年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

銀座のセイコ―ミュ-ジアムで

2023年11月24日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
あと二年で戦後80年となる。そこで特攻で亡くなった叔父の調査を終わらせようと企画している。南九州の知覧特攻平和会館の収蔵庫に特攻兵士の遺品とか遺書が収蔵されているが叔父の遺品等はない。台湾から出撃した仲間はある。この件で今でも生きている同期の妻となった人と知り合い、聞いたところ遺書等はほとんど書いているという。そこでなぜ叔父だけが遺品等が皆無のだろうかと思った。確かに叔父の母は字が読めなかったと思っていた。確認したところ頭が良い人で当時の農村では女性が学問すると生意気と言われていて、すぐに嫁にだされたようだ。叔父と私の父の生母の出身地は低地にある村で江戸川が大水だと排水できない水田の村であった。
 この件を親族に聞きまわっていて気が付いたのが、親族の人は昭和20年1月に叔父が一時帰郷した時に初めて飛行機の兵士と知ったように思える。つまり昭和18年9月に陸軍特別操縦見習士官の試験に家族に無断で受験したと思われる。その理由として川辺小学校の校長先生に進路相談した所、千葉県野田市の野田農工学校で農産加工を学び、その後埼玉師範学校で小学校の先生となり、農家の子女のため小学校で学問と基礎的農業知識を教えることになったようだ。
 時局がその夢を砕いたが、航跡から抵抗していた姿が見える。
昭和18年9月6日の毎日新聞埼玉版で陸軍と海軍の試験のが売閣発表が記事として載っていた。(埼玉県文書館)この新聞には陸軍の合格者は10名で叔父の名前が無かった。不合格を狙っていて、家族には失望させないと思っていた。
 特攻で死亡後に遺品が南桜井駅に戻ってきたときは多くの人が駅に出迎え、英霊とされた。敗戦後にまた遺骨(空箱.遺髪か石ころ)が戻り、引き取りのため駅に行っても家族以外は誰もいないし、無駄死にと言われていた。鬼畜米英といったいたが南桜井駅付近にアメリカ占領軍の兵士が常駐していて親切であったためだった。
 この時代の南桜井村の聞き書きを埼玉県立庄和高等学校の生徒の部活の本がセイコ―時計資料館に所蔵され、その本を古書店から購入した。
 精工舎の時計工場が南桜井駅前に移転した経緯は精工舎の社史が今でもないのではっきりと書けないが、この部活の本でおおよその事を知ることが出来る。敗戦直前に東京の空襲を予想し、精工舎は工場の疎開適地を探していたようだ。そこで選ばれたのが南桜井だった。終戦間際に工場が稼働していて戦災被害が無かった。昭和20年3月10日の東京大空襲では墨田区大平の精工舎の工場から南桜井に多くの人が移転していて、東京の家に向かった人が亡くなった。杉戸町図書館で所蔵している庄和町と東京大空襲という本で内容が知ることが出来る。
 この部活の本を知覧に届けて、叔父の霊に言い訳として納本したい。そこで万引きや窃盗本でない証明をセイコ―ミュ-ジアムの人に依頼した。この流出の件の説明があって、毎年増える文献から定期的に古書店と契約し処分しているという。そこでこちらの懸念を話した。古書店はいつかは消える。しかし知覧の平和会館は50年・100年以上も残る。精工舎の所蔵本の由来も記憶から消える。しかしこの本が叔父の遺書と遺品の無い理由を簡単に説明できる。
 まだ完全な証拠はないが地域の秘密を守るため処分したと思われる。この遺品処理を知った私の父は怒り、特攻隊員と選ばれた叔父の最後の宴会写真が父の写真帳に残っていた。他の親族にはこの写真はない。そしてここ写真で多くの人と知り合った。
 
コメント
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