

白い実を食べた

青い鳥 小鳥

なぜなぜ青い

青い実を食べた

この歌は、みなさんご存知だと思います。

この歌には「元歌」があったのは、ご存じないと思います。

北海道伝承唯一の「童謡(寝さ)」と言われる「赤い山青い山白い山(ねんねの寝た間)」という歌が帯広にあります。

「赤い山青い山白い山(ねんねの寝た間)」

十勝・帯広地方

 ねんねの寝た間に 何しょいの

 小豆餅の 橡餅や

 赤い山へ持って行けば 赤い鳥がつっつく

 青い山へ持って行けば 青い鳥がつっつく

 白い山へ持って行けば 白い鳥がつつくよ

 ねんねの寝た間に 何しょいの

 小柏切り株 切り根っこ

 赤い馬が曳いてみれば 赤い土がほれた

 青い馬が曳いてみれば 青い草がちぎれた

 白い馬が曳いてみれば 白い根っこが抜けたよ

「小豆餅」とは、土地のごちそうであったアンコロモチのことだそうです。「橡餅(とちもち)」は、橡の実を砕いて混ぜた餅で、どちらも珍しい菓子などない時代にはご馳走だったそうです。

「赤い山」は紅葉の秋、「青い山」は緑の春と夏、「白い山」は雪の冬日高山脈の四季が歌い込まれているとされています。

童謡の創作や研究をしていた北原白秋は、この子守唄に感銘を受け、童謡「赤い鳥小鳥」を作ったといわれています。

白秋は児童文芸雑誌「赤い鳥」の創刊号1918年(大正7)年7月で「ねんねの寝た間に」として「赤い山青い山白い山」の歌詞を紹介。

エッセー集「お話・日本の童謡1924年(大正13年)、(のち「日本童謡物語」「日本童謡ものがたり」と改題)の中で「この、赤い山・青い山・白い山のねんねん唄ほどすぐれたお山の童謡は日本にもありません」と絶賛した上で、自らの童謡「赤い鳥小鳥」について「この謡(うた)が本(もと)になってをります」と書いたそうです。

歌詞の初出は1907年(明治40年)の「日本民謡全集」(本郷書院出版)とされ、「子守唄(十勝国)」と付記されているそうです。

歌詞が活字に定着してほぼ1世紀。ルーツは不明でも帯広地方に定着した歌であることに変わりはありません。

ただ、1962年(昭和37年)、岩波文庫「わらべうた」で「帯広附近の子守唄」と紹介されたものの、発祥の地については異論もあり、道外から持ち込まれた歌なのか、帯広で誰かが創作したのかは明らかではないそうです。

十勝毎日新聞の記事から引用しています―

「赤い山--」は1974年(昭和49年)、「NHKみんなのうた」で小柳ルミ子さんが歌い、一躍全国区の子守歌になりました。

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YouTube: 赤い山 青い山 白い山/小柳ルミ子

ということなのですが、みなさんご存知でしたか?

したっけ。

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「きのこ汁に大根おろしを入れるわけ」―豆知識―

2012-10-13 20:18:08 | 豆知識

先日「ボロボリ」の記事で、味噌汁に大根おろしを入れたと書きました。
きのこ汁に大根おろしを入れるわけは、万が一毒キノコだった場合に当たらないようにというおまじないです。
当たらない役者を「大根役者」というでしょう。

もちろん、毒キノコは食べてはいけませんよ。多分、大根おろしは効きませんから・・・。

したっけ。




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「商人の語源と字源」について考える

2012-10-13 09:28:22 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

「商人」という漢字を見て、あなたはなんと読むでしょう。

意外なことに『辞泉』には、「あきうど」、「あきびと」、「あきゅうど」ともあります。「あきゅうど」の解説に「あきんど」、「しょうにん」とお馴染みの読み方が出てきます。

 

あき‐うど【商人】

⇒あきゅうど

あき‐びと【商人】

「あきんど」に同じ。 「いはばの良ききぬ着たらむがごとし」〈古今・仮名序〉

あきゅうど【商人

《「あきびと」の音変化》あきんど。しょうにん。あきうど。〈日葡〉

大辞泉

広辞苑』でも、「あきうど」、「あきびと」、「あきゅうど」、「あきんど」についで五番目に「しょうにん」が出てきます。

しょう‐にん【商人】シヤウ

 商業を営む人。あきんど。続日本紀26「諸人等詐イツワつて―と称して」

 商法上、自己の名をもって商行為を行うことを業とするもの。

 ―‐こんじょう【商人根性】 ジヤウ

広辞苑

Photo_4 商売をすることを、「あきなう」といいます。ここに「あきうど」の語源があります。

この「あき」は「」を意味するそうです。

「秋」については先日書きましたので、見落とした人は「秋の字源・漢字の成り立ち」について考えるをご覧ください。

秋は収穫の季節です。秋に収穫物を中心に物資のやりとりを行う事から、「秋に行う」が転訛して「あきなう」になったそうです。

農耕民族ならではの発想です。(「秋ナウ」、今は秋ではありません。)

あきなう」の名詞形が、「あきない」です。その「あきない」のために秋にやってくる人のことを「秋人(あきびと/あきうど)」と呼んだそうです。それが転訛して「あきんど」となったのだそうです。

平安中期の辞書『和名抄』には「あきひと」が商人の意味で掲載されているそうです。

古今集』では、「詞(ことば)たくみにて、そのさま身におはず。いはば、あきひと(商人)のよき衣着たらむがごとし」とあります。

」の字は、元々中国の紀元前1200年頃、「周」に滅ぼされた「」の別名として用いられた漢字だそうです。(自らは商と名乗っていたそうです。)

Photo_50001 「商人(殷の人)」は物の売買に長け、殷王朝が滅んだ後も中国各地で活躍して経済を発展させたといわています。このため商売は「商人(殷の人)」の手に握られ、物の売買を職業とする人自体を「商人」と呼ぶようになったそうです。

そこから、「商」は「物の売買」を意味する漢字として使われ始め、日本語の「あきんど」にも当てられたと考えられています。

「商人(しょうにん)」という音読みは元々の日本語にはなかった言葉だったようです。

★商:漢字の成り立ち★

商=辛 + (高い台) + 口  

 大きな針(刃物)を台の上に刺して下に祝詞を入れた器を置いて祈る神意を問う、神にはかる取引をするあきなう

Photo_3

鋭い刃物。刺されると痛いので「つらい」、刺すような味は「からい」

Photo_2

したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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