多くの自治体では小学生のための、郷土資料館を設けている。かなりの数の郷土資料館を見てきたので、東京とその郊外の展示物の差に気が付く。東京という都市は戦災・震災と交通網の発達で膨張していて今でもその広がりがタワマンとかで上に伸びている。
展示物は小学生の祖父母の時代からの品が多く、想像だが祖父母が孫を連れて郷土資料館で昔話をしている姿が見える。戦後の10年位は小学校は木造校舎が残っていたが火災と地震のため、コンクリ-ト製の建物となった。今は耐震と災害時の避難施設ということで建て替えが始まり、少子ということで余った小中学校は高齢者施設に転向することが流行りのように見える。多くの所でちゃぶ台が今の中心と見える。昔の飯食いドラマの記憶が残る。一家の人数が減り、マンションと言われる部屋は70m2程度の広さでは、昔の木造家屋は広い。まだウサギ小屋の展示は見えないが取り壊された中銀の銀座カプセルは何処に行ったのだろうか。
戦後の物として、ラジオ・冷蔵庫・扇風機・テレビ(ブラウン管・白黒)蓄音機とレコ-ドなどは見学している子供が親に聞いている姿が見える。
郊外の郷土資料館に行くと、まだ農家があって、昔と言っても50年前の農機具が展示されている。農業の機械化は戦後まで目立っていないので、郷土資料の農機具は江戸時代を感じる。何か効率の悪い世界と思いつつ、お祭りの盛大なことに気が付く。武士の統治策といざ戦闘になると予備兵力にするのだろうか。幕末の草莽の兵士は武士階級の人でない人の記録が見える。刀は訓練だが銃と砲は体力と感じた。浦賀の砲台の弾の重さが200kをこえ、上に持ち上げ、砲に入れる。何人で運び装填するのだろうか。米俵は60kと言われるが普通の人でも2俵は運べたと思う。日本はコメという食料の国と思う。
地域の郷土資料で気になるのが地名。文京区の郷土資料館の側に、真砂図書館がある。ここには大正5年の東京市の電話帳がある。叔父の親戚の電話を探したが、大正10年の電話帳に載っていた。下町の調査では地籍図よりの火災保険の算定のための地図を良く出される。
地名のこだわりは地域の長老が商人系はこだわりが強い。農家も同様な気がする。真砂の地名の由来が図書館の側にある。有名な( 切れろ、別れろは芸者のときにいう言葉)というセリフが出てくる芝居を思い出す。